正しすぎてはならない

2024年12月1日(日)新城教会牧師 四元雅也

伝道者の書 7章16-18節

16 あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

17 あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

18 一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。

ハレルヤ。感謝します。皆さんの前でお話しできる機会が与えられましたことを感謝します。今年も十二月に入って、残り一か月となりました。本当に早いと思います。最近は寒くなって、風邪も流行っていますし、ある整体師さんが言うにはぎっくり腰も流行っているそうです。寒くなって体も硬くなり、急に動かすと危ないです。皆さんもぜひお気を付けください。私も気を付けないといけないと思います。

 

クリスマスシーズン到来ということで、今日も教会ニュース・クリスマス号をお届けしています。皆さんもぜひこの機会に多くの人を連れてお越しください。一つ一つの集会が祝福されるようにお祈りください。

今度の日曜日から「クリスマスは教会で」という伝道集会がスタートし、二十五日の水曜クリスマス礼拝まで、毎週クリスマスの集会が行われていくことになりますので、覚えてお祈りしていきましょう。十四日には素晴らしいコンサートが行われます。絶好の伝道の機会を生かして励んでいけたらいいと思います。

 

クリスマスはイエス様が生まれたことを記念して、お祝いするときです。イエス様は完全に神でありながら、人としてお生まれになりました。イエス様の誕生日は本当のところはわかってはいませんが、この地上に人となってお生まれくださったことは、確実なことです。そして出産は神の御子としてふさわしい生まれ方をしたかと言うと、人間的に見ると全く違いました。イエス様がお生まれになったのは家畜小屋だったようです。マリアとヨセフはベツレヘムへ行って、住民登録をしなければならなくて街に来ましたが、旅館では部屋に入ることができず、家畜小屋でイエス様はお生まれになったようです、その時の光景を思い浮かべてほしいと思います。

当時の出産はしゃがんで産むのが一般的だったようです。イエス様を取り上げたのはマリアの夫ヨセフだったと思われます。イスラエルでは男性は出産に立ち合ってはいけないし、見てもいけない、お産をする部屋には入室禁止だったようです。おそらくヨセフは以前に出産に立ち合ったことがなかったと思います。ヨセフにとって赤っちゃんを取り上げることはまったく未知の領域であり、とても恐怖だったと思われます。

 

私は家内と二十九年前に結婚して翌年に長女が生まれました。これは二か月ぐらいの写真です。面影ありますよね。

現代は多くのご夫婦は立ち合い出産をすると思います。私も立ち合い出産しました。その時はなかなか出てきてくれませんでした。家内は何時間も苦しんでいました。助産師さんから「ご主人、おなかを力いっぱい押してください」と言われて家内のお腹ぎゅうぎゅう押したり、呼吸を一緒にするように言われて」大真面目に隣で『ひーひー』やりました。また、ここでは言えないような強烈な光景を目の当たりにして、娘はやっと生まれてくれました。もちろん一番大変だったのは家内で私は何にも役に立つことができませんでした。そのせいかわかりませんが、二人目までは立ち会えたのですが、三人目と四人目は立ち会うことができませんでした。家内は三人目になるともうベテランで、私の存在はどうでもよかったか、むしろ邪魔だったようです。私は分娩室の外で、今か今かと待っていたんですが、そうこうしているうちに泣き声が聞こえてきてしまいました。助産師さんに聞いたら、家内は「もう夫を呼んでこなくてもいいです。私は一人で産みます」と断ったそうです。それぐらい私はいなくてよかったそうです。今でも時々思い出して残念だったなと思って、つい家内に「中に入れてほしかったよ」と嫌味を言ってしまいます。本当にともかくイエス様がお生まれになったとき、ヨセフは初めて、設備も整っていないところでイエス様を取り上げたのです。

もしもイエス様が生まれた時にヨセフが受け損なったり、その後の処置を誤ったりしたら、人類の救済計画も台無しになっていたかもしれません。考えるにつけとても危ない状況だったと思うのですが、イエス様は何とか無事にこの世に生まれたのです。動物たちも一緒にいる家畜小屋で、寝かせるベッドがないので飼い葉おけにイエス様は寝かされました。

今だったらこのように空調も効いているところですが、もっともへりくだった形でお生まれくださった。イエス様は父子聖霊なる唯一の神様の第二格の存在でありながら、完全に弱い人間として、おっぱいを飲ませてもらったり、おしっこやうんちなど両親からお世話をしてもらわなければ死んでしまう、私たちとおんなじ人間として生まれてくださった。本当にすごいことだと思います。

 

なぜ、イエス様は神様でありながら、人として生まれてくださったのか、イエスの人間性が神性・神としての性質と共存するという考えは、限界のある人間の頭では、理解するには困難です。

これは理解するのではなくて、信じ受入れなければならないことです。イエスのご性質―完全に人間で、完全に神であること-は聖書をみれば明らかに書かれています。

イエス様が人間として生まれてこなければならなかった理由はいくつかあると思います。一つはガラテヤ人への手紙四章四-五節にあります。

 

“しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。”

 

人間だけが律法の下に生まれることができました。どんな動物もみ使いたちも“律法の下”にはないのです。 人間だけが、律法の下に生まれるのです。律法の下に生まれた人間を同じ人間だけが贖うことができました。神の律法の下に生まれた人は、すべてその律法に違反しています。神様から律法を与えられ、律法の元にあるイスラエル人の中で、完全に人間として生まれたお方-イエスキリスト―だけが、完全に律法を守り、完全に律法を成就することができました。それによって、私たちをその罪から贖うことができたのです。イエス様は十字架で私たちの贖いを達成されました。私たちの罪をイエス様の完全な義と交換してくれて私たちが義と認められることが可能になりました。

コリント人への手紙五章二一節

 

“ 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。”

 

イエス様は人として地上に生まれ人生を歩まれることを、私たちの罪を贖うため、自分が犠牲となって人間を救うために通らなければならない道として選ばれて、生まれてくださった。私たちはそれを認めて、神様に感謝する。それが、クリスマスの本当の意味です。

 

十四日にクリスマスコンサートが開催されます。今年も豪華なメンバーがゴスペルを届けてくださいますので、楽しみです。毎年素晴らしいコンサートが開かれています。

ティム・ケプラーさんがコンサートでよく歌われる曲に「フレンド・オブ・ガット(私は神様の友だちです)」がありますが、私はこの曲が好きです。「神様が友達だ」っ て言える、このような概念はキリスト教にしかないのではないかと思います。曲の途中で「全能の神、永遠の主が、私を友と呼んでくださる」というくだりはとても感動的です。サビの部分で「私は神様の友だちです」と何回も繰り返して高らかに歌うことができるのは、イエス様が人として生まれ、生き、十字架で死んでくださったゆえです。多くの方に伝えていきたいと思います。

私たちは心から、イエス様のご降誕を主に感謝し、主に愛される喜び、救われたことを感謝して、信仰を新たにこの時を過ごしたいと思います。

 

さて、二〇二四年もあと一か月で終わります。本当に早いものだと感じます。

この一年間、皆さんにとってどのような年だったでしょうか?

今回、私は二〇二四年の最後に、この年三回目の礼拝メッセージの奉仕を承りました。

それで、昨年末のカウントダウン聖会から、私がさせていただいたメッセージを読み返してみましたが、それぞれのメッセージにつながりがあるような印象を受けました。そういう意味で、神様からこの一年を通して伝えるべきメッセージを与えられ、お話しさせていただいたのかなと感じました。もちろん、礼拝の中の大切な時間を預かって皆さんの前でお話ししますので、そうあることが当然のことだと思います。でも、自分を見ればとにかく足らない者だと思うので、それでも主が用いてくださったのなら嬉しいことです。

 

昨年末、私は、カウントダウン聖会の中で、エペソ人への手紙四章一節~三節のみことばからお話しさせていただきました。

 

“さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。”

 

ここでパウロは、「主にある囚人の私」と言っていますが、これはパウロがエペソ人への手紙を書いたのは獄中であったと言われています。それで、「主にあって囚われの身である私」と言い、エペソの人たちに、「あなた方も主にあって召されている(いわば奴隷のような者)のですよ」と言ったわけです。主の囚人パウロと同じように私たちは召されている者です。そして、「召されたその召しにふさわしく」とは、みなさんそれぞれに召された役割があるということです。

 

しかし、二節にいくと視点が変わり、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平 和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」と言うのです。一節では、神さまと自分との間、召した方と召された者としての視点から、一転して召された者たち同士横の繋がりへと視点が変わるのです。そして、時間の関係で開きませんが四節から一六節までこの文脈が続きます。

神さまの召しによって選ばれ、一つの御霊によってバプテスマを受け、信仰は一つ、信じている神さまも一つであると。神様を中心に私たち互いが「一つである」「一致する」という言葉が一六節までに七回出てくるのです。「キリストのからだなる教会」という一つの共同体の一員として、「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」と書いてあるわけです。

 

このみことばの中から、召された私たちがその召しに忠実に真剣に向き合って歩んでいくのですが、それは個人プレーで、ただ進んでいけばいい、「私と神さまとの間で、神さまがこの働きをゆだねてくださったのだから、私はわき目を振らず前進するのみです!他の人は関係ありません。」ということではなくて、神さまの働きの中でお互いが一致し合っていきましょうね!と勧められている、とお話ししました。

 

順先生を通して、天の教会と地の教会が一つであると、スタジアムのイメージで語られます。その中で私たちは、私たちの役割として委ねられた働きがあります。私たちがスタジアムの中で競技者として働いていますが、観客席には応援隊が私たちを見ていて、一生懸命応援している。

このスタジアムを歴史を貫いた世界大のキリストの体としてとらえると、そこには私たちの知らない競技者たちがいて、中には私たちの持っている信念とは相いれないような人たちもいる。丁度甲子園ミッションの時にクリスチャンの中にもこれに賛同しないばかりか反対する人たちがいたように。しかし、神の国全体は、そのような中に大きなキリストの腕となり声となり、力強く働いている。私たちは敵を愛し、敵のために祈りなさいとみことばに書かれているように、私たちの理解を越えたところにある主ご自身のご計画・み思いの中で生かされていることを心に刻まなければなりません。