多くの収穫を見るために

そして、三番目は、「いばらの中に落ちた種」です。

“いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。”(二十二節)

「いばら」は木の成長を妨げます。日本では「いばら」と聞いてもあまりピントこないかもしれません。成長の障害になるものは、ほかにもたくさんあります。
先ほどお見せした農園の写真をもう一度お見せします。
 雑草で覆われていますが、実は、ここにはローズマリーが植えられているのです。ローズマリーは通常一メートルほどの草丈ですが、雑草がそれ以上に成長して、覆い尽くしてしまっています。草を分けて見てみると、雑草によって光が当たらずに、ローズマリーの多くが茶色くなって枯れかけていました。これを見て、これがまさに「いばらの中に蒔かれた種」の状態だと思わされました。
そのほかにも障害になるものがたくさんあります。
今は、実りの秋、食欲の秋ですが、皆さん、秋の旬の果物といえば何を思い浮かべますか? いろいろあると思いますが、柿もその一つです。柿は旬の時期が短いですし、日持ちもあまりしませんから、出回っている今のうちに食べられたらいいかと思います。
先日、スーパーをやっている兄と一緒に出かけた時、「今年、ハーブ農園では害虫がたくさん発生して、収穫が例年に比べて三分の一に減ってしまった」と話をしましたら、「柿もあまりよくない」と言いました。今年は猛暑でカメムシが大量発生し、農家によっては、外が見えないくらいびっしりと、カメムシが窓ガラスに付いたそうです。そのカメムシたちが甘くなってきた頃に柿にくっつき、アザのようなものができて見た目も悪くなり、エキスを吸って味が落ちてしまって、良い柿が少ないということでした。
このように、害虫も成長を妨げますし、台風や大雨によって苗木が水没したり倒れたり、成長の途中で病気になり、枯れてしまうこともあります。
信仰生活で成長を妨げ、実を結ばせなくするものは何でしょう。ここでイエスさまは、「この世の心づかいや富の惑わしがみことばをふさぐ」とおっしゃっています。日本人は周りに気を使うことを美徳とするところがあります。「自分勝手にやればいいというわけではないのだから、皆に合わせなくてはいけない」と、気を使います。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉が流行になったことがあるように、みんながやるならいいと考えてしまうところがあります(これは正しくないことので、やってはいけません)。人と調和を保つことは必要ですが、何でもかんでも合わせることはよくありません。それが信仰の成長を妨げる原因になることもあります。
クリスチャンが少ない学校や職場では、信仰を保つのに困難を伴う場合があります。
先日、「自分たちは祭りには参加しない」と宣言した岐阜の四人の子どもたちのことを順先生が話されていました。それは大きな問題になったと。今ではそこまで大事になることは少なくなってきていますが、田舎に行くほど、地域の伝統を守ることや祭りの寄付や参加を求められることがあります。妥協していくことで、知らず知らずのうちに信仰の基盤が薄れてしまうことがあります。
また、「お金さえあれば幸せになれる」と思い込んでしまうこともあります。お金が幸せのすべではないと分かっていても、つい「お金があれば何とかなる」と錯覚し、それが信仰成長を止め、知らぬ間にサタンの策略に負けてしまい、気づかないうちに枯れてしまうことがあるのです。
「私は大丈夫だ」と思っていても、サタンは巧妙です。いつの間にかサタンに惑わされ、思い込まされてしまっていることもあるかもしれませんから、定期的に自分自身の信仰を点検することも大切です。

そして最後の四番目の種は、「良い地に蒔かれた種」です。
私は昨年まで、ハーブについて何も知らなかったのですが、ハーブにはたくさんの種類があります。農園ではローズマリーのほかに、「セルバチコ」を栽培しています。
写真を見ていただきたいのですが、
 これは、先にお見せした荒れ放題だったところに耕運機で耕し、畝を作り、マルチシートを張り、セルバチコの苗を植えたところです。二カ月くらいすると、次の写真のように、成長していきます。

セルバチコはハーブの一種で、イタリアンレストランなどで、料理の添え物やサラダに使われているようです。
このように、荒れた土地であっても耕すなら良い地となり、十分な水分と肥料を与え、条件が整い、さらに太陽の暖かい日差しがさすなら、種は順調に成長し、多くの収穫を見込むことができます。
先ほどの雑草に覆われていたローズマリーも、雑草を刈って、だいぶ持ち直し、収穫できるようになってきています。

  私は、もしクリスチャンホームに生まれてなかったら、神さまを求めていなかったかもしれないと思うと、クリスチャン家庭に生まれさせてもらえて、教会に通い、みことばを聞くチャンスが与えられ、神さまに出会う条件が整えられていたことを感謝しています。しかし、クリスチャン家庭に生まれたからといって必ず救われるわけではありません。
最初にお読みしたマタイの福音書十三章二十三節をもう一度お読みします。

“良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて、それを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。”

ここには、『良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて、それを悟る人のことで』とあり、その人は実を結び、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと書かれています。救われるのには、ただ聞くだけではなく、みことばを「悟る」ことが必要です。「悟る」とは、みことばを聞き、それを受け取り、実行することを意味します。
また、救いについて、ローマ人への手紙十章十~十一節に、こんなことが書かれています。

“人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は失望させられることがない。』”

信仰が実を結ぶカギは、悟るとともに、聖書のみことばを神のことばとして信じて義としていただき、告白することが大切だと教えられます。

皆さんは、これまでに多くの種を蒔いてこられました。しかし、なかなか収穫に至らないというジレンマを感じることがあると思います。時には、「自分の蒔いた種は道端に落ちてしまった」「岩地やいばらの中に落ちて枯れてしまった」と感じることがあるかもしれません。確かに人間的に見れば、蒔かれた場所が悪かったのかもしれませんが、成長ということについて、コリント人への手紙第一の三章六~節で、パウロがこんなことを語っています。

“私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。”

コリントの人たちは、パウロやアポロが素晴らしい働きをしているのを見て、「この人はすごい!」と称賛し、ある人は「私はパウロにつく」、ある人は「私はアポロにつく」と言い出しました。その時パウロがこの言葉を述べました。
パウロは、あえて「私が確かに植えたかもしれない。アポロが水を注いだかもしれない。しかし成長させたのは神だ」と強調しています。そして大切なのは、「植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神さまなのだ」と言っています。「私たちは、ただ神に用いられた奉仕者であって、主が与えられたとおりのことをしただけだ」とも言っています。
私たちは、神のみ心を悟り、主により頼み、主が私たちに与えられたこと、委ねてくださっている土地、領域を耕し、種を蒔き続けることが大切なのではないでしょうか。

先日、上條先生が素晴らしいメッセージを語ってくださいました。その中で、三国宇吉さんという方の話をされました。今から五十年以上前の話なので、ほとんどの方がご存じないと思いますし、私も、「そういえば、少し怖いイメージの人だったたなぁ」と、やっと思い出すくらいでしたが…。宇吉さんは絶対に救われないような、道端に落ちて芽を出さない種のような人だったかもしれませんが、奥さんの富美子さんがご主人を愛して、涙を流しながら祈り続けたことによって救われた方でした。
この三国宇吉さんが救われた、ある意味奇跡のような話を聞きながら、私の祖父 岡本啓一が救われた時のことを思い出しました。頑固ジジィを絵に描いたような人で、母がとても苦労しているのを見ていました。祖父は、家族全員が救われたにもかかわらず、「俺は絶対に信じない」「お前たちは滝元に騙され、耶蘇教にお金をぶんどられている…」と言って、私たちの信仰を迫害し続けました。
私は、「おじいちゃんは救われないだろう」と確信していました。「世の中には救われない人もいる。仕方がない」と。しかし、滝元明先生はあきらめずに祖父に伝道してくださいましたし、母は毎日、早天祈祷会で祖父のために祈り続けていました。その結果、ついに光が差し込み、あの頑固な祖父が神さまの愛に触れることができ、救われたのです。
『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』(使徒の働き十六章三十一節)のみことばの通りに祖父が救われたことは、私にとって奇跡的な出来事であり、大きな恵みを頂いた時でした。
それは、無駄なことのように思われたけれど、種を蒔き続けることによって芽を出し、実を結んだことでした。『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっとのちの日になって、あなたはそれを見出す』(伝道者の書十一章一節)で語られているとおりです。
人の救われた証しを聞くことは、信仰の励みになります。
最近、私の兄が、昔話を語る『数えてみよ主の恵み』というタイトルの集会が開かれています。パート1、パート2と2回行われましたが、私は兄が何か余分なこと言わないかなとハラハラしています。私にとってはほとんど聞いたことがある話ですが、私たちの家庭集会のメンバーのお一人が証しの時に、「四十年も五十年も前のことで、私はその時にはいなかったし、あまり関係がないと思っていたけれど、その集会で、多くの人が救われて、祝福があった、こんな奇跡があったと知ることができたことで、すごく恵まれました」と話されていたのを聞いて、昔のことを知ることも大切だなぁと、あらためて思わされました。

種を用いたたとえは、コリント人への手紙第二にもあります。

“私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。”(九章六~七節)

芽が出るとは思えないような場所でも、「こんなところ、蒔いてもしょうがない」ではなく、多く蒔く者は多く豊かに刈り取ることができるとあるように、諦めずに蒔き続けていくことが大切です。
その土地が耕され、芽が出て霊的な水を注ぐことによって、神が成長させてくださることで、最終的に百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことができます。

今日は、それぞれの地に蒔かれた種について学んできました。イエスはこの例え話を通して弟子たち、そして現代の私たちに何を伝えたかったのでしょうか。ここにある「良い地に蒔かれた種」とは、キリストに結びついている弟子たちであり、現代においては、私たちクリスチャンたちです。イエスさまは、良い地に蒔かれて成長した、救いを受けた者たちが、主の命令に従ってみことばを伝え続けるなら、主が成長させてくださり、豊かに実を結ぶことができること、そして、ご自分こそが成長させることのできる救い主であるということを宣言されたのだと思います。
弟子たちは、イエスさまが十字架にかかって死んだ後、復活したイエスさまと出会い、死を恐れず、命を懸けて伝道に励みました。その結果、福音はヨーロッパ、アメリカ、そして日本にまで届き、私たちはその恵みにあずかることができています。そのような先人たちの勇敢な働き、それに続く勇士たちのおかげで、今私たちにも福音が届けられ、救いにあずかっています。私たちも、主の願っておられる収穫を見るために、怠ることなく種を蒔き続け、祈り、励んでまいりましょう。