主が導く戦い −伏兵−

七、八、九章と大まかに流れを見てきました。このようにして、三つの戦いを振り返ると、エリコの戦いでは、町の周りを回るという一見戦いと無関係な行為を通して、城壁が崩れるという超自然的なみわざがありました。これは言うなれば主の側でなされた奇跡でした。次いでアイの戦いでは、「伏兵を備えよ」という主の命令に従い、挟撃で敵を殲滅しました。これは当時の戦いにおいて既に一般的に用いられていた地上的な戦術でした。エリコでは超自然的なわざ、アイではそのような地上的な戦略、策略も用いて勝利がもたらされました。そしてギブオンに対しては「和睦」という形で解決しました。
これら三者三様のわざの起こり方がここに見られます。大事なことはいずれの勝利も主によってもたらされたものであり、どの方法が最も優れているということはありません。主がみこころを成す時に、どのような方法でも取り得るということを、ここから学ぶ必要があるかもしれません。
今日はその中で「伏兵」に焦点を当て、私自身が示されたことをお分かちさせていただいています。長くなりましたが、「伏兵」というキーワードに戻ります。

エレミヤ書の五十一章十二節には次のようなみことばがあります。
“バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。”

エレミヤはヨシュアの時代からは随分後、バビロンという強大な敵がいた時代です。
しかしこの箇所にも今日学んでいる内容と共通するキーワードが出てきます。戦いにおいて主が語られている原則は変わっていないと言うことができるのではないでしょうか。
「バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。」城壁は町を守る、攻める側にとっては大きな関門です。戦いにおいて、まずその城壁をどうにかしなければ、敵をどうすることもできない。繰り返しになりますが、それが一気に片付いたのがエリコの戦いでした。これがいかに大きな奇跡であったかがわかります。城壁に対して「旗を掲げよ」というのは、「自分たちの戦意を敵に示せ」ということではないでしょうか。戦う意思を敵に示すことが、私たちの戦いにおいてまず必要なことだということです。

そして次に「見張りを強くし、番兵を立てよ」とあります。ここで思い出していただきたいのが、アイの町がどうして無惨に敗北したのかということです。アイの兵士たちは、敵が逃げたと思い込み、誰一人残らず、他から攻撃が来ることを考えず、自身の町を空にして、一つの敵に向かいました。これは、幼い子がサッカーをやるとボールが磁石かのように皆ボールに集まるような状況を思い起こさせます。全員が一つの方向に「勝機だ!」と向かっていったわけです。その結果、別の方向からの伏兵にこてんぱんにやられました。
ですから戦いにおいて見張りや番兵を立てることは非常に重要です。攻められる側とすれば、常に四方八方に警戒をし、どの方向からの攻撃も常に想定しておかなければなりません。聖書の中に「信仰の大盾」が出てきますが、盾は攻撃が来るであろう方向に構えることにより、そちらからの攻撃には有効です。しかし、盾を構えても後ろ側から攻撃が来たら何の意味もありません。
私たちの信仰における戦いにおいてもその様な点に注意が必要です。「ここからは攻撃がない。ここは祈りとして扱う領域ではない」と決めている部分がもしあるとすると、そこから伏兵が来た場合、私たちはその攻撃を守り無しで受けることになってしまいます。

そしてエレミヤ書五十一章十二節にもどりますが、ここでも「伏兵を備えよ」と命じられています。そして、一二節の最後には、主は計画を練り、敵に相対される方だと書かれています。

今日学んでいる「伏兵を備えよ」と言われている主の命令に、現代の私たちはどの様に応答することができるでしょうか。

教会は多様な背景を持った方々が集っています。出身地や国も異なれば、年齢や職業、遣わされている領域、住んでいる地域もバラバラです。そのような集団であるからこそ、一人ひとり、ご自身にしか負えない領域があると思います。これはいつも語られていることですが、私たちは主によって、それぞれの領域に遣わされている存在です。ここに「伏兵」というキーワードを追加する時、「自分がなぜ今ここに立たされているのか」、「なぜこの地域に住んでいるのか」、「なぜこの職業に就いているのか」などの問いに新しい戦いの視点が与えられます。非常にわくわくしてきませんか?それぞれに託されている主の使命や、果たすべき役割についてより明確な信仰の裏打ちができるのではないでしょうか。それにより、より一層主の民として力強く歩むことができます。

我が家の第四子が一歳を迎えたことについて冒頭でお話しました。実は、胎に与えられた時から、我が家では「伏兵のような存在だ」という話が出ていました。私自身その時はあまり深く考えていませんでしたが、今振り返ってみると本当にその通りだったと感じます。新しい命という領域でしか解決できない問題や傷が、私たち家族にはありました。
その様な中で、主が私たち家族に伏兵のように「歓ちゃん」を「備えて」くださり、それらをすべて清算し、歓びに変えてくださったのがこの一年でした。まさに伏兵でした。

敵、悪魔からすれば、私たちクリスチャンが喜ぶことは最も望ましくないことです。私たちが喜びを持って生きるとき、敵は大きく歯ぎしりしていることでしょう。

皆さん自身が「伏兵」であると受け取るとき、必ず主が「きたるべき時」も用意されています。先ほど「敵の不意を突くことができる」ことが伏兵の最大の利点であると触れました、それを可能にするためには、適切なタイミングまで戦況に応じて待たなければなりません。
伏兵が単体で行動を始めたら、本隊の動きも台無しとなり、計画自体が崩れ、すべてが無駄になってしまいます。伏兵には、その時が来るまで、文字通り伏せて待つことが求められています。自分勝手に人間的な判断で動いてはいけないのです。これは伏兵にとって最も重要な戦略上の命令です。

さてここまで主に、自軍の伏兵の働きについて学んできましたが、敵側の伏兵についても考えなければなりません。先ほどのエレミヤ書の部分で少し触れましたが、いつどこからどのような攻撃が来るのかが分かっていれば、対処は容易です。
しかし、聖書から真理を受け取っていくと、私たちの直面している霊的な戦いというのはそんなに簡単なものではありません。
第一テサロニケの五章十九節から二十二節には次のようなみことばがあります。

“御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。”

という言葉があります。
私たちはこの世にどのようなものが存在するかということを四方八方あらゆる角度から吟味して、良いものは保つわけですが、一方であらゆる形の悪から離れなければなりません。このような戦いが私たちの前に置かれています。

第二コリントの十一章十四節では、

“しかし驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。”

というみことばがあります。このように、主が戦略を練られる方であるように、私たちが相対しているサタンもこの地上では最も狡猾で、最も知恵のある者、そして最も邪悪な存在です。あらゆる策略で私たちを滅びに引き入れようとしています。クリスチャンが戦っている相手はそのような存在です。決して甘い相手と戦ってはいません。
主の権威によって私たちはそのような敵にも打ち勝つことができます。しかしそれでも戦いは現実のものであり、敵がどれほど強大かを忘れてしまえば、足元をすくわれることもあり得ます。

「霊的戦いには真空地帯は無い」のではないでしょうか。特に現代の社会を見ていると、どれほど悪が働いているか計り知れません。悪魔は実際の地上の営みと密接に関わりながら、様々な悪を働いています。
この世に属する限り、どのような分野も学問、権力、国や様々な公的な機関の働きや動きにも、悪魔が働いていない領域はありません。この地上の営みである限り、必ず欠けがあり、誤りがあり、そして悪魔の働きが存在します。だから私たちは精一杯、見張って、敵の火矢がどこから飛んでくるかと備え、祈り続けていかなければなりません。

福音書に出てくる「荒野の誘惑」では、サタンがみことばを引用してイエスさまを誘惑します。サタンはみことばさえも使って敵を欺きます。つまり、どの分野にも悪魔が働き得るということは、当然、神学の領域にも適用されます。私たちはそれくらい敵がどれほど悪で、策略をあちこちに巡らせるものであるかを認識し、今の世の中や私たちが立たされている現実に向かう必要があるのではないかと思います。

また、第一テサロニケ五章十四節にはこのようなみことばがあります。

“兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。”

前回六月に、「タラントのたとえ」から、怠惰と恐怖は主が嫌われるものだということを学びました。怠惰な者は諭されるべき存在であり、小心な者は励まされるべき存在です。私たちは怠惰な者であってもいけない。小心な者であってもいけない。「恐れてはならない、おののいてはならない」という主の命令に従って敵に立ち向かう存在でなければなりません。そのためには、絶えず、敵の策略がどこにあるのかを思い巡らすべきであり、怠けていては、戦うことはできません。
しかし、そのような中で、戦いそのもの、闘争が目的ではありません。戦いのゆえに主の勝利が表されることが目的です。ですから、「怠惰な者」、「小心な者」を裁くのではなく、まず自分自身が立ち上がり、それらの人を支え、最終的に主の兵士として立ち上がれるように導く必要があります。
また、私たちは「義のために迫害される者は幸いです」というみことばに立ち、神の義のために戦っているつもりで、実際には五十音のガ行のようになっている部分が決して少なくないのではないでしょうか。
どういうことかと言うと、「義」とありますが、「が行」は「がぎぐげご」となっていて、「義(ぎ)」の上に「我(が)」が置かれています。「義」よりも自我を優先して行動することが無いようにしなければなりません。私たちはどこまでも主に従う歩みをする必要があります。

以上、ヨシュア記八章十八節、十九節を主題に、ヨシュア記七章から九章を通して、「伏兵」というキーワードで読み解いてきました。
私たちは主が導く戦いを続けていきたいものです。今日は特に「伏兵を備えよ」という命令に対し自分自身をここに遣わしてください」という自軍の伏兵としての態度、一方であらゆる領域に悪が潜んでいないか、敵が私たちを狙っていないかと、敵の伏兵に視点を向けることを学びました。
教会はこの時代にあって、敵を殲滅する主の軍として機能していくことがより求められていると思います。クリスチャン一人ひとりがその使命を果たしていく時、この国がどれだけ素晴らしい国に変えられていくでしょうか。主に期待して、喜びを持って戦い続けましょう。祈りを持って終わりにさせていただきます。

愛する天の父なる神さま、み名をあがめます。今日、もう一度、この地上において私たちが立たされている役割に目を留めさせていただけたことを心から感謝します。私たちは第一にどのようなことがあっても、主から離れることがなく、主と共にあり、主に従うことができますように。その上で敵に対して恐れを抱くことがないように、戦いに際しておののくことがないように、どうか私たち一人ひとりを新しい戦いの油注ぎで満たしてください。
この地上にあるあらゆる悪に対して、決して欺かれるような愚かな者でないように。そして敵の伏兵にも常に目を張り、何と戦うべきかを知ることができますように。いつどのような攻撃が敵から来るか、そのようなことさえも圧倒的な主の主権、勝利の中で導いてください。あなたの戦いを担わせていただく事ができますように。私たちが立たされているそれぞれの現場で戦うことたできますように。新しい油注ぎを与えてください。
この戦いはあなたご自身が導く戦いです。必要であれば、私たちを伏兵として用いてください。私たちは怠惰であり愚かであるということがないように、また小心であり戦うことに恐れることがないように、どうか助け導いてください。
今日、困難を覚え、弱さを覚え、傷を持たれているお一人お一人の上に、勇士としての新しい油注ぎを与えてください。私たちの霊・肉・たましいすべてが、主にある力強い勇士として強められますように。
私たちは問題に押しつぶされる存在ではありません。悪に押しつぶされる存在ではありません。あらゆる敵の力を打ち破り、死にも打ち勝ったあなたの十字架のゆえに、そのような権威が与えられていることを宣言します。主のために立ち上がることができるように、どうかお一人お一人にあなたの素晴らしい計画を注いでください。
私たちの大勝利者、主イエス・キリストのみ名によって、感謝とともにお祈りをおささげいたします。アーメン。