2024年11月10日(日)新城教会牧師 岡本信弘
マタイの福音書 13章8節
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。皆さんに祈っていただき、健康が支えられてここに立てることを感謝します。暑い夏が終わったと思ったら、朝晩いっぺんに寒くなりました。今は寒暖の差が激しい時期でもありますので、お互いのために祈り、健康にも気をつけてまいりましょう。
今日は午後に運動会があります。私の兄弟は、運動会の徒競走で一番をとったことが一度もなく、だいたいいつも、うちの兄は六人中六番、私は六人中五番でした。ある人にとって運動会は憂鬱なものかもしれませんが、私には楽しい思い出ばかりが残っています。
午後の運動会も楽しみにしています。年齢をとってきて、「あんまり無理なことは、やっちゃいかんよ」と家族に言われていますが、大声は出せますので応援をしたいと思っています。皆さんも競技に出なくても見るだけでも構いませんので、ぜひご参加ください。賞品もあります。
ミッションでは、先週水曜日からGo toミッションが沖縄で行われていて、順先生が奉仕に行かれています。少し体調を崩されているようですので、今も同じ時間で集会がありますし、夜にも最後の集会がありますので、順先生のためにもお祈りください。そして今週は、関西地区でGo toミッションが行われます。いつもミッションのために祈り、献げていただいていますが、続けてお祈りをお願いいたします。
先週は礼拝において順先生が『主を迎える為に諸天をめぐる霊的戦い』というテーマで語られました。難しいテーマだなぁと思ったのですが、とても恵まれました。先生はよく調べておられ、私の知らないことをたくさん教えてくださって、「やっぱ順先生はすごいな」と思いました。そして、「次週は、メッセージの担当だ」と思いながら、順先生のようには語れないけれど、自分の与えられた領域で語るしかありませんので、私の教えられていることを皆さんにお分かちしたいと思います。
皆さんに、プレイズことをお話しする機会が少ないので、今日は少しお証ししたいと思います。プレイズの働きのために、いつも皆さんにお祈りいただき本当にありがとうございます。
コロナの四年間、なかなか大変な時期でした。特に印刷関係は、皆さんもご存じのように、ペーパーレスが進み、本離れなどもあり、なかなか売上・利益があげられない状態で、年々業界自体が先細りの時代の中にあります。そこで数年前から、将来どうしていこうかと祈ってきましたが、神さまのご計画の中で福祉という領域に導かれました。九年前から始まったその事業がだんだんと軌道に乗りはじめ、何とか乗り越えてくることができました。多分、印刷・出版だけだったら、今頃プレイズも潰れていたかなと思いますが、本当に主の守りがあったことを感謝しています。
そして、不思議なことに、昨年農業部門の道が開かれました。ハーブ農園を経営しているクリスチャンの友人が体調を崩して、このままではやっていけないということで、昨年の夏に「何とかしてくれないか」と相談を受けました。そこで、豊川にある農園を訪ねました。そこは一五〇〇坪ほどの広さで、ハウスもたくさんありましたが、唖然としました。写真をお見せしますが、ハウスの中は荒れ放題でした。
数カ月手入れしていないだけで、こんなにも荒れてしまうのかと驚きました。
もう一枚写真をお見せします。
これは、ほとんどが雑草なのですが、実はこの中にローズマリーが植っています。この荒れ放題の状態をどうすればいいのか、大丈夫か、という感じでした。
しかし、私には将来、農業をやってみたいという思いが以前からあり、祈っていたこともあったので、農業の経験も知識もないにもかかわらず、この話を受けて経営に乗り出しました。「なんで? 何の知識もないのに…」と思いますが、私は計算はできるので、ここ数年間の決算書を借りてシミュレーションを行い、これなら何とかいけるかもしれないと計画を立て、祈ってこの事業再建に着手しようと決断したのです。
そして、プレイズには就労継続支援B型である「シャローム」と「サーム23」という事業所がありますが、農園との連携を図り、働き場所を確保すること、また雇用を生み出すことが、この事業をやろうと思ったもう一つの理由です。今、国では、農業と福祉を連携させる「農福連携」が話題となっていることもあり、このことによって地域や教会、将来のリバイバルに対しても、必ず役に立つと信じて始めていますので、皆さんもぜひ祈って支えていただければと思います。
農園とのかかわりの中で、今日のみことばが頭に浮かびました。このみことばから多くのことを教えられたので、皆さんと共に信仰成長の条件について学んでいきたいと思います。
皆さんは、毎日聖書を読まれているかと思いますが、イエスさまは、たとえを用いて語られることも多く、「これはどういう意味だろう?」「わかりにくい、難しい」と感じるところがあるかもしれません。
今日のみことばが書かれているマタイ十三章には、『イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた』(三節)とあるように、たくさんのたとえが出てきます。そして、イエスさまはあえて、群衆がすぐに理解できないようにたとえ話で語られました。それは、天の御国の奥義を知ることが許されていないからだ(十一節参照)と書かれています。
聖書を読んで具体的にどういう意味かはわからなくても、心に残るみことばがあります。これが、聖書が単なる小説やテキストとは違うところです。たとえその時には意味がわからなくても、神さまの時が来た時、その言葉が心に響きます。皆さんの思いをはるかに超えたところで、みことばを通してあなたに語りかけてくださいます。イエスさまの声が直接聞こえなくても、「あ! 神さまが今このことを私に語ろうとしているんだ」と感じる時があると思います。何かの時にそのみことばが思い出され、こういうことだったのかとわかる時が来たり、力づけられたり励まされたりすることがあるのです。ですから、是非みことばを読み、蓄えてください。聖書は、すべてを創造され、今も生きておられる神の言葉そのものですから。
私が幼い頃、日曜学校で毎回「みことばカード」をもらいました。ちょっとしたイラストとみことばが書かれている小さなカードなのですが、毎週そこに書かれているみことばを暗唱するよう強制されました。私はあまり覚えるのが得意ではなかったので、「これが何になるんだろう」と思っていましたが、その時覚えたみことばが、いろんな場面でふと心に浮かび、助けられることがよくあります。皆さんもいざという時、引き出しから取り出せるように、実を結び、神さまの役に立つ者になるためにも、みことばを蓄えて準備しておくのがいいと思います。
さて、聖書中には「種」を題材としたたとえが多くあります。種蒔きのたとえは、日常的な言葉が多く用いられているため、心に残りやすい箇所ではありますが、同時に解釈が難しい部分も含まれているように思います。今日は、マタイの福音書十三章三~二十三節に書かれている、四カ所に落ちた種がどうなったのか、無駄になる種と百倍の実を結ぶ種の違いを考えながら、隠された信仰成長のヒントを見出していきたいと思います。
まず、種がどこに落ちたのか、そして結果はどうなったのかを確認したいと思います。では、マタイの福音書十三章三~九節をお読みします。
“イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」”
四種類のうち、せっかく蒔かれたにもかかわらず、道端に落ちたもの、岩地に落ちたもの、いばらの中に落ちたものの三種類は、無駄になってしまったのです。
日本でこんな大雑把な種まきはあまり行わないと思います。日本では土地が狭いこともあり土地を耕して、一粒一粒、等間隔に種を蒔き、収穫の準備をするのが一般的です。時代や習慣によっても方法は異なりますが、アメリカでは広大な土地に飛行機で種を蒔く光景が見られることもあり、そのような場面を想像すると、種が道端に落ちたり、岩地に落ちたりするのも不思議ではありません。
それでは、収穫までに至らなかった三種類の種について少し見てみましょう。
最初に、道端に落ちた種について、イエスさまはこのように語っています。
“御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。”(十九節)
この種は、芽が出る前に鳥が来て食べてしまったとあります。当然ですが、道端に落ちたなら、踏みつけられたり鳥が食べたり、時には雨で流されたりして、忘れられ無駄になってしまう様子が想像できます。
日本の宣教の現状に置き換えるとどうでしょうか。私はこの道端の「道」は、硬いアスファルトのように感じました。蒔いても蒔いても土がなくて芽が出ない。どれだけ祈っても、なかなか救われないという状態です。
今まで日本の伝道において、牧師先生方や宣教師たちが多くの犠牲を払い、一生懸命みことばの種を蒔いてこられました。それでもなかなか芽が出ない現実があります。
世の中にはサタンの策略にはまり、「神なんていない」と言ったり、「今が幸せならそれでいい」と、神への関心を持たないまま生きている人が多いですが、これこそが、道端に落ちた種なのではないかと思います。
そして、二つ目の種は「岩地に落ちた」とあります。これについては、二十~二十一節で次のように説明されています。
“岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。”
この岩地に落ちた種は、芽は出たのです。
皆さんは、芽が出て成長する条件についてご存じでしょうか。家庭菜園をしている方はよく知っておられるかと思いますが、適度な水と光と養分が必要です。この岩地に落ちた種は、芽を出すことはできたので、少なからず水分があったので芽を出すことができたのでしょう。しかし、ここにあるように、硬い岩にしっかりと根を張ることができず、結局枯れてしまったと説明されています。
私たちの信仰成長に置き換えて考えてみましょう。今まで、数え切れないほどの人が教会を訪れ、伝道集会やコンサート、クリスマスコンサートなどで信仰告白まで至った方々もいます。その人たちは確かに芽を出すことができました。しかし、岩地に蒔かれた種のように、しっかりと信仰の根を張ることができていなかったために、離れてしまったのです。
皆さんはどれくらいの信仰年数がありますか? まだ間もない方から、何十年と信仰生活を重ねておられる方もいらっしゃいますね。私は洗礼を受けてから六十年がたち、「すごいですね」と言われることもあります。六十年たっても、「あまり成長していない」と、反省することだらけですが、長く信仰生活を続けることはとても大切なことです。信仰の根を張るには時間がかかります。
そして、管理することも大切です。私はハーブ農園での経験を通して、芽が出てからの管理がいかに重要かを学んでいます。(植物にもよりますが)数日水をやらないとすぐに枯れてしまいますし、時には適度な肥料を与えなければなりません。
同じように、せっかく信仰の芽を出して喜んでいたにもかかわらず、みことばを読まなかったり、祈らないことによってサタンの策略に陥り、少しの迫害や困難に負け、成長する前に信仰を手放してしまう人が多くいるのも現実です。