2024年5月5日(日)新城教会牧師 滝元開
エレミヤ書 10章13~16節
“主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの主だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。”
今日のメッセージのタイトルは、「主が声を出すと」とさせていただきました。今日も歌いましたけども、主が、今も、み声を出してくださっているということを私たちは知り、そしてそのみ声に従って歩み続けていきたいと思います。
このみことば、もう一度お読みしたいと思います。エレミヤ書 十章十三~十六節、
“主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの主だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。”
ここに『ヤコブの分け前はこんなものではない。』と書かれていますけど、主がくださろうとしているリバイバルの分け前というのは、私たちが想像しているよりも大きなもので、もちろん天に行って、大きな大きな大きな主からの恵みと約束の祝福をいただくことはできますけれども、それだけではなくて、この地における主のリバイバルという、今年は主がそれぞれにお与えくださ流と信じています。特にこの地では、明牧師がそれを受け取って、「リバイバル!リバイバル!」どこを切ってもリバイバルと叫び続けておりましたけれども、主がくださろうとするリバイバル、私たちがだんだん、なんとなく最近増えてきたなみたいな、そういう形ではない、大きなリバイバル、こんなものではない!というそのような祝福があると信じています。その結果、『ヤコブの分け前はこんなものではない。』という祝福が待っています。
この間、つい先日、ユースプレーヤーでこのみ言葉をずっと学びました。中高生のユースプレーヤーで、特にコロナの時期はユースプレーヤーをネットでしましたので、本当に少なかったです。特に顔も合わせることができなくて、最終的には二人の兄弟と私とでたった三人で行っていました。
しかし、特に今年度になって、新入生が加わってくれて、さらに、対面で楽しくやっています。その時に、このエレミヤ書十章十六節を、みんなで朗読して、そして覚えたのです。このみことばです。
『エレミヤ10章(しょう)16(せつ) ヤコブの分(わ)け前(まえ)はこんなものではない。』
わざわざこれ、ひらがなが書かれていますけど、今年から滝川先生のご長男が中高生会に入ってくれて、それで彼が平仮名カタカナを読める!と言って、しっかり読んでくれたのです。『エレミヤ10章(しょう)16(せつ) ヤコブの分(わ)け前(まえ)はこんなものではない。』
本当に神さまがくださろうとしている分け前というのが、こんなものではない、大きな祝福の分け前であると信じています。神さまがこれから私たち一人ひとりに、皆さんに、この地に、この国に、また全世界に与えようとしておられるリバイバルの計画はこんなものではないんだ!ということをしっかりと受けとめていきましょう。
今日は何日かというと、二〇二四年の五月五日なのです。五月五日、こどもの日で、すごく楽しい子どものための日というふうに言われていますけど、今から三十八年前の五月五日、ここで何があったかと言うと、結婚式があったのです。誰の結婚式かと言ったら、私たち夫婦の結婚式です。そんなことどうでもいいですけど、三十八年間ここまで守られてきたことを心から感謝します。
その時に私の兄の治が、今もデザイナーしていますけど、デザインで結婚式には引出物というのがありますけど、引き出物にシルク画を描いてくれたのです。それがどういった絵だったかというと、この絵だったのです。
「二頭の羊が草を食んでいる絵を描いて。」と言ったら、シルク画でこれを作ってくれて、シルク画なので色が褪せないのです。我が家にまだこれありますけど、本当に綺麗なまま残っているのです。それにこの絵にはすごく大きな物語があって、それができた頃に私の父母が、今の上皇ご夫妻がまだ皇太子時代でした。その時にお会いしに行って、そしてその時にこれを差し上げたのです。「うちの息子が結婚して、またその兄が描いた絵です。どうぞお受け取りください。」と言ったら、すごく喜んで受け取ってくださって本当に感謝でした。
この絵に対して、美智子様なのかどちらかわからないですけど、すごく喜んで気に入ってくださって、わざわざ「この絵をもう一つ欲しい」と言ってくださって、どなたかに差し上げるためか、神さまの導きの中でそのようにさせていただいて、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」とおっしゃったそのみことば通りに感謝しています。
“主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。”(詩篇二十三篇一~二節)
今日も私たちは羊飼いである主の愛の中でこうして生かされていることをもう一度心から感謝して主のみ手の中で生き続けていきたいなぁと思っています。
そして皆さんもご存知かと思いますけれども、ザワメキの働きも主にあって進めさせていただいて、これからさらに賛美を持ってリバイバルを今まで以上に響かせていこう!と心から願っております。それでザワメキも独立したのです。今までリバイバルミッションの傘下の中で奉仕させていただきましたけど、全く経済的にも、現実的にも独立して、「主のために歌おう!」ということで、今までも主のために生き歌ってきたつもりですけど、主がそのように導いてくださっていることを覚えて心から感謝します。
ザワメキのマークがありますけど、これがザワメキのマークです。
兄の治君が作ってくれたのですが、二〇〇一年だったでしょうか。私の記憶では、主の祝福のザワメキがガーッと広がるようなイメージの中で作ってくれたというマークで、すごいですね。二十数年経っているのにも関わらず色あせずに、後ろの画面だとすごく綺麗に見えていますけど、本当に神さまご自身がなしてくださっている働きが広がっているんだなと思って心から感謝しています。
今回新しく独立したことに当たって、今ザワメキのニュースを作っています。皆さんにお届けしようと思ってニュースを作っていますけど、なんか今までにない祝福の恵みが形になっているなぁと思うのですが、その中で、新しいザワメキザに向かって、新しいメッセージを届けていただきました。
21世紀キリスト教会の増山浩史先生がわざわざ私たちのためにみことばのメッセージをくださったのです。箴言二十一章一節、
“王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。”
ザワメキの働きがここまで来て、主は導いてくださったわけですけど、ただただ主の手の中にあって、水の流れのように主はみこころのままにその向きを変えられる。
だから今回新しいスタートをしたけれど、こうして新たな第一歩を進んでいることも、主ご自身が導いていてくれていることだよ!と、そのように語ってくださって、すごく嬉しく思っています。これからもただ主のみこころを掴んで、主のみこころのままに歩み続けることができるように、主がみ声を発し続けてくださっているので、「主が声を出すと」という、その声がもう終わってしまったのではなくて、主はみ声を発し続けて、この永遠を貫いて語ってくださっているので、そのみこころに従って歩んでいきたいと思います。
前回礼拝でメッセージさせていただいてから随分となるのですが、その間にいろいろなことがありました。一つはNRAという日本リバイバル同盟の会議がありました。そこに参加させていただきました。そもそも増山先生ともそこで初めて出会ったということころから始まったのですが、今年もありました。
冬の時期だったのですが、あって、とても祝福されたのです。そしてその先生方一人ひとりが本当に燃えているのです。なんでこんなに燃えているんだ?というぐらい、すごく燃えておられて、その時、リバイバルについて語り出したのです。「リバイバル、どんなものだろう。」と、来られていた先生方が、心わくわくさせているのです。本当にわくわくさせながら、すごく熱く熱く熱く燃えていて、その時に私の心にすごく響いたみことばが、ルカの二十四章三十二節のみことばで、
“「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」”
本当にこのみことば通りで、私たち燃え続けていかなくてはいけないと思うのです。皆さん、心燃えていますか?「燃えていないのはあなたです!」と言われてしまいますけど、本当にイエスさまご自身に目を向けて、イエスさまのしようとされているリバイバルの働きに、もう一度心を向けて、熱い思いで進んでいきたいなと、心から思います。
主がみ声を出してくださったので、これからも出し続けてくださって、「主が声を出すと水のざわめきが天に起こる。」そこからザワメキというネーミングを主にあって付けさせていただきましたけど、主がみ声を出してくださったがゆえのザワメキで、そしてその中で主のわざがなされて、そして進んでいくと「ヤコブの分け前はこんなものではない!」そんな大きな主の祝福の中で進んでいきたいと思うのです。
NRAの先生方が「うちに燃えていたではないか。」すごく温かなところに当たったような、そんな印象でしたけども、私たちもイエスさまを愛して、燃え続けていくことができればと思います。
でもその間に、いろいろなことがあって、この教会でも悲しいこともありましたけど、先日、西尾聖書バプテスト教会の伊藤先生が天に帰られたのです。ザワメキでも毎年のようにお邪魔させていただいて一緒に賛美して、一生懸命賛美してくださっていたのですが、ご病気になられて天に帰られてしまいました。その葬儀に参列させていただいて、すごく寂しい気持ちで、涙がポロポロ出るのです。でも来られている先生方は普段なかなかお交わりのないような、初めてお会いするような、そんな先生方ばかりでした。それで「こんなに先生を慕って来てくださる方々がたくさんいらっしゃって感謝だなぁ。」と、それで最後の方に「伊藤先生が生前愛して歌ってくれた歌があるので一緒に歌いましょう。」と言ってくださり、それまで、すべて聖歌讃美歌を歌っておられたのに、なんと歌ってくださった歌がザワメキの歌だったのです。今日も賛美しましたが、「麗しの主イエスよ」でした。
でもきっとこの顔ぶれだと皆さん、ご存知ないだろうなと思って、この中でも精一杯歌わせていただこうと思ったら、びっくり大合唱だったのです。皆さんが声高らかに歌っておられて、なんか天で先生が大きな声で歌って、それに合わせてみんな歌っているなぁというような、そんな印象だったのですが、神さまは私たち一人ひとり愛してくださって、そして賛美し続けていく時に起こされる主のみわざというのがあると思うのです。
第二列王記の五章をお読みします。エリシャがナアマンという将軍に対して言った言葉で、第二列王記五章十節、
“エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」”
と、そういうふうに言ったのです。大きな病気で、もう治らないという病気の中で、「預言者がいるから祈ってもらおう!」と、そこにわざわざ行ったのです。そうしたらナアマンは随分立腹したのです。「私はわざわざ祈ってもらうために来て、きっとその預言者が手を出して祈ってくれたら癒されるんだ。」と思って、ある意味期待して来たと思うのですが、しかしそうは言わなかったのです。