<二〇二〇年の戦いを通して、神さまが新城教会に与えておられる三つの励まし>

一つ目は「霊的戦いはあるよ」ということでした。

二つ目は、「霊的戦いには勝利があるよ」です。私たちは戦いを意識し、戦いの中で神さまが守りを与え、癒やしを与え、導いてくださることを学び続けた一年だったと思います。享子さんにも三度に渡って、主治医が驚くような、「これは考えられない!理解を超えている!」ということが起きました。

このことは、今もいろんな問題があったり、課題があったり、戦いの中にあるのですが、私たちが将来と希望という約束をいただいて、前進していくための大きな励ましになったわけです。

そして三つ目は、「私たち全員がそのことの証人だよ」ということをお話しさせていただきました。この戦いが個人レベルではなく、教会全体、またキリストの体としての戦いであり、与えられた恵みも共同体の中で分かち合い、共有されるものであると。

幅広く祈りが共有されて、皆で真剣に「祈る」ことは、大きな勝利をもたらすと改めて思わされました。だからその関わっている一人一人に、その勝利も、そのそれぞれのパートの中で共有されていくということを教えられました。

七十年が満ちた時に与えてくださる将来と希望の約束を、この一年間の戦いを通して私たちは受け取らせていただき、二〇二一年、回復と再建の年、新たな思いで立ち上がり、歩んでいきたいと思わされています。

 

エズラ記を見ていきますと、一章から六章までは神殿の再建が描かれています。そして七章から後半にかけて、エズラが出てきます。「エズラ記」なのにエズラが出てくるのは、エズラ記が六割方終わった辺りから出てくるわけで、「これはいかに?」であります。それはエズラが何をしたかということに意味があるわけです。

エズラは、帰還したユダヤ人の手によって神殿の再建が果たされたイスラエルに、やはりペルシャから帰還して来た人でした。

そこで彼が見たことは、実はイスラエルの民の霊的な後退でした。神殿ができてエズラが来てみたら、霊的に後退したイスラエルだった。

具体的には異邦の民、偶像を礼拝している民と、真の神を礼拝しているイスラエルとの雑婚があったのです。

もう一つは、ネヘミヤ記に書いてあるのですが貧富の格差です。ユダヤ人たちの中に、金持ちが同じユダヤ人から利子を取って金を貸して、それがために人々の中で自分の財産を売りに出し、自分の息子娘を奴隷に出さなければならない人が出ていた。

そういった現実を目の当たりにして、エズラは霊的な改革に乗り出しました。神の宮が再建された次になされたのは霊的な再建だった。

そしてエズラは律法の朗読と祈りとに民が心を砕いて、主を第一とすることができるようにと説いたわけであります。新約聖書にも第一ペテロの手紙四章十七節前半に、

 

『なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。…』

 

「回復と再建」は、神の家から始められるという法則を、エズラ記に、また新約聖書にも私たちは見ることができるわけです。

 

二〇二〇年はコロナ問題をきっかけに社会がガラリと変化した年でありました。新しい価値観とモラルが植え付けられて、社会の最大の関心事が病気の蔓延を防ぐことになったわけです。生活スタイルが一変し、どこに行くにも私たちはマスクを欠かさずに身に着けなければならなくなりました。こまめな手洗い消毒、体温測定、そして、他人との接触をできるだけ避け、近くで会話や会食をしないとか、私も教会で皆さんをお迎えする時、握手の手を出すこともできなくなってしまいました。今では肘タッチが正式的な挨拶みたいな時代です。

 

そんな中、教会の働きの中でも「伝道」が難しくなったわけです。まず集まれない。集会を企画することができない。そんな中、教会スタッフの中で、これまでになく大きく求められるようになったのが「祈り」です。去年は戦いの中で、これまで以上に祈りをささげることが、やはり教会にとって一番大事なこととしてクローズアップされた時でありました。

 

本当に神さまは不思議で素晴らしいと思いますが、そのような中で、私たちの思いを越えて、教会ではバプテスマを受ける方が毎月のように与えられました。コロナ禍でどのようにして主の元に導かれ、救われたのかなぁ、それぞれ救われる経緯があるとだろうとは思いますが、十分な働きができない中で不思議な恵みであります。

 

そんな一年を振り返り、二〇二一年はどうだろうかと思います。

神の国がこの地に現わされるため、昨年同様、兄弟姉妹が互いに励まし合い、祈り合ってこの時代を生きていくことが大切だと思わされます。私たち牧会スタッフができることも、兄弟姉妹に霊的に寄り添う、祈りをもって仕えることが、本当に大切なことだと感じています。

 

話は変わりますが、昨年十一月頃から、星と私たちとの関係について、メッセージなどで語られるようになりました。私たちは、主によって創造された星々との関連性をもって造られており(申4:19ジュネーブ訳聖書等)、またそこにある霊的な祝福を受けることができる。その祝福とは、私たちの人生を導くナヴィゲーションシステムのようなものだ、ということも語られていました。

そのナヴィゲーションシステムの一つとして最近クローズアップされているのが「暦」です。

太陽暦と太陰暦というものについて、今まで私たちの人生の中で、あまり考えられることがなかったかもしれません。この「暦」は太陽の運航や月の運航を元に作られています。人間を含めた生き物たちが子孫を生み出す時も、太陽と月の引力が作用する力によって影響されていることを見ることができます。

 

 

特に海洋生物は、太陽の引力と月の引力とが相乗効果を生む満月また新月の時に卵を産むという生き物が多くみられます。だいたい一ヶ月、二十六日から三十三日くらいの間に月経の循環が来ることが多いです。

 

私たちは太陽や月の動きを見てパターンがあることに気づき、それを生活のリズムの中に組み入れてきました。一日が七日で一週間、一週間が四回で一ヶ月、一ヶ月は「月」と書くように、やはり月の満ち欠けの運航が元にあります。そして一ヶ月が十二回で一年という考え方で年月日という「暦」が作られているわけです。

今日は時間の都合で詳しく学ぶことができませんが、その他にも惑星の運航とか、星々の運航が付け加えられて様々な「暦」が作られました。それらの星々の運航にはパターンが見られます。それも神さまによって造られているのです。

そして、私たちの世界、宇宙、もっと微少な世界であるDNA、あるいは素粒子の世界にいたる領域には一貫した法則性を見出すことができるのではないか。そこに共通のパターンを発見することができる、と私たちに連想させるものがあります。

 

 

銀河の渦巻、太陽と惑星の間に見られる螺旋運動、そしてDNAの螺旋構造、分子や原子の中に見られる素粒子の円運動、そういったものの中に類似性また共通性を見ることができる。巨大な宇宙から微細な分子原子まで、その中に私たち人間の営みも組み込まれています。

そもそもこれらは神さまが造られたわけだから、そこに類似性があっても不思議なことではないと僕は思います。

「フラクタル構造」と書いてありますが、右上にあるイラストには、シダの葉が描かれています。シダの葉は、その先端部分を拡大すると、そこには葉っぱ全体と同じような形を見ることができ、さらに拡大すると、そこにも同じような形があるという、不思議な構造をしています。

「ロマネスク」という野菜の一種がありますが、全体に突起があるごつごつした形状です。このゴツゴツの一つを拡大し見ると、同じような形をしていることがわかり、その突起の一部を拡大しても、これまた全体と同じような形が現れる。そういった構造を「フラクタル」といいます。大きなものから小さなものまで類似性、共通性を持った構造を持っていることをいうわけです。

これは神さまが創造の中に与えられた一つの秩序であり、パターンです。意識していてもしていなくても、それらを私たちは営みの中に取り込んで生きているわけであります。

 

「暦」もその一つです。

「『暦』とは宇宙のリズムを私たちの生活に取り入れるため神さまが定められた法則」ということができるかもしれません。

 

昨年十月頃に滝元開牧師が、宇宙に存在する様々な「音」について講義をされました。「そこには一定の『リズム』がある」と。鳥の鳴き声や虫の鳴き声にもリズムがある。宇宙を調べても星々からはリズムが発せられている。それらを組み合わせてみると、あたかも交響曲・シンフォニーのような響き合いを見ることができる。被造物全体が神さまを賛美している。そんなことを語られました。宇宙全体を神さまは「秩序あるもの」として造られたということを、創造のみわざの中に私たちは見ることができます。神さまは私たちを祝福するための法則をそこに盛り込んでおられます。

太陽を中心とした惑星同士の結びつきや、太陽が銀河の中心を軸として公転していることも、銀河が宇宙空間に存在していること自体にも、私たちがその全容を知ることはできないわけですけど、神さまの何か摂理と法則が秘められているのではないか。そんなことを考えるとちょっと僕はオタク心がときめきます。

詩篇十九篇一〜四節 、

 

『天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。

話しもせず語りもせずその声も聞こえない。

しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。』

 

太陽や月、その存在は、神の偉大さを私たちに語り告げている、そのように書かれています。

 

しかし一方で、そこには悪魔の罠があることも確かであることを私たちは垣間見てきました。その罠は巧妙に仕掛けられて、私たちが無知のままでいるならば、知らずして私たちに与えられるはずの祝福が奪われ、悪魔の手に渡ってしまう。そういうことを悪魔は歴史の中でずっとしてきた。暦を通してもしてきている。そこに自分の居場所を悪魔は築いてきて、そしてその暦を通して悪魔が私たちにもたらすものというのは、支配と奴隷として隷属させるという構図です。神さまが与えるのは祝福、恵みですが、悪魔は私たちに束縛を置いてくるわけです。

 

 

「もしも日本神話の神々が曜日になったら」

私たちは「日曜日、月曜日、火曜日…」と呼んでいますが、神話の神々が曜日になったら、口にするのも嫌ですが、「アマテラス曜日、ツクヨミ曜日、カグツチ曜日…」とか呼ばなければいけないとしたら、「そんな偶像の名前は嫌だ!」と、クリスチャンならば感じるだろうと思います。日本神話に出て来る神々の名前が曜日になるなんて嫌ですね。

だけど日月火水木金土という呼び方は、実は中国の陰陽五行を元に日本に入ってきた呪術、詳しく説明することはできませんが、占星術そのものです。

一般化されていますので、私たちは「日曜日に礼拝で会いましょう!」とか言うのですが、これは元々は呪術的な言葉なわけです。

だから「アマテラス曜日」と「日曜日」って、同じレベルの言葉なのです。辛いことであります。

また一月、二月、三月も、英語だとJanuary, February, Marchとか言いますが、これもローマ神話の神々が月の名前になっていたりします。

日本には暦の中に「元号」が取り入れられています。これも天皇による宇宙の支配を宣言するものだといわれています。天皇が神であることを宣言するというのが元号の元々の意味合いであるわけです。

だからこそ、私たちは主にあって管理者として宇宙を見上げ、そこにある法則を知り、受け損なっていた祝福を勝ち取る。神の国の現れを求めていかなければなりません。

そういう意味で、私たち個人のなす働き、クリスチャン一人一人がなす働きも、大きいものも小さいものも同じ神さまのわざとして存在しています。私たち一人一人がなしていく業、それはある意味では取るに足らない小さなものだと思ってしまうところもあるかもしれません。しかし、被造物世界にあるフラクタルな関連性を考えたとき、私たちが祈りをささげていくことは小さな領域にも大きな領域にも影響を及ぼしていく働きであるということを信じていきたいと思います。