神さまは、光の実を与えてくださるということですけども、秋が深まってきて、様々な収穫の季節となっていますが、収穫にも時がありますね。収穫時期を逃してしまえば、その実の最高の状態というものを逃してしまいますね。取り損ねることもあります。主の計画にも同じようなことが言えるかもしれないですね。私たちが時を逸してしまうと、神さまが用意されている最も良い実を取り逃がしてしまうこともあるかもしれません。あまりにもこの悪い時代に対して目を向けすぎて、時を贖い勝ち取るということを逸して、収穫を逃してしまうかもしれません。
ですから本当に私たちはこの贖い、犠牲を惜しむことなく、時を逸することなく、時を捕らえて、今神さまが注いでおられるご計画、み思いを、霊の目を開かせていただいて、受け取らせていただき、光の子として歩んでいき、そして神さまが用意された光の実を収穫し切っていきたいと願わされております。
そのような「機会を十分に生かして用いなさい。」に続けて、神さまは、どのように注意をしていったらいいかということが、エペソ人への手紙五章十八節に書かれています。
『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。み霊に満たされなさい。』
これは命令形なんですね。「酒に酔うな。」「御霊に満たされよ。」強い口調であるわけですね。この「酒に酔ってはならない。」ということは、実際の酒に酔ってはいけないということも言えるかもしれませんが、もう少し内容を深く見ていきたいと思います。
エペソの町というのは、ローマのアジア州の首都であって、エーゲ海の東岸にありました。この小アジア地方はぶどうの名産地でありました。良いぶどうが採れたみたいですね。
そしてそれは酒の、ワインの素となっていったわけですけども、このエペソやこの地方にあったのは、何があったかというと、酒の神、ローマ神話の神、バッカスですね。
これが祭られていたと言います。
この「酒に酔ってはいけません。」とは、もちろん本当の「酒」ということもあるかと思いますが、このようなエペソの地方にあった「酒神バッカス、偶像礼拝に対して注意しなさい」ということを言っているのかもしれません。
またそのような偶像礼拝は、その地方において当然のような文化や習慣となって、人々の生活の中に君臨していた悪であります。そのようなものに注意をしなさいということを言っているとも解釈できるかと思います。
そして「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と続いていきますが、酒に酔って品性を失ってはいけませんよということでもありますけが、放蕩という言葉の原語を見ると、「救われ難い」とか、「無駄にする」、そのような意味があります。そのような私たちの生活にひっそりと入り込んでいる悪に屈して主の恵みを私たちが無駄にしてはいけない、また救われ難くなってはいけない、そのようなメッセージをここでは語られているのではないでしょうか。
現代の私たちの生活の中に当然のごとくに入り込んでいる悪の存在とは何であろうかということを思い巡らした時に示されたのが、SNSだとか、インターネットですね。また映画が見れたり、ビデオが見れたりするAmazonプライムだとか、Netflixのことが思い浮かびました。
皆さんもよく使われるかと思いますが、私もよく使っておりますけども、これを使っていると本当にあっという間に時間が過ぎていくのを皆さん経験されたことはないでしょうか。私はあります。私が一番注意しなきゃいけないですが。しかし、これらは私たちの生活に本当に当然の如くに入り込んで、そして時間を奪っていくんですよね。
これらすべて、インターネットが悪いとか、そういうことを私は言いたいわけではないんで。今の時代、こういったものを使って福音宣教のために用いられておりますから、欠かすことのできないツールだと思います。しかし、これらのものは、私たちの生活の中に巧みに入り込んで、時間を盗んでいく時間泥棒なのです。私たちの時間を盗んでいく、神さまから与えられた時間を盗んでいくような悪に対して、私たちはしっかりと見極めて、選び取って行くことは、本当に大切ではないかなということを、覚えさせられております。何か物が盗まれるのではなくて、時間が盗まれるんですね。本当に悪魔は巧みですね。
このインターネットにちなんで、最近はスマホが普及し、私たちの生活の中には常にたくさんの情報が入り込んできていますね。それを良いもと悪いものを見分けるというのは本当に難しい時代であるなと思います。そんな情報に溢れる私たちの生活の中で、スマホ中毒だとか、スクリーンがないと駄目という「スクリーンスレイヴァー」「スクリーンの奴隷」となってしまう方が多くおられると言われます。たくさんの情報が常に生活の只中に入り込んでいる現代人は、注意散漫になってしまう傾向があるということが言われます。
さて、ここで皆さんにクイズを一つ出したいと思います。問題です。「人間の集中力はどの程度持続するでしょうか?」今、注意散漫になってしまう時代でありますけども、アメリカのマイクロソフトのカナダの研究チームが二千人を対象に脳波を測定して、その結果を出したんですね。それは二〇〇〇年のデータでありますが、どれくらいだと思いますか?では正解を見ますね。十二秒です。
そして、二〇一五年にも調査をしたそうです。何秒だと思いますか?八秒だそうです。私たちから集中力を奪って、本当に見るべきものを見せないようにし、時間をどんどん奪っていくような悪魔の策略というものがあることを覚えます。ちなみに金魚の集中力は何秒かというと、九秒だそうです。金魚に負けているかなぁと思いますけども、金魚も神さまの素晴らしい創造物ですけども、金魚に負けないように、本当に時間が奪われないように、神さまから目をそらされないように、主を見上げて、主のみ心を受け取っていきたいと思います。そのために何が必要かというと、「み霊に満たされなさい」ということが次に書かれてあります。
み霊に満たされるためには、五章十九〜二十節、
『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』
と、み霊に満たされるために、何が必要か。この「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語ること、また歌うこと、賛美すること、感謝すること」ということであります。「互いに語る」というのは、意味合い的には「楽譜に合わせてはっきりとした言葉で主を賛美する。」そのような意味合いがあるということですけども、この互いにということは、一人以上ですね。ある意味、教会の、キリストのからだの賛美と捉えることもできるかと思います。そして個人の賛美もささげていく。また感謝をささげていく。その時に、み霊に、聖霊に私たちは満たされていくということをここで見ることができます。
今、この「機会を十分に生かして用いていく」”時を贖うため”にということで、見てきましたけども、それをさかのぼっていくと、この賛美と感謝をささげていく時、私たちはこの世の悪に屈せず、酒に酔わず、み霊に満たされていく。そして聖霊によって主に喜ばれることは何であるかということを、しっかりと悟り、正しいものを選びとって、行動していくことができる。そしてそのような中で、機会が十分に生かされていく。時が贖われて、その「今」という時を逸せずに、主のみこころを受け取り、主のみこころを成して、そして光の実をいただいていくことができる鍵が、このエペソ人への手紙の五章の中に隠されているということを教えられます。
この賛美をささげる、感謝をささげるというの、簡単なようで、とても難しい時もあります。今このような困難な状況の中、またお一人おひとりが様々な問題の中で苦しむ時、悲しむ時、私たちは賛美をささげるという事ができない時があります。感謝をささげるということができない時があります。
しかし、そのような状況の中においても賛美をささげるということは、何が伴っているかというと、犠牲が伴うということですね。機会を十分に生かす。時を贖い出す。この贖いには犠牲が伴っているということですね。私たちは犠牲をささげなければいけないということです。
聖書の中で最大の犠牲をささげた人物は、は、もちろんイエスさまでありますね。イエスさまの十字架の贖い、それ以上の犠牲というものはありません。
しかし信仰者の中で、一番大きな犠牲をささげた人物を考えていくときに、私の中で、信仰の父アブラハムが思い浮かびました。アブラハムは神さまから約束の子・イサクをささげる試練に遭いましたね。全き信仰を示す全焼のいけにえとして、イサクをささげなさいと、神さまはアブラハムが神さまに完全に従うかどうか試されたわけですね。その試練に遭ったアブラハムはどのような行動をしたかというと、その主からの声を聞いて、翌朝、翌日に神さまが示されたモリヤの地へ旅立っているんですね。すごいですね。
その道中のアブラハムとイサクとの会話を少しみたいと思いますが、イサクが言うんですね。創世記二十二章七〜八節、
『「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。』
とあります。この「イサク」と語りかけたアブラハムの言葉ですが、直訳すると「わが子よ」という意味だそうです。この「わが子よ。」という中に、「愛するわが子よ。」という、そのようなアブラハムの思いが伝わってきます。
神さまの声を聞いて、アブラハムは様々な葛藤もあったと思いますね。愛するわが子を主に全焼のいけにえとしてささげる。その心境を考える時に、心が引き裂かれるような思いになりますけども、アブラハムはこのヘブル人への手紙十一章十九節にあるように、
『彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』
と、このアブラハムはよみがえりの信仰を持って、たとえイサクを全焼の生け贄としてささげたとしても、再びよみがえらせて命を与えてくださる、約束の子を取り戻してくださる!そのように復活の信仰を持って、ただただ主を恐れて、主に従い通す道を選んで、アブラハムの中では完全にイサクを犠牲としてささげきっていたわけですね。
本当にこの信仰の父の素晴らしい歩みを見ることができますが、この二人が歩き出す手前に、創世記二十二章五節、こんな言葉があります。
『それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。』
この「礼拝をして、」とあります。この「礼拝」という言葉は、旧約聖書の中で初めてここで出て来ます。「worship」とも訳される言葉です。先日、「霊的戦いセミナー&実践」という働きが教会でなされ、「賛美と霊的戦い」というタイトルで開先生が講師としてセミナーを取り次いでくださり、大変恵まれるセミナーでした。その中で「賛美」というのは礼拝であるということを語っておられました。賛美はまさに礼拝だと言うんですね。
そして最近、海外の教会の賛美リーダー、いわゆるワーシップリーダーと呼ばれる方が、このアブラハムの「礼拝」ということに対してすごく感銘を受けたということを語っていました。そこには何の歌詞もない、音楽もない、そこにあったのはアブラハムの、神さまへの畏れと、ただただ従順であった。それが礼拝であった、worshipであったということで感銘を受けたことを話しているのを聞きました。まさにこのアブラハムがささげた大きな犠牲、この行為は礼拝であり、つまり賛美とも言い換えることもできるかと思います。このアブラハムのこの大きな犠牲というのは、聖書の中で最も美しい賛美の一つと言っても良いものではないでしょうか。
そしてアブラハムが最高の賛美をささげたことによって、神さまによって雄羊が備えられて、イサクの命が贖われました。そして神さまの約束が成就していって、このアブラハム、イサク、そしてヤコブと、その延長線上にイエスさまが誕生されます。イエスさまの到来、神の国の到来へとつながっていきました。
今の新約時代の私たちの賛美というのは、さらにイエスさまの帰られる道を備えるものであって、新天新地の到来へとつながっていくものであります。
ですから、アブラハムにならって、最高の犠牲をはらって、礼拝をささげて、賛美をささげていく者となっていきたいと願わされます。