主が声を出すと。

エリシャが「ヨルダン川という川に行って、そこで七たび身を浸したら治るよ。」と、そういうふうに言ったのです。そうするとナアマンは、「自分の所にはもっと綺麗な川がいっぱいあるではないか。なんでここでしなくてはいけないんだ!」と、そう言ったのですが、その周りの弟子たちが、「でもその言葉だから実行しましょうよ!」と言って、実行に移ったのです。

そして第ニ列王記五章十四節に、このように書かれています。

“そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。”

というふうに書かれているのです。やっぱり神さまのみ声に聞いて実行する時に主の祝福が注がれるので、主が出し続けてくださっているみ声を、私たちもそのみ声に従って、み声に聞いて、主のみ声を発し続けていく時に、「ヤコブの分け前はこんなものではない!」私たちが思い抱いている何となくのリバイバルではなくて、「こんなものではない!」というリバイバルを主は現そうとされていることを信じて進んでいきたいと思います。

出エジプト記十二章四十二節には、

“この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。”

リバイバルために主ご自身がイスラエルの民を連れ出された時に、立ち上がって、主は眠ることもまどろむこともないお方ですけど、でも本当にそれ以上に、この時を「わたしがしようとしている大事業を完成させるんだ!」というために本当にそこに心を注いでくださったがゆえの大きな勝利がそこに現されたように、リバイバルという神さまがみ声を出してくださった働きに対して、主は今、この終わりの時代だからこそ寝ずの番をされて、「わたしが立ち上がって進むんだ!」と今おっしゃってくださっているのではないかなと思うのです。

レビ記二十六章八節に、こんなみことばがあります。

“あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。”

そのように書かれているのです。ですから私たち本当に主ご自身のみ声に聞いて進んでいく時に、五人が百人を追って、百人が一万人を追うというほどの祝福を神さまが与えようとされていると、そのことを信じていきたいと思います。

主にもう一度目を向けて、耳を傾けましょう。この時以上に主が今寝ずの番をされて、「わたしのしようとすることを今進めようとしているんだ!」と、主は語っておられるのではないかなというふうに思っています。

ですから寝ずの番をされた主ご自身が、

“主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。”

主ご自身がみ声を出して、終わりの時代寝ずの番をされて、「わたしが立ち上がって、わたしが進むんだ!」その主のご計画をもっと知って、わくわくしなくてはいけないのかな?いや大変だなとうつむいて楽しくなさそうに生きるのではなくて、イエスさまがくださることに対しての主の祝福というものをいただき続けていきたいなと思っています。

先日もギデオン協会の献金がありましたけど、ギデオン協会の会合に行っても同じようにいつも何か熱いものを感じるのです。一生懸命そこで仕えておられる方々が、本当にある意味身を削っておられ、行くたびに、私も一緒ですけど、年を重ねておられて、いるにも関わらず、一生懸命踏ん張って頑張っておられて、この姿をイエスさまは見られて放っておかれるはずないな。主のみことばを配布し、主のみことばを伝えるという尊い働きの中にあるので、本当にその主のみ声に、私たちは従って歩み続けていきたいと思います。
エレミヤ書のみことばに戻りますけれども十四節、十五節、

“すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの主だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。そのみ名は万軍の主である。”

神さまでない神々を知って、その神でない神々に従って、そしてまた仕えてしまう。それはどんなに大きな呪いになってしまうかということ、また偶像のために恥を見るし、またその息のない者のゆえに物笑いの種になってしまう。これが主に仕えずになってしまうものの姿だ。

しかし十六節の最後、もう一度お読みしますけれども、

“ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。”

信じましょう。ヤコブの分け前はこんなものではない。皆さんでお互いに言ってみましょうか。せーのーで、お隣の方に「ヤコブの分け前はこんなものではない!」と宣言してください。さんはい!

「ヤコブの分け前はこんなものではない!」アーメン!素晴らしいイエスさまに拍手の賛美をおささげします。一言お祈りします。

ハレルヤ。あなたの素晴らしいみ名を心からあがめたたえ、賛美します。主がみ声を出してくださり、あなたご自身は、そのみ声を発し続けてくださっていることを感謝します。私たち、もう一度主よ、心からリバイバルを求めます。多くの先人たちが心を熱くし、命をかけて、身を削り、あなたのみ声に従ってリバイバルを求め続け、叫び続けてきました。どうぞ主よ、この地にリバイバルを現してください。ヤコブの分け前はこんなものではない!という、そのような大きなあなたご自身のみ声をもう一度、ここに響かせてください。私たちもそのあなたのみ声に合わせます。あなたのくださる分け前はこんなものではなく、大きな大きな大きな祝福と勝利であることを宣言します!あなたの素晴らしさをほめたたえます!今すべてのご栄光を主にお返しし、尊きイエスさまのお名前によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげします。アーメン。