The still small voice of God~神のかすかな細いみ声

2024年7月7日(日)エステバン・サン・マーティン師

第一列王記 19章9〜13節
“彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」”

今朝、皆さんに主の祝福がありますように。ここに一緒にいることができて、私たちも祝福されています。イエスさまを一緒に礼拝できます。全ての栄光が主にありますように。全ての誉れが主にありますように。イエスさまに拍手しましょう。

今朝、主のみことばを分かち合うことができるこの機会を本当に感謝します。順先生にも、この機会を与えてくださったことを感謝します。
日本に来るのは三回目です。いつもはインターナショナル・ミニストリーの方で、スペイン語で説教をしています。前回来たのは二〇一九年でしたが、その時に順先生と一緒に朝ごはんを食べて、「次、日本に来た時には、日本語の礼拝で説教をしてください。」と言われました。そして彼はそれを守ってくれました。彼が言ったら、彼はそれを成し遂げます。だから今朝、ここにいます。主のみことばを分かち合うために。

私はオーストラリア出身ですが、オーストラリア人には見えませんよね。たぶん皆さんはオーストラリア人は金髪で、青い目で、大体二メートルくらいあって、だから「オーストラリア人が来た」と聞いた時に、私を見た時、「え?本当にオーストラリア人かな?」と思ったと思います。私の父親はチリ出身で、母はスペイン出身です。でも私はオーストラリア生まれです。
ドリアさん、通訳をありがとうございます。これが初めての日本語への通訳です。うまくいくことを願います。

すでに第一列王記が読まれましたが、今日のメッセージでは「神のかすかな細いみ声」についてお分かちしたいと思います。主の声にある力について語りたいと思います。主の単純な言葉、かすかな細い声にある力。

エリヤという大預言者が、自分が洞穴の中にいることに気づきました。彼は非常に鬱になっており、怖くて、命のために逃げています。彼は天から火を下した人です。そして死んだ人をよみがえらせた人です。主の預言者として、本当に偉大な奇跡をした人です。
でも彼はイゼベルからの言葉を聞きました。「私はあなたを殺します。」という言葉を聞きました。そしてその言葉が、彼の霊に、魂に入りました。そして力ある偉大な人ではなくて、それを誹ることをせず、彼は逃げました。そして洞穴の中に隠れました。

十九章の最初を読みますと、「もういいです。私はもうできません。自分の先祖のように良いことはできません。私は死にたいです。」とまで、言いました。これは本当にひどい状況です。洞穴に入っていて、暗い中、神さまの計画の中から遠く離れています。その時、主が彼に現れます。かすかな細い声を通してです。かすかな細いみ声です。
そういう瞬間には、私たちは主の素晴らしいものが見たいです。何か大きなことが起きてほしいです。でもそういった状況の中で、かすかな聖霊さまの声の中に力があります。アーメンですか?
時には偉大なことを見たいと思います。特に自分自身が傷んでいる時です。そして自分が壊れている時です。恐れている時。何か素晴らしいことが見たい。そして主の単純さを見逃すことがあります。みことばの単純さを見逃すことがあります。時には超自然、超異常なことを探します。その中で、主の普通の働きを見落とすことがあります。

今朝、全員起きてきましたよね。全員が新しい一日を迎えることができました。それが主の普通の働きです。私たちは今日生きています。今日教会に来ることができています。そして自由にイエスさまに賛美することができます。とても単純なことです。でも力があります。アーメン。

時には実際に聞こえる神の声を聞きたいと思います。天からしゃべって欲しいと思うことがあります。でもそうすると、この書かれた主のみ言葉を見逃すことがあります。時には叫び声が聞こえます。そうすると細い声が聞こえなくなります。その「わたしはあなたと一緒にいる」という声、「あなたから離れません。あなたを捨てません。あなたを呼びました。」アーメン。

黙示録では、「耳がある者は」という表現が何度も出てきます。みたまが教会に語っていることを聞くように。ここには「聖霊さまが教会に叫んでいることを聞きなさい」とは言っていません。「聖霊さまが教会に語っていることを聞きなさい。」私たちは主の叫び声を聞かなければならないのであれば、たぶん私たちがちゃんと聞いていないからです。誰か(例えば子どもたち)に向かって叫ぶ必要がある時は、彼らが聞いていない時ですよね。アーメンですか?
皆さんの子どもたちは良い子どもたちばかりで叫ぶ必要がないかもしれません。アーメン。

ヨハネの福音書 10章27節では、イエスさまが、

“わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。”

ヨハネの黙示録 3章20節には、

“見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

これはイエスさまが語っているのです。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
なぜ彼らはその声を聞くことができなかったのでしょうか。これは教会に語っていることです。イエスさまが叩いています。そして声をあげています。「入っていいですか?」でも彼らはイエスさまの声を聞くことができませんでした。どうしてですか?教会に多くの雑音があったからです。いろんな活動があったからです。時には人生に雑音があり過ぎて、問題、疑問、いろんなことが起きていて、聖霊さまの声を聞くことができないことがあります。単純なイエス・キリストの声です。「わたしに入らせてください。そして一緒に交わりましょう。」
私たちは何かすごいことを探しますが、何か大きなものを見たいと考えますが、でもイエスさまは来て、単純な細い声を通してくることがあります。「どうかわたしを今日入らせてください。」主のことばにアーメンですか?

私たちは教会が静かであることを恐れているところがあります。主のみことばを単純に聞くことについても恐れを持っています。

私はうるさいのが好きです。子どもが四人います。とてもうるさいです。私はラテン系なので、スペイン系の血が流れていて、とてもうるさいのが好きです。大きい声やうるさいというのは悪いことではありません。感情を表現することが悪いわけではありません。それが喜びだったり、祝い事だったり、それが私たちの信仰生活の一部であります。私は大きい声で主に賛美するのが大好きです。聖霊さまが動いて、感情的なそういう反応があるのもすごい好きです。そしてそれで言葉が少しうるさくなります。それは主の臨在に対する反応だからです。多くの時に、そのように主の臨在に反応します。時には音が大きいです。

でも私たちが考える時に、そういうのが起きないと思う時に、主が私の人生において働いていないと思う時が問題です。どうですか?アーメンですか?もう少し大きい声で大丈夫ですよ。アーメン!

問題は、私たちはペンテコステ系なので、主が動いてくださることが大好きです。本当に叫んで賛美することが好きです。教会の音が大きいことが好きです。でも信仰生活の中では、何が問題かというと、それが起きない時に「今日神さまが教会にいなかった。」と思ってしまいます。「神さまが私の近くにはいない。」と思ったり、地震によって揺さぶられていないから、火がないから。叫び声がないから。主がそこにいないと思ってしまいます。主が近くにいないと思ってしまいます。

でも今日、皆さんに語りたいです。主は自分が思っているよりも近いと思います。あなたが思っているよりも近くにいます。私たちが少しでも近づけば、少しでも主に近づけば、主のそのかすかな声を聞き始めることができます。
私たちはその雑音を全て沈める必要があります。私たちの周りのすべての音です。本当に一番大切な声を聞く必要があります。私たちの主との関係が、いつも大きい音でないといけない。素晴らしいものを見たり、火がくだったり、感情的に表現したり、それがないと主の臨在がないと思ってしまえば、いいですか。いつもその状態だと、キリスト教がとても浅いものになります。教会生活がとても浅いものになります。それが感情によって導かれるからです。そして私たちが感じていることだけによって導かれていきます。信仰によって導かれているわけではない。主のみことばが私たちを引き寄せるべきです。主の臨在が私たちを引き寄せるべきです。

子どもたちは大きい音が必要です。子どもたちは色とりどりが好きです。五歳の子の注目をひきたい時は、何をしますか?ふざけた顔をしたり、何かおもちゃを見せたり、いろんな色を見せたり、ピエロを持ってきたりとか、なんとか楽しませないと注目させることができません。もしくは飴をあげたりとかして、「これをやってくれたら飴をあげるよ。」と言ったりするかもしれません。
子どもたちは楽しませなければいけません。そうでないと目を向けさせるのが難しいからです。

ですが、残念ながら多くの教会もこんな感じになっています。多くのクリスチャンもこのようになってきています。このような時代、主の油注ぎがエンターテイメントによって置き換えられています。主の力がパフォーマンスによって置き換えられています。教会がいろいろなことを生み出し、そこでいろいろな騒ぎをし、大きな偉大なことを見せることができますが、そうすれば「今日主が教会にいました」と思うかもしれません。でもそこにはいなかったかもしれません。主のことばがなかったからです。どうですか?アーメンですか?

主が私たちを呼んでくださっています。主が世界中の教会を呼んでくださっています。私たちが成熟するために。成長するために。主ともっと密接な関係を聖霊さまとも持つように。それがすべてみことばについての関係です。すべてイエスさまについてです。
今日素晴らしい派手なことがなかったとしても、誰も走ったりとか、誰も手を叩いたりとかしなかったとしても、それでも主がここにいます。
主のことばは、「二人、三人がわたしの名前によって集まっている時は、わたしがそこにいます。」ハレルヤですか?

風ではなく、火ではなく、地震でもない。でもかすかな細い主の声がそこにあります。私たちの人生において、教会において、人工的な風を作ることができます。風を作り上げることができます。家族と一緒に今年の頭にクルーズに乗りました。そのクルーズでは波があるプールがありました。その波は人工的なものでした。子どもたちがサーフボードでその波に乗って、実際にサーフィンができます。人工的な波をサーフィンしていました。
でも浜辺に行くと、波は風があってこそ波があります。その方がもっと強いです。もっと力があります。教会とか人生の中では、私たちがその波を作り上げることができます。それは背後に神の風がない波です。神さまのことばのない地震を作ることもできます。聖霊さまがいない火を作ることもできます。火だったり、地震だったり、神さまの風は、目的があります。
教会の歴史を見ていくと、教会が冷えてきた時は、伝統に落ちていってしまう時は、神さまが火を持ってきます。神さまが地震で教会を揺さぶります。教会に聖霊の風を吹かせます。これはアメリカのアズサストリートで一九〇六に起きました。主が聖霊さまの火を送りました。それは教会を起こすためです。でもそれは普通のことではありません。私たちが主の声をなくしてしまう時、すべてをなくします。
だから教会に何か大きな派手なことを見ようと思って来ている時は、維持可能なものを見落としてしまいます。主のことばが私を維持させます。私たちを強くします。主のみことばは毎日手に入れることができます。私たちの信仰を養います。
「信仰は聞くことによって」と聖書にあります。聞くことは主のことばを通してです。なので言葉が必要です。私たちが偉大なものを見ようと思うならば、とても浅い信仰生活になります。