王なるイエスさまに向かって一心に

私たちも、イエスさまによって救われ、イエスさまと出会い、救いの喜びをいただいて、今この礼拝に、この教会に集っている私たち一人ひとりであると思います。私自身も救われたとき、イエスさまと出会ったときに、「イエスさまのそばにいたい」「もっと神さまのことを知りたい」と感動を覚え思っていました。また、「神さまなしの人生は考えられないな」と感じていました。
その当時、私は県民の森祈祷会に参加し、聖霊さまと交わる体験をしました。県民の森祈祷会にも、ただイエスさまと出会いたい、聖霊さまと交わりたいという思いだけで通っていたことを覚えています。また、私はリバイバル聖書神学校で学ばせていただきましたが、神学校へ入った理由も、何か牧師になりたいとか、献身したいという思いではなく、ただただ「イエスさまのことをもっと知りたい」という思いだけでした。神さまにただ近づきたい、そのような思いでした。

ペテロも同じだったのではないでしょうか。また、皆さんとも同じように、イエスさまに近づきたい、もっとイエスさまのことを知りたい、そのような思いでペテロは思い切って、水の上を歩き始めたのではないかと思います。

そしてペテロは、舟から、荒波の中へと出ていくわけです。それは本当に大きな一歩だったと思います。とても勇気がいることだったと思います。
ペテロは漁師でしたから、舟の上が一番安全だということはわかっていたはずです。自分の命を守ってくれるもの、それが舟だったわけです。しかし、万物の創造者、支配者、王であるイエスさまという存在と出会い、そのイエスさまを信じ、信頼して、イエスさまのもとへ近づきたいということを求めて、そして「来なさい」というイエスさまの声に従い、イエスさまの主権の中で、歩き出したのです。

それはとても勇気のいる第一歩であったはずです。そこから私自身、覚えさせられることがあります。それは、私たちが今まで当然に「安全だ」「大丈夫だ」「これは自分の命を守ってくれる」と思っていた領域について、もう一度「そこに主が、イエスさまがおられるかどうか」を点検しなさいと言われているような思いが込み上げてきました。
そして、私たちが立っている今までの経験によって達成し、得られてきた、さまざまな世界観や価値観、常識や文化、習慣、教育、科学技術や、さまざまなものに対して、もしそこにイエスさまがおられず、「そこから離れなさい、そして私のもとに来なさい」とイエスさまが声をかけられるならば、すべてを明け渡し、命をかけて私たちは勇気をもってそこから飛び出し、イエスさまのおられる領域へ出ていく。この年、そのような「信仰の歩み」というものを、主から求められている、という思いが与えられています。

ペテロは漁師であり悪天候の危険を熟知していたわけですが、命をかけて舟から飛び出しました。それは決して簡単なことではなかったでしょう。そのようなイエスさまを一心に求めていく姿を覚える時に、私はある一人の方を思い出します。

それは、ロン・ブラウンさんです。スティーヴィー・ワンダーやホイットニー・ヒューストン、ダイアナ・ロス、世界的なミュージシャンをサポートするミュージシャンとして活躍されました。そしてイエスさまと出会い、イエスさまのために命をかけ、福音宣教のために生きられました。
私は、恵みによって、ロンさんとさまざまな交わりのときを持つ機会が与えられました。ときには、ロンさんと同じ部屋に泊まり、ホテルに宿泊しながら、アメリカの西海岸の日本人教会で明先生ととも伝道集会をする働きに参加させていただく機会もありました。ロンさんと寝食をともにするような、本当に貴重な機会がありました。
ロン・ブラウンさんは、どのようなときにもへりくだり、愛をもって接し、神さまを愛して、神さまに仕える方であることを感じました。そのロン・ブラウンさんが導くバイブルスタディーの会がありました。
特に、ミュージシャンの方々が集まって聖書の学びをする時を持っておられて、私も何度かそのバイブルスタディーに参加させていただいたことがあります。

当時、私はロサンゼルスに滞在し、英語を学ぶために語学学校に通っていました。最初は英語もあまりわからない状況でしたが、それでも、その聖書の学びの会に参加させていただきました。
集まる方々は、世界の名声と富を得たようなミュージシャンや音楽家の方ばかりだったのですが、その方々が聖書を開いて、イエスさまについて熱く語っているのを目の当たりにしました。ときには、まるで喧嘩のように思えるほど激しくやり取りをしていました。その姿を見て、「本当にイエスさまは、この世界の、全宇宙の神である。すべてを得たような人たちが全てを投げ売って、命をかけて求める存在である」ということを覚えさせられ、その姿に感動したことを今でも覚えています。
私たちも救いを受け、そしてイエスさまを求める思いが純粋に湧き上がってきた、初めの愛があったと思います。私たちはその初めの愛を忘れることなく、イエスさまを一心に見つめ、向かって、熱心に近づき続けていく者となっていきたいと思います。

では、また聖書に戻りましょう。そしてペテロが湖を歩き始めたとき、どうなったでしょうか。

“ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」”

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」イエスさまがペテロに対して叱責しているような言葉にも思えますが、どのような意味合いがあるのか、見ていきたいと思います。

「信仰の薄い者よ」という言葉の中で「オリゴピストス」という言葉が使われています。字義的な訳は「信仰が少ない」という意味があるそうです。
またさらに詳しく見ると、「信仰の現れが少ない」という意味合いを持つ言葉でもあります。
つまり、これは「全き信仰ではない」「信仰が足りない」という状態を表すというのです。ペテロの信仰の現れが少ないという意味であり、全き信仰ではない、信仰が足りない状態を表すと解釈できます。この「オリゴピストス」という言葉は、時にイエスさまが人々を叱責するときにも使われることもあるわけですが。

また、「信仰の薄い者よ」という言葉ですが、英語では「Little faith(少ない信仰)」ということなのですが、その当時の一般的な人たちはアラム語を話して、イエスさまも話しておられたと思うのですが、その「little」というのが、アラム語で「Zeora」という言葉だそうです。「少し」という意味合いがある言葉がありますが、意味合いは、「若くて経験の浅い人」や「一般的にまだ特定の技術を習得していない見習いに使用する」というのです。
ですから、この「信仰の薄い者よ」という意味は、ペテロの信仰は若く、経験が少なく、完全に成熟、または発達していない」と解釈することができます。

そして、「なぜ疑ったのか」という言葉ですが、「疑う」ということについても考えてみましょう。言葉の語源を見ると、「二つに分かれる」という意味合いがあるそうです。つまり、二つの方向に進む、立場を切り替える、二重の立場を取る、そういった意味合いがあります。また、二つの意見、異なる見解や信念の間で立ち止まることを意味するそうです。
ですから、二つの意見の間で、「こっちへ行こうかな、あっちへ行こうかな、両方行きたい」というように、右往左往してしまい、心が揺れ動き、動揺してしまう、そういう意味合いがあるというのです。
さらに、この言葉の時制を見ると、「疑いの状態に入り、そこから抜け出せない状態にある」という意味があるということであります。そんな「疑う」という言葉があるのですが、「信仰というのはイエスさまを純粋に、一つの心で見つめ続けること」であると言い換えることができるかもしれません。
また「疑い」という言葉は、「心がふたつに分かれて、同時に二つの道を行こうとすること」と言い換えることができるかもしれません。

そして「なぜ」という言葉について考えてみましょう。アラム語では「レマナ」という言葉に値するそうです。意味は「なぜ」ということですが、意味合いとしてもう一つ、「どちらに」「しかし」という意味もあるそうです。ですから、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉を、この語源などを踏まえて解釈すると、

「あなたの信仰はまだ若く、未熟だが、あなたには確かに信仰がある。しかし、今、あなたは心がふたつに分かれて疑っている。」

ということなのです。「信仰の薄い者よ、ダメじゃないか」とイエスさまはペテロを叱責しているわけではないということです。むしろ「まだ未熟かもしれないがあなたには信仰がある。しかし今は強風を見て二心になってしまって疑っている。」そのようにイエスさまは語ったわけです。

この「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉を解釈していく中で、私たちの大胆な信仰の歩みは、ペテロが経験したような激しい試練の中に立たされることがあるかもしれないことを覚えました。そして、そのときに恐れて失敗することもあれば、疑いの念に駆られ、時には、恐れの沼にはまり込み、そこから抜け出せなくなることもあるかもしれません。
しかし、そんな私たちに対して、ペテロが未熟な信仰であったことをイエスさまはご存知であったように、私たちも未熟な信仰であるということをご存じなのです。それでも、イエスさまは決して叱責するのではなく、「来なさい」とペテロを招かれたように、私たちをも招いていてくださるのです。
私たちが今「すごく強い信仰を持っている」とか、私たちは「水の上を歩く準備ができている」とか、そういったことは関係ありません。イエスさまは、私たちが「イエスさまに近づきたい」、そのような思いだけを受け取ってくださって、そして招いていてくださる。そして恐れてしまう時には「あなたの信仰はまだ未熟だけども、あなたは確かに水の上を歩く信仰を持っているじゃないか。しかし今は強い風を少し見て、疑うようになっているよ。あなたに与えられた信仰をもっと成長させなさい。」と、力強く、そして優しく語り励ましてくださるイエスさまが、ペテロにおられ、また私たちおられるのではないかと思います。

そして、「わたしはある」と言われた万物の創造者、支配者、王なるイエスさまが、「あなたのそばにいる。そして私のもとへ来なさい。」と信仰の歩みを求めておられるのではないかということを、このみことばを通して覚えさせられています。

そして、ペテロが沈みかけたとき、イエスさまは放っておかなかったですね。「すぐに助けてくださった」とあります。幽霊と見間違えるほどに遠くにおられたかのように思えたイエスさまでしたが、ペテロをすぐに助けてくださいました。
私たちも、信仰の歩みを始めたときに恐れてしまい、沈みかけてしまうことがあるかもしれません。しかし、助けを求めるときには、全能なるイエスさまはすぐに私たちを助けてくださるのです。私たちが思っているほど、イエスさまは遠くにはおられません。すぐに助けてくださる、ともにおられる神さまであることを覚え、信仰の歩みを続けていきたいと思います。

そして、ペテロが沈みかけた理由は、現実の「強風を見た」ということです。沈む前まではイエスさまに目を向け、視点を合わせ、イエスさまと同じ歩みをしていたのに、現実の強風を見て怖くなってしまったのです。
この「現実」ということですが、実際に湖の上を人が歩けるものではないという、この世の現実、常識、自然法則が当てはまると思うのですが、そういったものがペテロの信仰の歩みを止めてしまったのだということを覚えさせられました。
ですから、私たちも時に、この地上の法則や常識、当たり前だと思っている領域が、いつの間にかイエスさまから目を離してしまう原因となってしまうことがあるのではないでしょうか。ペテロが強風を見て、風を見て、現実を見て、「私は水の上を歩けるはずがない」と思ってしまったのかもしれません。そのように、私たちの現実という領域においてイエスさまを限定的な存在としてしまうこと、イエスさまなしに歩んでしまうこと、信仰生活の妨げになっていることはないか、点検しなさい、と神さまに問われているように感じました。
イエスさまと同じ信仰の歩みをするためには、二心になることなく、イエスさまを純粋に一つの心で見つめ続けることが鍵となるということを覚えていきたいと思います。