「神の国のために戦おう!」

しかし、今お話ししてきたように、歴史を通して神さまの現された計画の偉大さを見る時に、イエスさまがなされたこと、十字架刑とその後のよみがえりが、仮に歴史的な背景がなく、イエスさまが突然現れて、成り行きの中で十字架にかかり、成り行きの中で復活された。イエスさまが本当に神の子であって、その行った業が事実であったとしても、今生きる私たちがそのことを真実で私たちのためのものだと実感することはできないのではないかと思います。前振りの歴史がなく、突然それらが起こったとしたら、どこかの新興宗教の教祖が「私は神に出会いました。」とか、「私は神から遣わされました。」というのと変わらない。そういう人は世の中にいっぱい出ています。そして、ありがたいと思われるような教えを語って信者を集めるようなことがよくあります。その教えには重みがないわけです。そうではなくて、旧約聖書を通して、歴史の中で生きておられる神さまを見て、その神さまが千年以上にわたって、イスラエル民族を通して周到に計画された人類の救済計画があって、それをイエスさまが実現された。暦も踏まえて、日にちも合わせて、旧約聖書の出来事を完全なものとして成就されたことを、私たちは旧約聖書に目を向け暦に目を向ける時に、発見することができるわけです。だから暦が重要な意味を持ったものだということを私たちは知らなければなりません。

ヨハネの黙示録十二章一〜二節をお読みしたいと思います。これは聖書の最後の書巻です。冒頭にお読みしたみことばの前の部分です。

『また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。』

黙示録は難解な書と言われます。ここに一人の女が出てきます。この女のイメージは、
 なんじゃこりゃ?というものです。太陽を着て、月を足の下に踏んで、頭には十二の星の冠をかぶっていたと。こういうイメージを見るとちょっとやっぱり異様ですね。普通ではない。これは何だろうか?と考えます。ある人はこのことばを、「未来に対する予言だ!この時代のこの人物を女は現しているんだ!」みたいに解釈したりして、ますます訳が分からなくなるというようなところがあるのですが、このイメージを理解するために、旧約聖書に目を留めると、理解の助けになるんです。
最近皆さんタブレットかスマホで聖書をお読みになる方も多いですけど、紙媒体の聖書、本の聖書を見ますと、この女について書かれている所に小さく数字が打ってあります。それで注釈欄を見ると、そこに引照として書かれているのは旧約聖書の創世記三十七章九節です。そこを読んでみると、

『再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。』

イスラエルの始祖となったアブラハム、イサク、ヤコブ。そのアブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ。このヤコブがラケルと結婚して生まれたのが、このヨセフなんです。ヤコブには実は他にも奥さんがいまして、

レアとラケルとビルハとジルパという、二人の奥さんと二人のそばめがいて、合計十二人の子どもが生まれました。ヨセフが見た夢とは何かと言うと、太陽と月と十二の星というのは、自分の家族のことを言っています。それは大きな意味では、そこから増え広がって一つの国民となったイスラエル民族というものを指します。

だからここに書かれているなんとも摩訶不思議な女のイメージは、実はイスラエルの民族を象徴しているイメージだと知ることができます。そして、イスラエル民族に起こった歴史的な出来事について、ヨハネの黙示録十二章には描かれているということを見ることができます。

この女が「産みの苦しみをした」のはどういうことかというと、イスラエル民族は先ほど申し上げたように、イエス・キリストを生み出すために用いられた民族ですが、そのために、歴史を通じて様々な苦しみを経験しました。そのことを産みの苦しみとして表現しているわけですね。そして子どもが生まれた、その子こそがイエス・キリストです。
そして、これらのイスラエルの苦難の背景には、実は悪魔の妨害、攻撃があったのだと記されています。ヨハネの黙示録十二章三〜十節にかけてそのことが書かれています。

『また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。』

イスラエルを象徴する女と、その女が生み出そうとする子どもが鉄の杖で全ての国の民を牧することになる。そして神のみ座に引き上げられると書かれている。これはイエスさまのことです。しかしこの子どもを竜が亡き者にしようとしたと書かれています。
イスラエルの歴史を見る時に、このことばに書かれているように、様々な苦難をイスラエルは味わっていきます。エジプトでの奴隷生活、荒野での四十年間の旅、王国時代の出来事やバビロン捕囚時の出来事、そして捕囚期間後の苦難、新約に入ると、イエスさまが誕生した時に起こったヘロデ王によるベツレヘムの初子の大虐殺。これらは「救い主が生まれないように」と、イスラエルの種を根絶やしにし、救い主をも殺してしまおう!という悪魔の仕業だったということが、黙示録の十二章に書かれています。
神さまはそんな激しい戦いの中にみ使いを遣わして、イスラエルを守り導かれて、サタンとその軍勢を打ち負かされたことが書かれているわけです。黙示録の十二章にも旧約聖書のイスラエルの歴史がふまえられた中で救い主が生まれ、サタンを打ち砕いたことを私たちに教えてくれているわけです。
このように、イエスさまは神さまの計画の中で生まれ生きて、究極の救いを成し遂げられた。それも旧約聖書に描かれている過ぎ越しの祭りと同じように、自ら犠牲として神さまの前にささげられる生贄となられたわけです。その血を持って救いを成し遂げられた。
先週はそのことを祝って礼拝する、復活記念礼拝でした。イエスさまが流された血潮によって私たちは死の力から解き放され神の子としての立場を受けることができたのです。

もう一箇所、旧約聖書からみことばを読みたいと思います。創世記十二章一節から三節です。

『主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」』

先ほどイスラエルの始祖がアブラハム、イサク、ヤコブと申しましたが、アブラハムがその始まりです。神さまはアブラハム、ここではアブラムと呼ばれ後にアブラハムへと変わるのですが、彼を選ばれ彼を通して世界が祝福されると約束されました。
彼はこの神さまの約束を信じ、神さまが導かれる所へ出て行った。そして、彼の後のイスラエルの民族が神さまの選ばれた民となってイエスさまをこの地上に生み出したということです。
そしてイエスさまがなされた救いは、イスラエル民族だけにとどまることなく、全世界の信じる者すべてに及ぶ救いとなったということです。まさしく今読んだみ言葉のようで、これはイエスさまが生まれるよりも千年以上前の出来事でありますが、アブラハムに神さまご自身が「あなたによって世界のこの地の全ての部族が祝福されますよ!」という約束、この言葉通りに、彼を通して世に生まれたイエスさまによって世界が祝福されることになった。その中に私たち日本人も、私たち一人ひとりも、含まれるわけです。

新約聖書のコロサイ人への手紙三章十一節にはこう書いてあります。

『そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』

それからガラテヤ人への手紙三章十四節では、

『それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。』

そして同じガラテヤ人への手紙三章二十九節では、

『あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』

これが今私たちが持っている信仰の裏付けです。私たちは元々イスラエル民族ではありませんので、「異邦人」と呼ばれるグループに属する者であったわけですけど、イエスさまが神の子キリスト救い主であるということを旧約聖書が証言し、キリストを信じ受け入れる私たちは霊的なアブラハムの子孫だと書いてあるように、アブラハムに主が与えた祝福を受け継ぐ者として、私たちはイエスさまによって神の子どもとしての立場を与えられました。そして先ほどから申し上げた通り、旧約聖書の記述その歴史がこのみ言葉を担保にしているということです。ぽっと出の祝福じゃない、どこかの新興宗教の教祖さんが「これやったら救われるよ」と言うような軽いものじゃないのです。信じるに値する重要なものだと聖書自体が言っています。

そして、結論に移っていきたいのですが、黙示録十二章に描かれていた悪魔のイスラエルに対する執拗なまでの敵意、攻撃は、救いのみ業が達成されないようにと妨害する悪魔の軍団の挑戦であると申し上げましたけど、この戦いは、今の時代、救われて神さまを信じている私たちが経験している戦いそのものなのです。私たちの信仰は、悪魔とその軍団との戦闘であるということがここを見る時にはっきりと書かれています。

イスラエルは救い主を誕生させるために戦いの中に置かれていた。そして神さまの計画の中で救い主を生み出したわけです。イスラエルが味わった苦難は、私たちに救いをもたらしました。ですから私たちは「イスラエルが祝福されるように」と祈る必要があるわけですが、新約の時代に私たちがクリスチャンとして神の前で歩む、その中には様々な苦難、そして戦いがあるということです。それは何のため戦いかと言うと、今度は神の国がこの地にもたらされるための戦いです。神の国が拡大していくために、私たちはイスラエルの民が味わったのと同じように、霊的な戦いの中にあるということであります。
その私たちの立場とは、私たちが神の子どもとして生まれた者であるという、私たちの生きている目的に関わるものなのです。だからここにいらっしゃるクリスチャン全員がその戦いのために招集された戦士であるということができるわけです。
だから私たちが「戦いたくない」と言ったからといって「戦わんでいいよ」とはなりません。「戦わない」という選択をすることはできないのです。
クリスチャンの歩んできた歴史を見ても、多くの迫害があって、この世との緊張関係がありました。私たちはこの世に生きていながら、この世のものではない。「私たちの国籍は天にある」とあるように、この世にありながら神の国の価値観で生きる者、罪から離れて、神のみことばに従って、また神を証しすると使命を持っているわけですが、その歩みを私たちがしようとする時に、この世との様々な摩擦、緊張関係が生じます。罪の誘惑があったり、福音宣教に伴う困難があったり、ある時は病や分裂の力に傷つけられることがあります。
新城教会の歴史の中でもそうでしたし、皆さんの個人の信仰生活における様々な問題、「もうこの問題から逃げ出したい!」というような問題に今、直面している方も、この中にもいらっしゃるかもしれません。その戦いの中にあるのは、クリスチャンである以上、私たちは避けて通ることができない戦いでもあるわけですね。