主は、あなたと共におられる

私の中でもう一人、主が選ばれた方だなぁと感じた人がいます。それは、キリスト教出版社の一つである有限会社イーグレープの代表をしておられた穂森さんという方です。皆さんはご存じないと思いますが、穂森さんは若い時に救われ、いのちのことば社に入社し、ライフセンターの店長や、責任あるポジションで活躍しておられました。その後、二十二年前に独立し、イーグレープを立ち上げたのです。
実は、イーグレープの会社設立以来、イーグレープで扱うほとんどの書籍をプレイズが印刷製本し、深いかかわりを持たせていただいていました。皆さんの中にもその出版社の本を読んだことのある方がおられると思いますが、今までキリスト教界で、200種類近くの本を出版して文書伝道に貢献してきました。
しかし、二年ほど前から癌を患い入退院を繰り返し、昨年十二月に余命半年の宣告を受けたのです。そしてその時、穂森さんから、「私はこのまま会社を続けることは難しい。だから岡本さんにこの会社の社長を引き継いでほしい」と言われました。「はい、そうですか。社長になります」とは簡単に受け取るわけにもいきませんので、祈り、先生方にも相談をして、最終的には、今年の四月から、有限会社イーグレープという名前を残したまま、プレイズの子会社として登録することになりました。
穂森さんは、三月下旬に七十歳で天に召されました。体も苦しく大変な状況の中にありながら、株式譲渡も決まり、経営を引き継ぐ段取りもなされてからも、召される直前まで電話で、「あの出版はどうなってる?」とか、「 あの先生に電話をしたらどうか」など、いつも仕事のことを気にしていました。私だったら、「任せたからもういい」と、ゆっくりしていたと思いますが…。そんなことを思い出しながら、この人は確かに「文書伝道」という働きのために、主が選ばれた人だったなと感じました。
四月四日には、娘さんやお孫さん、近親者と数名の方での家族葬が行われ、私も出席させていただきました。これは余談ですが、その中で、娘さんが、泣きながらお父さんの思い出を語り、最後には奥さんが、涙をこらえて気丈に挨拶をされている光景を見た時(穂森さんは私の二つ上なので、同年代ですから)、数年したら私もこんな状況になって、娘か息子が思い出を語るのかなぁと思ったりしました。

このように、明先生、穂森さんは、それぞれの目的のために神さまに選ばれた人だなと私は思ったのですが、大きな働きをするかしないかにかかわらず、私たち一人ひとりも、同じように神さまから選ばれています。何のために選ばれたのか今はわからなくても、一人ひとりに主のご計画があり、必ずあなたにしかできない働きがあります。大規模な伝道の働きで、多くの人を救いに導く人もあるでしょうし、「私はそんな大それた者ではないです」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、必ず私たちに委ねられている魂があります。ある人は、教会の奉仕をするために、またある人は、教会に献げるために主が選ばれたかもしれません。一つひとつの働きの大小にかかわらず、主が私たちにさせようと、私たちを選んでおられるということを忘れないでください。私にはできないと思わないでください。主は、私たちができないことを求めたりなさいません。

次に、創世記三十九章三~四節を読んでみましょう。

『彼の主人は、主が彼と共におられ、主が彼のすること全てを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。』

奴隷生活の中でも、ヨセフは勤勉、忠実、誠実に主人に仕えました。普通、主人が奴隷に目をとめることなどほとんどないと思います。しかしそれでも目にとまったということは、それだけ際立っていたのでしょう。そして、ポティファルは、ヨセフ自身の人間性もさることながら、『主が彼と共におられ、主が彼のすること全てを成功させてくださる』のを見逃さず、ヨセフの背後に何かとてつもなく大きなバックがついていると知ったのです。「主が彼と共におられる」ことの凄さを、また、ヨセフの仕える姿に神の愛を見て、ポティファルという主人は、全財産を任せたのではないでしょうか。
ヨセフにとって神さまは、自分を助けてくれるだけでなく、自分の「支配者であり、絶対的な主人」でした。神さまは、自分を優先する者を決して用いることはなさいません。しかし、神さまを優先する者からは離れることなく、「常に主が共にいてくださる」のです。
そんなことを考えながらメッセージの準備をしているなか、姉と話す機会があり、何の話からそうなったのか覚えていませんが、「やっぱり、明先生はすごかったなぁ」ということが話題にのぼりました。何がすごかったのかで話が盛り上がった時、姉が、「やっぱり愛だな」と締めくくりました。それには私も大きく頷きました。
神さまを心から愛する愛、この日本を愛する愛、そして、ここにいる皆さん一人ひとりに等しく溢れるばかりの愛を注ぎ続けてくださった明先生。皆さんも感じておられることだと思います。本当に、偉大な方だったなぁ、私など足元にも及ばないと、あらためて思わされました。
あなたが誰かを信頼できると思えるのはどんな時でしょうか。それは、自分の利益を捨てて、誰かのために犠牲を払う愛の姿を見る時ではないでしょうか。
先週は母の日でしたが、母親の子どもに対する愛情、思いというのは、何にも変え難いものであって、すべてを犠牲にしてでも、この子のためにというのが母の愛情であり、それが犠牲の愛ともいえると思います。
そして、ヨセフが常にへりくだり、自己中心を捨て、主人に仕えることができたのは、主が共にいてくださることにより、神への愛が溢れていたからだと思います。

ピリピ人への手紙 二章三~五節にこうあります。

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。』

ここに「へりくだる」という言葉が出てきます。この言葉はもちろん一般的にも知られていますが、キリスト教界では特に使われる言葉の一つではないかと思います。「へりくだる」と言うだけなら簡単ですが、実行するのは本当に難しいことです。人の努力や知識や道徳によってできるものではありません。
皆さんに覚えていていただきたいことがあります。「自分が正しくて、相手が絶対間違っている」と思った時点で、立ち止まって考える必要があります。そんな時は、相手を責めるのではなく、相手の話をよく聞き、なぜ意見が違うのかを考えて判断することが大切です。何が何でも自分が正しいと思うのは高ぶりであり、自己中心であり、間違っていることが多いということを知ってください。そして、悲しいことに、自己中心から解放され、へりくだることは自分の力ではなかなかできません。自己中心から人を解放することができるのは、神さまの愛のみです。へりくだりの精神こそ、「自己中心から解放される秘訣」なのです。

次に、創世記三十九章五節をお読みします。

『主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。』

この、『ヨセフのゆえに』の「ゆえに」を辞書で調べてみると、「前に述べたことを理由として、あとに結果が導かれることを表す接続詞」とあります。「主はヨセフのゆえに、主人の家を祝福された」ということは、神は、ポティファルを重視し、祝福するために動いたのではなく、ヨセフを認めて、ヨセフに全財産を委ねたからこそポティファルの家を祝福されたのです。神さまはヨセフのゆえに、ヨセフを通して、祝福を周囲の人に分かち与えたということが分かります。

創世記十二章三節を見ると、アブラハムについても主はこのように語っておられます。

『「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべての民族は、あなたによって祝福される」。』

祝福の基であるアブラハムを祝福する者が祝福され、さらに祝福が流れていくということです。
しかし、その前提は「わたしが示す地へ行くなら、あなたを大いなる国民とし、祝福する」というものでした。アブラハムもヨセフも、主を愛し、主のご命令に従っていたからこそ祝福されたのです。私たちも、彼らに倣って、主に従う者となりましょう。そうするなら、天の父は私たちを誇りに思ってくださるに違いありません。

ヨセフのその後を見てみましょう。ヨセフの人生は波乱に満ちたものでした。
ある時、主人の妻に誘惑されます。しかしヨセフはこの時、次のように言っています。

『ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。』(創世記三十九章九節)

ここでもヨセフが主人に忠実であること、またそれは神さまに対して忠実であろうとする姿であることが、はっきりと分かります。
しかし、拒まれた女主人の嘘で、ヨセフは投獄されてしまいます。普通に考えたら人生が終わってしまうような状況で、「どんなに神さまに信頼して従っても、結末がこれか。結局、神なんかいないじゃないか。神なんか信じたっていいことないじゃないか」と、神さまから離れることもあり得たと思います。しかしヨセフは、そんな状況の中でも主を恨むことをしませんでした。そして、『主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからだ』(同二十三節)とあるように、ここでも監獄の長の心にかなうようにしてくださり、牢獄の中でさえ主に祝福され、ヨセフのすることすべてを成功させてくだったのです。

その後ヨセフは、パロが見た不思議な夢を聞き、エジプト全土およびカナンの地にも大飢饉があることを主が示されたのだと解き明かし、王に次ぐ者となる地位を得ました。
そして何年か後、不思議な巡り合わせで、かつてヨセフにひどい仕打ちをした兄たちと再会した時、ヨセフの人生に起こったすべてのことの意味が明らかになるのです。

創世記四十五章五~八節にこうあります。

『今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。』

どんな大変な状況の中にあっても、主に仕えるように、ヨセフは地上の主人に忠実に仕え続けました。それにより、主はヨセフから離れることなく共にいてくださり、ヨセフはエジプト全土を飢饉から救うだけでなく、イスラエル民族を救う働きを全うできたのです。

ヨセフと共におられる主は、「皆さんと共におられるお方」です。そして主は、あなたを選び、あなたに素晴らしい壮大な計画を持っておられます。

家庭の問題、会社の問題、友人関係など、目の前にはたくさんの問題があり、悩んでいる人がおられるかもしれません。しかしまずへりくだり、主が共におられることをいつも心にとめて、主が望んでおられることに従ってまいりましょう。また、主が私たちを愛してくださったように、私たちもほかの人たちにイエスさまの愛を実践することを願っておられます。自分のためにではなく、誰かのために、隣人のために愛をもって行動する時に、新しい扉が開かれていくと、私は信じています。主は、必ず解決を与えてくださいます。