しかし「私はアブラハムのような、そのような大きな信仰は持ってない。」また「今は賛美できるような状況ではない。」賛美をささげることが難しい、感謝をささげるのは難しいという状況に立たされる時があるかもしれません。弱さを覚える時があるかと思いますが、このアブラハムが、雄羊を備えられてイサクの命が贖われた時に、アブラハムは何と言ったかというと、創世記二十二章十四節、
『そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』
このようにアブラハムは神さまのことを「アドナイ・イルエ」と表現しました。この「アドナイ・イルエ」とは、どのような意味があるかと言うと、「神さまは見られる」とか、また「見る」とか、「知覚する」とか、「経験する」という意味合いがあります。この「アドナイ・イルエ」を、文章してみると、「神さまは私の必要を全て見ておられ、知っておられ、また経験しておられ、それらを備えてくださる方」、このように、アドナイ・イルエとは、ただ備えてくださる、お金が足りないからお金をくれる、何か食べ物がないから食べ物をくれる、そんな物を備えてくださるとか、そんな単純なものではないのです。神さまはアブラハムが愛するイサクをささげる、その痛み、葛藤、様々なものがありましたけども、それら全てを見ておられましたし、知っておられましたし、そしてその痛みを自らの痛みとして経験しておられた。そのような神がすべてを補い備えてくださっている。「アドナイ・イルエ」とアブラハムは歌ったわけですね。
そしてこの「アドナイ・イルエ」雄羊が備えられたということは型だということですね。それは何の型だったかというと、イエス・キリストの十字架であります。今、新約の時代、私たちが生かされているのは恵みの時代ですね。イエス・キリストの十字架の救いが完成させられた時代です。この私たちの基礎は何か。エペソ人への手紙二章二十節、
『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。』
私たち、またキリストのからだこの建物の基礎は、イエス・キリストであります。救い主であるイエスさまの十字架の贖いが成し遂げられた、死の力を打ち破られて勝利された、大勝利の元に私たちは立たされているということですね。
ですからイエスさまが命を投げ出して、最大の犠牲をはらってくださった今、私たちは血を流すいけにえをささげる必要もないですし、私たちはその十字架をかかげて大胆に主のみ前に出て行くことができるわけですね。私たちが弱さを覚えて賛美をささげることができない、感謝をささげることができない、そのような状況にあっても、私たちのことを神さまは確かに見ておられ、知っておられ、また私たちが今経験している様々な痛みや苦しみや悲しみ涙を知っておられて、それを自らのものとして受け取っておられる。そしてイエス・キリストの十字架、まぎれもなくそれは、イエスさまは神として、人として、この地上に来られて、私たちの痛みを苦しみを悲しみを受け取ってくださって、また罪をも背負ってくださって、十字架にかかって、そして救いの道を私たちに与えてくださいました。私たちを贖い、光の子どもとして、十字架にあって、私たちを立たせてくださっているということですね。私たちは弱さを覚えるような時がありますが、十字架の大きな犠牲故にいつでも大胆に主を賛美できる者とされていることを覚えていきたいと思います。
私たちは、アブラハムにならって、全き信仰を持って、よみがえりの信仰を持って、主の声を聞いて、主のみ思いを受け取って、主をただただ恐れて、主に信頼し、主に従っていき、そして私たちができる最大限の犠牲をはらって賛美と感謝の供え物を主にささげていきたいと思います。その時に、私たちはみ霊に満たされて、主に喜ばれる道が何かを聖霊によって選び取って、そして時を逸することなく、今なすべきことをなして、時にかなって美しい神さまのみわざが主によって現されていく。私たちはこのように機会を十分に生かして用いていくことができるということを今日覚えていきたいと思います。
そして神さまからの素晴らしい光の実、アブラハムの祝福、溢れるほどの恵みと愛、神さまからの約束を受け取っていくことができるのです。そのような歩みを私たちはしていきたいと、心から願わされております。
最後に遅れましたけども、私が副牧師となったということで、ちょっと最後にご挨拶と証しをさせていただきたいと思います。私が副牧師というのは信じられないですね。まだまだ力も足りない、経験も足りない、知識も知恵も足りない弱い者でありますが、ただただ皆さまの愛と祈りと助けと支えによってここまで導かれて来たと思っています。本当に心から感謝を申し上げます。
少しだけ証しをさせていただきたいと思いますが、私は今年で救われて二十年になります。そして教会スタッフとして働かせていただいて十二年となりました。私は二十年前に救われたのですが、小学校三年生の時に滝元堅志君が同級生で、彼が教会に誘ってくれて、初めてこの教会の門をくぐりました。本当に教会は楽しい所だなぁという印象で、教会が大好きでした。
しかし中学生くらいになると、「キリスト教は宗教だから」ということで、「教会には絶対に行かない!」と決めて、成人するまで八年間、全く教会の門をくぐることはありませんでした。そしてこの世の酒に酔うような人生を歩んでいたわけなのですが、私の育った実家というのは、ここから本当に近いんですね。教会から真っ直ぐ五百メートル進んだ所に実家があります。
そしてその実家の私の部屋に、毎週日曜日になると、ここでささげられている、皆さんのささげている賛美が、私の部屋に届くんですね。それで日曜日になるとその賛美が聞こえてきて、「あぁ教会行っていたなぁ。楽しかったなぁ。」なんてことを思い出し、八年間の空白があったわけですが、教会のことを忘れることはありませんでした。
そんな、皆さんがささげている賛美を通して、主が私を捕らえ主の元に力強く引き戻してくださったように、教会に再び来るようになり、そして救われて、今この場所でみことばを取り次ぐ者とさせられたというわけです。本当に不思議です。神さまの奇跡であると思います。それは皆様が、この新城教会において、この主の宮において、どのような状況においても、環境においても、時代においても、大きな犠牲をはらってここに集って、主に目を向けて、心からの賛美をささげ続けてきた、「互いに語り」とみことばにありましたけど、教会のキリストのからだとしての賛美を皆さんがささげ続けてくださった故に、その賛美の中で、私の空白の八年間という時が贖われて、そして私は救われたのだなぁと強く覚えさせられています。もうすでに皆様は、私が今日語ったみことばをもう実践されておられましたね。私は、皆様が神さまから頂いた光の実のひとつであるということを更に強く覚えさせられ、本当にこの新城教会の先生方、兄妹姉妹のみなさまには、感謝の思いでいっぱいです。
同時に、私が今日語ったみことば、賛美と感謝のささげものにある力、そのみことばは真実であるということを、私は体験させられております。まだまだ困難な時代、状況が続いていますが、またそれぞれが苦しい状況を通っているかもしれませんが、神さまに本当に大いに期待していきましょう。制限のあるサナギのステージかもしれませんが、私たちはその時にこそ、神さまから委ねられた多くの働きがあり、その中に賛美と感謝をささげていくということを学んできました。それぞれができる大きな犠牲をはらって、賛美をさらに、感謝をさらにささげていく者となっていきたいと、そのように願わされます。
サナギから美しいチョウチョへ、もう間もなく大変身して、そして大空を飛び回るような、光の実をいただく、祝福の時、約束を受け取っていく時が、もう間もなくやってくると、期待させられています。
終わりのこの時代、その悪い時代にだけに目を留めてしまうことなく、この時を十分に生かして、贖い出して、主が与えてくださる光の実を収穫しきって、主の約束を受け取っていきたいと、そのように願わされます。
最後に写真を見せたいと思います。昨日撮った写真です。この虹の写真です。昨日、嵐がありましたけども、そのような嵐の中で、私たちは家に引きこもって制限があるような生活をしていたかもしれませんが、神さまは「わたしは約束を用意しているよ。約束を成就するよ。」と励ましてくださったような、そのような虹を神さまが見せてくださいました。これからさらに主に期待して進んで参りたいと思います。
では、最後に力一杯、神さまにハレルヤ!の賛美をささげて、メッセージを閉じさせていただきたいと思います。では皆さんで、力一杯、大きな犠牲をささげて、ハレルヤと最高の賛美をささげましょう。せーのーで!ハレルヤ!