王なるイエスさまに向かって一心に

2025年3月9日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

マタイの福音書 14章28~29節
“するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。”

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日こうして、皆さんとともに礼拝を守り、一緒に礼拝をささげ、みことばを神さまから受け取ることができる礼拝のときが与えられていることを心から感謝いたします。

さて、話は変わりますが、祈りの中でも触れられた東日本大震災が起こってから今年で十四年目に入るということで、各地で慰霊祭が行われます。真のいやしは主によってもたらされます。この地がいやされ、回復があるように、私たちはこの日を覚えて主に祈っていきたいと思います。

また、西暦一八七二年三月十日は、日本最初のプロテスタント教会である横浜公会が設立された日です。アメリカのジェームス・バラ宣教師を仮牧師として設立され、日本のプロテスタント教会の歴史が始まりました。そして、その流れの中で、滝元明先生の郷里・津具にジェームス・バラが行って、宣教の働きをする中で、その地においてリバイバルが起こっているとアメリカに報告し、日本で初めて「リバイバル」という言葉が使用されたと言われます。その流れの中で、今、新城教会もある。また今日の礼拝もあるということを覚えて、聖霊さまのダイナミックな働きの中で、今日も主が素晴らしい礼拝を備えておられる、み心を備えておられることを覚えながら、みことばに向き合っていきたいと思います。

先ほど読んでいただいた箇所ですが、ペテロが水の上を歩くという超自然的な事が起こりました。この箇所から、みことばを受け取っていきたいと思います。この箇所は、二〇二五年、新城教会に対する預言的メッセージとして、私が神さまから与えられたと信じているみことばです。カウントダウン礼拝のときにも少しお分かちさせていただきましたが、今日はそちらをゆっくり詳しく見ていきたいと思います。

一度、当該箇所のマタイの福音書十四章二十二節から三十三節全体をお読みします。

“22それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
28するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

ここから、みことばを順番に学んでいきたいと思います。

この出来事の前に何が書かれているかというと、「五つのパンと二匹の魚の奇蹟」です。この五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人の人々のお腹が満たされたという、超自然的な神さまご自身の奇蹟が現されたことがこの背景にあります。
この五つのパンは、大麦の硬いパンで、貧しい人が食べるパンではなかったかと言われます。また、魚は干物か酢漬けのもの、干からびたようなもので、一般的な人々が食べるような食事でした。
しかし、それを用いて神さまは男だけで五千人、女性や子どもを含めれば一万人ぐらいのお腹を満たすという自然法則を超越した神さまの奇蹟が現されました。

この「お腹を満たす」という事、特に「パンによって満たされた」ということですが、モーセをリーダーとして出エジプトされたときに、神さまご自身が、荒野の旅の中で神さマナを降らせ続けてくださったことをイスラエルの民が経験しました。
そのような背景の中で、人々は「イエスさまを第二のモーセだ。パンを与えてくださるモーセだ」と、イエスさまを見ました。そして、当時のイスラエルはローマ帝国の属国であったため、このローマ政府から解放してくださる解放者としてのメシアだと期待するようになったと言うのです。
そして、イエスさまを政治的な地上の国の王として祭り上げようとする動きが始まりました。ヨハネの福音書六章十五節には、「自分を王にするために連れて行こうとしている」とあります。これは同じ平行箇所の内容です。
人々は、イエスさまを政治的な王としようと熱狂したのです。しかし、イエスさまがこの地に来られたのは、天地の王として、救い主として、神の国の王として、この地に来られたわけです。
ですからそのような群衆の熱狂の中で、イエスさまが来られた目的を知るのを群衆が、また弟子たちが知ることを、妨げられないようにということで、イエスさまは弟子たちを船に乗り込ませて向こう岸へ行かせようとし、また群衆を解散させたという流れに繋がっていくのです。それが、マタイの福音書十四章二十二節へとつながります。

二十二節では、「イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて…」とあります。二〇一七訳ではこのような訳なのですが、第三版だと、「強いて」という表現が使われています。ですから、イエスさまは意図的に、「強いて」弟子たちを向こう岸に向かわせ、また群衆を解散させたのです。

そのような状況の中で、弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖上で向こう岸へ行くわけです。イスラエルのガリラヤ湖周辺では、ヘルモン山という高い山から冷たい空気が吹き降ろし、地上の暖かい空気とぶつかることで、時折嵐のような突風が発生する地でありました。この時もそのような突風により湖は荒れていたようです。
弟子たちの中には、元漁師であり船乗りのプロと呼べるようなペテロたちがいました。それにもかかわらず、彼らは向こう岸へ行くことに漕ぎあぐねていた。波に悩まされていました。
そんな中、イエスさまは先に弟子たちを行かせ、ご自身は一人で山で祈っておられました。弟子たちが湖で苦闘している中、夜明けが近づいた頃、どのようなことが起こったかというと、イエスさまはなんと再び自然法則を超越し、湖の上を歩いて弟子たちのところに来られたのです。
夜明けが近づいた。これは夜中の三時から六時頃の間だと言われます。皆さん、想像してみてください。夜中に湖の上を誰かが歩いて来たら、絶対に怖いですよね。弟子たちもその光景を見て、なんと言ったかというと、イエスさまのことを「あれは幽霊だ!」と言ったのです。イエスさまを幽霊だと言ったことがある方はおられますか。いないですよね。それほど弟子たちは恐れてしまったのです。

そんな中、イエスさまは弟子たちに向かって、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」という言葉が、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」という言葉が使われています。この言葉は、出エジプト記三章十四節にある「わたしはある」という言葉と重なる言葉だと言われます。
この「わたしはある」という言葉は、イスラエルの民がエジプトで四百三十年間奴隷として苦しんでいた中で、神さまは燃える柴の中からモーセに語り、「あなたを通してイスラエルの民をエジプトから脱出させる」と言われました。
しかしモーセは、「もしイスラエルの民が私に、『そんなことを言ったのは誰か』と尋ねたら、何と答えればよいでしょうか」と神さまに尋ねました。すると神さまは、「わたしはある」と表現しました。

イエスさまが「わたしだ」と言った言葉は、この「わたしはある」と神さまが言われた表現と重なる、天地万物を造られた創造者、支配者、永遠の神の臨在を現すそのものがイエスさま、「わたしだ」ということを語ったわけです。
そして、続けて「恐れることはない」と言ってくださっています。この「恐れることはない」という言葉の意味合いは「すでに始まっている恐れを中止しなさい」です。
私たちは時に、弱く恐れてしまう者だと思うのですが、イエスさまはここで「恐れることをやめなさい」ということを言っておられます。「恐れることを全く消し去りなさい」と言っているのではなく、私たちの弱さを知って、恐れてしまう者だということをイエスさまはご存知なのです。
「恐れることを中止しなさい」と、励ましてくださる方であることを覚えましょう。全能なる神さまは私たちと共におられて、「恐れることはないよ!」と、私たちの今年の歩みの中でも語っておられることを覚えましょう。
弟子たちはイエスさまを幽霊と見間違え、恐れてしまいました。私たちも、恐れによって気が動転すると、見るべきものを見失い、真実を見誤ってしまうことがあります。時には、真の神さまですら見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。
少し話は変わりますが、初期のネパール宣教において、山から汗だくになりながら下山し、川に到着し、顔を洗いました。しかし、顔を洗い終えて眼鏡をかけようとしたとき、眼鏡が見当たらなかったのです。「あれ? 眼鏡がない!」と慌てて探しましたが、どうやら川に落としてしまったようでした……。何分も探し回りましたが、見つけることができませんでした。私は本当に気が動転してしまいました。
そんなとき、一緒にいたチェ・ヨンドゥ先生が「祈りましょう」と言われ、「イエスさま、眼鏡を見つけさせてください」と祈りをささげました。
そして、落ち着いて「もしここに落としたなら、この川の流れの中ではこっちの方に流れているのではないか」と考えながら探したところ、なんとチェ先生が眼鏡を見つけてくださったのです。
本当に、気が動転してしまうと、見えるものも見えなくなってしまうことがあります。チェ先生はまず祈って、イエスさまを見上げ、そして見るべきものを見て、見つけることに至りました。私は祈ることさえしませんでした。
私たちは時々恐れてしまいますが、全能の神である「わたしはある」と言われた神さまの存在そのものであるイエスさまがともにおられるのです。恐れずに、イエスさまを見上げていきたいと思います。

さて、話は聖書に戻りたいと思いますが、そんな素晴らしいイエスさまがおられることを知ったペテロは水の上を歩いて行くことが次に起こります。

“するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。”(マタイ十四章二十八~二十九節)

ここに「主よ、あなたでしたら…」とありますが、これは字義的な訳だと、「主よ、あなたなのですから」となります。ペテロはイエスさまご自身のことを確信していたのです。自然法則を超越して、五つのパンと二匹の魚で人々のお腹を満たされたイエスさま。自然法則を超越して、水の上を歩かれたイエスさま。そして、「わたしはある」という表現をする言葉を語られたイエスさま、天地万物の創造者であり、支配者であるイエスさまがおられる。
最初は幽霊だと見間違えるほどの状況だったので、うっすらだったかもしれませんが、「イエスさまがおられる。だから、私はイエスさまに近づきたい。」そのように感動を覚え、純粋な行動として踏み出したのです。ただ単に「イエスさまが水の上を歩いているから、私も歩いてみたい」といった衝動的な行動ではなく、真の王なるイエスさまとの出会いの中で感動を覚えて、純粋にイエスさまに近づきたいと思って歩き始めたのだと思います。