七月から聖日朝十時からバイブルモーニングが始まりました。創世記一章から一章ずつ毎週読むようになっています。とても恵まれた時を持つことができています。私はこの頃バイブルモーニングで創世記を読み始めて、自分ももう一度創世記を振り返ることができるようになりました。私たち人間は、創世記一章二十七節に、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

とあります。ここに『神のかたちとして彼を創造し、』とあります。私たちは、神の形に似せられて、造られています。創世記二章八節には、

『神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。』

とあります。主は人を創造されて、エデンの園に住むように創造されました。その中央に、皆さんご存知だと思いますけども、園の中央に、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせました。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。と言われました。しかし蛇がエバを誘惑して善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そしてアダムにも与え、その後創世記三章八節から十一節

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」』

とあります。主に造られた人がさばかれました。八節をもう一度見てみたいと思います。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。』

とあります。人がエデンの園に住んでいた時はいつも主が 園を歩き回られるとあります。主は人と被造物と出会い、語り合い、交わりを持っていた事が読み取れます。しかし蛇に誘惑されてしまった後は、人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。とあります。普段は顔と顔を合わせて、交わり、コミュニケーションを持っていました。しかし蛇の誘惑に負けて善悪の知識の木の実を食べてしまってからは、自分が裸であることを知り、恐れて、隠れてしまったのです。主の前に出れなくなってしまいました。蛇の誘惑、ことばによって敗北し、主と交わりができなくなりました。罪の結果、主との交わりができなくなってしまいました。創世記一章三節で、

『神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』

とあります。主はことばで天地を創造されました。ことばで被造物を造り、人は主と言葉を交わし、交わりを持っていました。主はことばを力強いアイテムとして用いていました。しかし人はことばで、主と交わることをできなくしてしまいました。創世記三章二十三節には、

『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。』

人はエデンの園から追い出されてしまいました。そして男は額に汗をかき、また女性は生みの苦しみが受けて生活していくんだということで、結局神と人の前に、そこに断絶が起きてしまったわけです。
しかし主は私たちを愛しています。そして主は、私たちを愛するがあまりに、やはりこの聖書の中で同じような事をしています。出エジプト記三十三章十五節からを見ると、

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」

そして『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。』

『土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』

とあります。人は苦しみを得、土地は、被造物は、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならないとあります。ことばで失敗し、その代償は計り知れないほどの祝福を奪い取られ、呪われてしまいました。ことばでの誘惑で負けて主と交わることができなくなってしまいました。しかしその後出エジプト記三十三章十一節では

『【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。』

とあります。主は人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られたとあります。再度自分の友と語るように、顔と顔を合わせたいと考えています。

私たちはことばで失敗してしまったわけですが、再度ことばを勝ち取って主との交わりを持つ必要があります。第二コリント三章十八節

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

ここに顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させる必要がある。栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くとあります。私たちは今日栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行かせてもらいたいと切望します。コロサイ人への手紙三章九節・十節に、

『互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』

とあります。私たちは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着ることができるように新しくさせて頂きたいと思います。一番最初、司会者に読んでいただいたイザヤ書六章五節から七節

『そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」』

ここで「祭壇」というのは、これはどういう意味があるかというと、これは生贄をささげる場所でありますから、これはイエスさまの十字架を表します。「燃えさかる炭」とは、私たちの心をきよめて神の力で満たしてくださる聖霊さまのことです。聖霊は「息」や「風」などにもたとえられています。今日聖霊の火をくちびるに触れて頂きましょう。セラフィムのひとりが飛んで来て、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があり、彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」と言いました。聖霊の炭火であなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。と言っています。今日一人一人のくちびるに触れて頂き、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と主に祈って行くものとなりたいと願います。燃え盛る炭を私の唇に触れて下さい。ことばを回復させて下さい。ことばを聖めて頂き、人を傷つける者、殺すものではなく、人を活かす器になっていきたいと願います。主よ!今日私の唇に、聖霊さまが触れて下さるように求めますと熱く聖霊さまを求めましょう。

ことばを勝ち取れ!と教えて頂き、燃え盛る炭を私の唇に触れて下さいと祈りつつ今日のメッセージを迎えましたが、戦いがありました。家内の調子が悪く、知らず知らずのうちに、彼女に対してきついことばを発してしまい、傷つけてしまったなぁと反省させられました。この礼拝後、皆さんで熱く祈りましょう。聖霊を求めましょう。
私は今年で六十五才になりました。こんな私にも今までことばで勝利を下さったことをお証したいと思います。神さまはいつも素晴らしいわざを与えてくださいました。しかし代表的なことをお証したいと思います。
二〇一九年十月一日その日は火曜日でしたが、私はこの日を忘れることができません。なぜかというと私ははじめて救急車で病院に運ばれた日です。日本では警察は一一〇番で、消防は一一九番ですけども、聖書にも神の緊急番号があるのを、皆さんご存知ですか?聖書に緊急番号が書いてあるのです。それは、八〇三八三三三番です。ここに皆さんもお持ちの携帯電話でダイヤルしてもかかりません。聖書にある緊急番号です。語呂合わせですが、エレミヤ三十三章三節だそうです。八〇三八(エレミヤ)三十三章三節を読んで見ましょう。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

私たちがことばで主に呼べば、わたし(主)は、私に答え、私の知らない、理解を越えた大いなる事を、告げようというのです。二〇一九年十月一日の朝七時過ぎ、いつもと違う体の不調を覚え、当時我が家の一階に同居していた三男の所に行き、訴えました。力が入らず、口角が下がって喋れなくなって来たのです。すぐに私は脳の病気だとわかり、三男もやばいと思い、救急車を呼んでくれました。私の心は真っ暗でした。「もし後遺症が残ったらどうしよう?もしこのまま死んでしまったら・・・・」など色々考えました。私の感覚だとすぐに救急車が到着して豊川市民病院に運ばれました。朝の七時半くらいだと思います。救急隊が「朝の通勤時間だからいつもより時間がかかりますよ。」と言われ、固いベットに寝かされ、血圧など計測されつつ病院に向かいました。そんな中で、私は少し落ち着いた時その週に語られた礼拝メッセージを思い出しました。
パウロとシラスが、ピリピの町で捕らえられて、真夜中に獄中で賛美したメッセージでした。夜中、それも獄中という最も暗い時に「賛美をした」のです。そうしたら地震が起こり、獄の扉がひとりでに開き、助かり、その後看守も救われたという箇所でした。その「賛美」を原語で見ると、「詩篇をうたっていた」というのです。そして「真夜中にうたう詩篇」とは、詩篇百四十九篇の「床の上の賛美」であり、「神への称賛」は、ヘブル語では「最高の賛美」という意味である。という二日前の礼拝メッセージで語られたのを思い出し、「そうだ!こんな時こそ賛美しよう」と思い、救急車の中で賛美し始めました。始めは声が出ませんでしたが、だんだん出るようになりました。すると少しづつ心落ち着いて来ました。そして昔の賛美ですが「主を待ち望むものは♪」という曲を賛美していました。途中喉が渇いたと思い、三男に「お茶がほしい」と伝えました。何とその時声が少し出ました。そして救急隊に、「ちょっと起こしてくれる?いいですか?」と言ったら、ちょっとだけ起こしてくれました。そしてお茶飲むことができました。運ばれる時は口角が下がり麻痺していて、そのままならば飲めなかったと思ったのですが、お茶をしっかり飲みこむことができました。そうこうしている時豊川市民病院に到着して、様々な検査をしました。結果は脳梗塞でした。確かに画像には脳梗塞があった白い影がありましたが、主に感謝します。また多くの方が祈ってくださったと聞きましたが、その祈りによってなんの後遺症もなく、大事をとって四日間入院しましたが、無事退院することができました。振り返って考えると、賛美には力があるという事です。あの時は賛美によっていやされたと信じます。賛美に力があります。

また先週の教会ニュースの巻頭言にも書かせていただいたのですが、当時私たち家族が住んでいたのはとあるアパートの一階でした。環境と言い、ご近所の方も良い方ばかりで、とても良いところでしたが、梅雨の時期になると、とても湿気があり、家中カビだらけの状態になりました。しかし金は全くなく。絶対に引っ越すことは難しい状況でした。しかし聖書のマルコ十一章二十四節