しかし、これらすべてを認めた上でなお、女性は懇願します。そしてイエス様の使われたパンのたとえを取り上げて、子犬でも余ったパン屑はいただくではありませんか、と機知に富んだ反論をしたのです。
この答えにイエス様は大変感銘を受けられました。28節「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒やされた。」こうして急転直下、話は解決し、ハッピーエンドが訪れたのです。
ここで「あなたの信仰は立派です」と訳されている部分は、原文を直訳すると「あなたの信仰は大きい(メガス)」となります。新約聖書の中でこの表現が使われているのは、この箇所しかありません。逆にマタイ福音書では弟子たちについては「信仰が薄い」と言われることが多い(直前では14・31)のですが、こちらは文字通りには「信仰が小さい」という意味の表現です。
先ほどから繰り返しお話しているように、イエス様が来られたのは神の選びの民であるイスラエルを立て直すためでした。しかし肝心のユダヤ人たちは信仰が小さい者であることが繰り返し露呈します。このカナン人は異邦人であり女性であるという二重の意味で、当時のユダヤ人男性から見れば見下されていた存在ですが、その彼女が、誰よりも大きな信仰を示したという皮肉が、この話には込められています。
先ほど、このカナン人女性の信仰にイエス様が感銘を受けたと言いましたが、それでは言葉が足りないかも知れません。ある意味でイエス様は彼女の信仰に驚き、衝撃を受け、そして誤解を恐れずに言えば、変えられたと言っても良いと思います。
私たちは神様やイエス様はすべてをご存知であり、したがって驚いたり考えを変えたりすることはない、と考えるかもしれません。けれどもこれはギリシア哲学的な神概念から来ている考え方であって、聖書をよく読んでいくと、神様が考えを変えたり、驚かれたりすることについていろいろと書かれています。創世記の22章では、神様がアブラハムにそのひとり子イサクを献げるように命じられて、彼がイサクをまさに殺そうとしたその時にこれを止めて、「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」とおっしゃいました(創22・12)。マタイの福音書の8章でも、イエス様が異邦人である百人隊長の信仰に驚かれたと書かれています(10節)。ですから、イエス様がこのカナン人女性の信仰に驚かれたとしても不思議はありません。
そもそも、この話をよく読んでいくと、最初からイエス様には葛藤があったように思われます。イエス様も思い悩まれることがある、ということは、ゲッセマネの園で、できることなら十字架にかかることを避けたいと祈られたことからも分かります。
この女性が来て叫び続け、弟子たちが彼女を去らせるように願った時も、イエス様はただちに彼女を追い払うことはしませんでした。主は当然イスラエルのメシアとしての使命をご存知であり、異邦人の時はまだ来ていないことを知っておられました。しかしそれと同時に、眼の前にいる、苦しんでいる娘を持つ母親の切なる願いに対して、熱いあわれみの心を持たれたのもまた、確かです。イエス様はこの二つの思いの板挟みで苦しんでおられたのではないでしょうか。24節の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」という言葉は、数学の公式を客観的真理として教えるような、何の感情もこもらない落ち着き払った答え方ではなかったと思われるのです。私はこの言葉を発した時のイエス様の顔は、苦しみに満ちていたのではないかとさえ、想像します。
この状況を打破して、ある意味でイエス様をこのメシアとしてのジレンマから解放したのが、この女性の信仰でした。彼女は粘り強く知恵に満ちた交渉を通して、イエス様の考えを変えたのです。これも驚かれる方がいるかもしれませんが、旧約聖書の中ではモーセのような偉大な信仰者が民のために神様にとりなし、神様と駆け引きをして、ついにはその御心を変えさせたと記されている箇所がいくつもあります。ですから、これは聖書的な信仰のパターンと言えるのです。
このカナン人の女性とのエピソードの後、29節以降を見ていくと、イエス様は大勢の群衆を癒やされ、4千人の人々にパンと魚を食べさせるという奇跡を行われます。14章では、5千人の人々を養う奇跡が記録されています。なぜ同じような奇跡が2つも記されているのか、不思議に思われるかも知れません。けれどもこの2つの奇跡には異なる象徴的意味があります。多くの学者は、5千人の給食はイスラエルの養いを、そして4千人の給食は異邦人の養いを表していると考えます。詳しい議論は省略しますが、マルコの福音書にある並行箇所と比べて見ると、ここでイエス様が病をいやし、食べ物を与えられた人々は、ガリラヤ湖のほとりのデカポリスと呼ばれる地方に住む、異邦人であったと考えられます。
このような異邦人に対する目覚ましい働きが、カナン人女性との出会いの直後に置かれているのは驚きです。この女性に対しては、最初いくら頼まれてもイエス様はその願いを聞き入れませんでした。けれども、この時はイエス様の方から積極的に異邦人に働きかけておられるのが分かります。病気の人々が御前に来ると頼まれなくても彼らを癒やされ、また群衆が空腹で弱り果てているのをご覧になると、あわれみの心をもって進んで彼らに食物をお与えになりました。これはカナン人の女性を冷たくあしらったイエス様とは別人のようです。
何がイエス様を変えたのでしょうか? それはあのカナン人女性の信仰でした。彼女との出会いを通して、イエス様は変えられたのです。時々、イエス様はすべてをご存知の上で、この女性を試したのだ、と言われることがありますが、私はそうは思いません。そういうイエス様はあまりにも冷たいように思えますし、もしそうだとすると、この女性と別れた後のイエス様の行動の変化も説明できないからです。
カナン人の女性は「主人の食卓から落ちるパン屑」でも十分ですと言ってそれを求めました。けれどもその後、4千人(女性や子どもたちを入れると実際にはその数倍)の人々がパンに食べ飽きるようになったのです。イエス様によって異邦人に与えられる「パン屑」とは、それほどにも豊かなものだということです。
イエス様は彼女に「あなたの願う通りになるように」と言われました。彼女の願っていた通り、娘は悪霊から解放されました。けれども、ここで叶えられた願いはそれだけではありません。彼女が願ったもう一つのことがありました。それは子犬が主人の食卓から落ちるパン屑をいただくこと、すなわち異邦人がイスラエルのメシアから祝福をいただくということでした。この願いもまた、おそらく彼女自身の想像をはるかに超える規模で叶えられたのです。それは彼女の「大きな信仰」のゆえでした。
神の民イスラエルにまず救いがもたらされ、そのようにして回復したイスラエルを通して異邦人が祝福されていく、という神様のご計画の大筋は変わりません。この後マタイの福音書を読んでいっても、そこからイエス様が異邦人とユダヤ人に対して平等に働きをされたとは書かれていません。やがてイエス様はエルサレムで十字架にかかって死んで復活され、そうして初めて弟子たちを全世界に遣わして、正式にあらゆる国の人々を弟子とするように命じられます(28・19)。
けれども十字架以前でさえ、神様のお働きは杓子定規に進められていくものではありません。神様はご自分で定めたルールさえも、愛のゆえに逸脱することを辞さない神様なのです。ある人はこれを「はみ出す愛」と表現しました。イスラエルに注がれる有り余るほどの祝福は溢れて異邦人にも流れていきます。そしてそのような祝福は、この女性が示したような信仰を通して受け止めることができるのです。
私たちの信仰は大きな信仰でしょうか、小さな信仰でしょうか。私たちは自分の願うようなことが起こらない時、「御心がなりますように」とさも敬虔そうに祈ることが多いですが、もしかするとそれは「どうせなるようにしかならない」「こういうことについて祈り求めるのはふさわしくない」「自分のような者の祈りを神様が聞いてくださるはずがない」という諦めの裏返しなのかもしれません。けれども神様は私たちがもっと大胆に求めて行くことを願っておられると思います。最後に、イエス様の山上の説教からお読みします。
マタイ7・7―11「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」
これは単なる積極思考ではありません。それは、私たちを祝福しようとしておられる神様の絶大な愛と恵みに対する信頼の姿勢なのです。私たちも、このような大きな信仰を持つ者になりたいと願います。
最後に一つだけ注意しなければならないのは、この大きな信仰というのは、神様のはみ出す愛と不可分だということです。信じて祈り求めればなんでも叶えられるんだ!と考えると、それは「繁栄の福音」のように自分の欲を満たすために神様を利用するような、そういう危険な信仰になっていく可能性があります。けれども、このカナン人の女性がイエス様にあれだけ熱心に求めたのは、苦しんでいる娘を救いたいという愛の心からであったことを忘れてはいけません。
そしてそのような大きな信仰は、ご自分が定めたルールさえもはみ出して、苦しんでいる人々、弱い人々、この世の中の貧しい人々に祝福を与えたいと願っておられる神様の愛と呼応して働くものになったということです。ですから私たちは、この神様の大きな愛に信頼しつつ、大きな信仰を持つ者となっていきたいと願わされます。
最後に一言お祈りいたします。
天の父なる神様、み名を賛美いたします。今日はこの新約聖書の中でも非常に難解と思えるような箇所から、あなたのみことばを聞いてまいりました。普通でしたらあなたの祝福をまだ受ける時ではなかったカナン人女性でさえも、大きな信仰を持つことによって、あなたから祝福を受け取ることができました。
けれどもそのことが可能になったのは、そもそもあなたが大いなる愛のお方であって、ご自分が定められたルールでさえも踏み越えて、溢れるばかりの祝福を注ぎたいと願っておられる方であることに信頼していたからであると思わされます。
どうか現代の私たちも、あなたが私たちに注いでくださっている愛の大きさを過小評価することがないように、私たちの信仰を大いなるものとしてください。そして大きな信仰を持ってあなたに大胆に求め、そしてあなたを愛し、隣人を愛して歩んでいくことができるように助けてください。
尊き主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。