2024年9月15日(日)山崎ランサム和彦師
マタイの福音書 15章21―28節
“ イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。”
久しぶりに新城教会で共に神様を礼拝できることを感謝します。先ほどお読みいただいたエピソードは、多くの人が戸惑いを覚えるような内容ではないかと思います。基本的にはこれはイエス様が悪霊につかれて苦しんでいる少女を癒やされたという奇跡物語なのですが、この癒やし自体についてはほんの少ししか触れられていません。話の焦点は、イエス様と少女の母親の会話にあります。問題は、娘の癒やしを求める母親の願いを、イエス様はなかなか聞き入れなかったということです。しかもその理由は、彼女がユダヤ人ではないから、というのです。
私たちは、イエス様はすべての人の救いのために来られた方で、どんな人も分け隔てすることなく、愛をもって接してくださり、困っていれば助けてくださると考えると思います。ところが、この話の少なくとも前半で描かれているイエス様の姿は、そのような私たちの期待を裏切るようなものであるように感じてしまいます。これは一体どう考えたら良いのでしょうか?
マタイの福音書によると、イエス様は公の宣教活動の前半はパレスチナ北部のガリラヤを中心に活動しておられました。今日の箇所ではイエス様は「ツロとシドン」の地方に行かれたと書かれています。これはガリラヤよりもさらに北の地中海沿岸地方で、ユダヤ人ではない異邦人がたくさん住んでいる地方でした。イエス様が何の目的でそこに行かれたのかは書かれていません。いずれにしても、主がそこにおられた時、「その地方のカナン人の女」がイエス様のもとにやってきた、というのです。
「カナン」というのは旧約聖書の中で、アブラハムの子孫であるイスラエル人に与えられた約束の地の名前で、「カナン人」は、イスラエルがカナンに住み着く前にそこに住んでいた原住民を指しました。したがって、この言葉には神の民イスラエルに属さない人々という意味合いがあるばかりでなく、多くの場合イスラエルに敵対するという否定的な意味合いが込められています。「カナン人」という言葉は新約聖書でこの箇所だけにしか出てきません。マルコの福音書にも同じ話が収められています。それを並行箇所と言いますが、そこでは彼女は「ギリシア人」と呼ばれています(マルコ7・26)。福音書記者のマタイは、「ギリシア人」や「異邦人」といった表現ではなく、あえて「カナン人」とこの女性を呼ぶことによって、彼女が神様の契約の民イスラエルに属していない存在であることを強調しているようです。
彼女はイエス様のところに来ると、悪霊につかれた自分の娘を癒やしてくださるようにと懇願しますが、イエス様は一言もお答えになりませんでした。マタイはこの女性が「叫び続けた」と記しており、彼女が繰り返し大声でお願いし続けたことが分かります。それにもかかわらずイエス様が黙っておられるので、その場の緊張がどんどん高まっていく様子が想像できます。
それに耐えられなくなったのでしょう。弟子たちが間に入ってイエス様に願います。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」ここで弟子たちは、単に彼女を追い払ってくださいとお願いしているというよりも、早く彼女を癒やしてあげて去らせてくださいと言っているように思えます。
これに対してようやく口を開いたイエス様は24節で「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」とお答えになります。この言葉はとても重要な意味を持っているのですが、それを理解するためには、聖書全体のメッセージを背景として頭に入れておく必要があります。
聖書は手紙や詩や物語など、いろいろなジャンルに属する66巻の本が含まれるコレクションですが、全体として、天地創造から新天新地に至るまでの、神様の救いのドラマを物語っていると考えることができます。ドラマならばあらすじがあります。聖書全体のストーリーラインを知っておくことは、今日の話だけでなく、どんな聖書箇所の意味を正しく理解するためにも重要なことですので、少しの間お付き合いください。
「はじめに神が天と地を創造された」(創1・1)というのは有名な聖書の冒頭の言葉ですが、神様はこの世界を良いものとして造り、さらに私たち人間をも造ってくださいました。
人間は何のために造られたのでしょうか? 創1・26には次のようにあります。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』」つまり、私たち人間は、神様が造られた良い世界を、地上における神様の代理人として管理するために造られたことが分かります。
ところが、人類はその後罪を犯して神様に反逆し、被造物世界の良き管理人としての役割を放棄してしまいました。これを「堕落」と言います。その結果、人間自身が神様から離れて不幸になってしまっただけでなく、私たちが管理を委ねられていたこの世界も混乱の中に陥ってしまったのです。この状態をパウロはローマ8・22で「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」と語っています。
神様はこのような人類を救い、全世界を回復するために、イスラエルという民族をご自分の民として興されました。イスラエルの始祖であるアブラハムに神様はこう語られています。創12・2―3「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
ここで神様がアブラハムの子孫であるイスラエルを祝福するだけでなく、イスラエルを通して地のすべての部族を祝福する、と言われているのに注目しましょう。神様のご計画は最初から、イスラエルだけを祝福することではなく、全人類を祝福することでした。そして、人類が祝福されれば、被造物世界の良き管理者としての務めも果たせるようになり、神様の創造の目的、すなわちこの世界全体を通して神様の素晴らしさと栄光が表すという目的が成就されることになるのです。
ところが、ここでまたしても問題が起こりました。世界の救いのために用いられるべきイスラエル自体が罪を犯して神様に背いてしまったのです。彼らは神様から与えられた律法を守らず、その結果呪いを受けてバビロンに捕囚になってしまい、その後も苦難の歴史を歩むようになってしまいました。ですから、世界全体を回復するという神様のご計画が前進していくためには、まずイスラエルを立て直す必要が出てきたのです。
旧約聖書では、そのようなイスラエルの回復は、メシアと呼ばれる王によってなされると考えられていました。メシアによってイスラエルが回復すれば、再び神様の祝福が異邦人にも流れるようになり、全人類が回復し、やがてはこの被造物世界全体の回復につながる、ということです。ちょうどオセロゲームで盤面がほとんど真っ黒になっていても、白い駒を一つ置くだけですべてが白になっていくようなものです。
もうお分かりかと思いますが、そのメシアとして来られたのがイエス・キリストです。「キリスト」という言葉はイエス様の名字ではなく、ヘブル語の「メシア」をギリシア語訳した称号で、「油注がれた王」という意味です。ここで大事なことは、メシアとしてのイエス様の働きの第一の目的は、神の民イスラエルを回復してその王となられることだ、ということです。
現代の私たちは、イエス様は全人類の救い主だと考えます。その理解はもちろん間違ってはいません。十字架にかかって死んで蘇られたイエス様は全世界の主となられました。けれどもそこには順番があります。異邦人に神様の祝福が広がっていく前に、まず神の民であるイスラエルが回復されなければならないのです。ですから、十字架にかかる前のイエス様の働き、すなわち福音書に書かれているイエス様の宣教活動のほとんどは、イスラエルすなわちユダヤ人への働きに集中しているのです。
ちなみに、このようにしてイエス様によって回復したイスラエルがキリスト教会のルーツです。イエス様をイスラエルのメシアすなわちキリストと信じたユダヤ人の弟子たちが、回復した神の民イスラエルの中核となり、そこに私たちのような異邦人が加えられて、今日のキリスト教会に発展していきました。したがって、聖書における神の民イスラエルと今日のキリスト教会はつながっているのです。このことは、現代の世界情勢、特にパレスチナで起こっているできごとを考える上でもとても大切です。時間の関係で詳しくお話しすることはできませんが、聖書から考えると、現在のイスラエル国家とその政府を聖書の神の民イスラエルと単純に同一視することはできない、ということです。なぜなら、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストを主と信じて従う教会こそが、アブラハムの霊的子孫すなわちまことの神の民イスラエルだからです。
マタイの福音書に話を戻しますと、イエス様が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」(15・24)と言われた背景には、このような聖書全体を貫く神様のご計画に対する理解があった、ということです。神様の救いが実現していくには決められたステップがあります。まずは神の民イスラエルつまりユダヤ人の回復がなされ、その後に初めて異邦人にも祝福が及んでいく、ということです。そしてこの時点では、イエス様の働きはユダヤ人に絞られていて、異邦人の時はまだ来ていなかったのです。
しかし、話はここで終わりません。カナン人の女性はそこで諦めませんでした。25節にあるように、彼女はさらにイエス様の前にひれ伏して懇願します。それでもイエス様は首を縦に振りません。そしてこうお答えになります。26節「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」ここで「子どもたち」はユダヤ人、そして「子犬」は異邦人、特にこのカナン人女性を指しています。「犬」というのは、当時のユダヤ人が異邦人を蔑んで呼んだ言い方でした。ここでも先ほどの24節で語られたイエス様のイスラエルのメシアとしての使命が、より差別的にも聞こえる表現で繰り返されています。ここまで言えば、このしつこい女性もさすがに諦めるだろうと思われたのかも知れません。
ところが、これに対する女性の応答はじつに驚くべきものでした。27節「しかし、彼女は言った。『主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。』」
この女性はユダヤ人ではない異邦人でしたが、それでもイスラエルのメシアとしてのイエス様の使命について、そして神様の救いの計画の展開とその順序について、深く理解していたことが分かります。そもそも彼女が最初にイエス様に呼びかけた時も、「ダビデの子」(22節)という表現を用いて、イスラエルのメシアとして呼びかけています。そして、イエス様の働きはまずイスラエルに向けられており、今はまだ自分のような異邦人の時ではないということも認めています。これ自体、当時の異邦人としては驚くべき洞察だったと言えます。