その時、天において何があったのかの記録があります。それは見えない世界で、会議があったのです。十八章二十節から記されています。

それから、ひとりの霊が進み出て、【主】の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、【主】が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。
彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。

神のみ前に、悪霊どもが集って、アハブをどう始末するかの会話がなされたのです。当時の戦争は、神々の戦いでした。戦争の前には必ず「託宣」と言って、戦いに出るのか、否かを占ったわけです。設楽原の戦いも同様でした。
アハブの擁していた予言者たちは、暗闇の予言者たちでした。ある悪霊が「私が偽りの予言を語らせ、彼らを戦いにおびき出しましょう!」と提案し、天でその案が受け入れられました。その結果として、アハブとヨシャパテは戦争に出て行ったわけです。
しかし北イスラエルにも、一人、ミカヤという神の預言者がいて、「戦いに出たらイスラエルは散らされる。」と警告しましたが、その預言には従わず、戦いに出て行ったのです。
アハブは、三河弁で言うならば「こすい」汚い男で、ヨシャパテには王服を着せて、自分は一兵卒の服装で戦いに出て行きました。
当時の戦争は、敵の首領を倒したら勝負ありでした。ゆえに王服を着ていたら、「あの男が王だ!」と戦いがそこに集中します。アハブはヨシャパテを標的にしようと企んだわけです。
案の定、ヨシャパテに戦いが集中しました。その時、ヨシャパテは神に助けを叫び求めたのです。すると神は危機的状況から、ヨシャパテを救い出されました。

アハブは自分は助かると考えましたが、『ひとりの兵士が何げなく弓を放った。』と記されています。するとその矢が。偶然にも、アハブの「胸当てと草摺の間」に命中したのです。
弓矢は、敵に照準を合わせて射るものです。しかし訳も分からず弓を射た兵士の矢が、大勢の兵たちの只中に紛れている、アハブの急所に当たったのです。それでアハブは死んでしまいました。普通ならば、偶然の偶然のような話です。
しかし、この背後に、天の会議が関わっていたのです。天の会議の結果が、地上に現されたのです。

時に私たちも、「これは偶然だ!」みたいなことが、時々、あるかも知れません。そのような中にも、天の会議との関わりがあるのかもしれないのです。
先週のメッセージでも言及されていましたが、第二神殿建設の時に、神殿建設がストップした背景にも、霊的原因があったのです。ゼカリヤ書に記録されています。天でサタンが、神の前に大祭司ヨシュアを訴えたことによって、地上での工事が十数年にわたってストップしたのです。
しかし目に見えない世界での勝利があったことによって、神殿建設工事は再開されました。それとともに、ユダの民が悔い改めて、神のために真剣に働いたのです。それは「神に近づく」ことによって、悪魔に対抗し、勝利に繋がった良い例です。目に見えない世界と。見える世界は、同期しています。

現代は科学の世界でも、「高次元」と呼ばれる見えない世界が当然として受け入れられています。宇宙全体の構造を解き明かす理論として、最も有力視されているものに「ひも理論」があります。その理論によると、私たちは時間と空間「時空」の世界に生きていますが、さらにそれを越える高次元があるというわけです。それによると、「十一次元」ぐらいまであると言われます。十一次元まで想定しないと、宇宙の謎を解き明かすことはできないわけです。

聖書は、高次元がある事を当然としています。エペソ人への手紙六章は、大変有名な箇所ですが、『終わりに言います。』とパウロは述べています。エペソ人への手紙の結論として、述べています。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

日本語は、単数と複数が区別されていないので分かりにくいのですが、英語で見ますと、「the high places」と、目に見えない世界が多次元あることを意味しています。

高次元に働いている悪しき力に対抗しない限り、戦いに勝利できないのです。
それを如実に表しているのが、ヨブ記です。ヨブは正しい人でした。今で言えば、模範的クリスチャンでした。しかし目に見えない世界で悪魔に訴えられたことにより、財産は全て奪われ、子どもたちは皆死んでしまい、自分自身も病気になって、死にたくても死ねない苦しみを体験しました。その原因は、天で悪魔が彼を訴えていたからです。
このような聖書の情報から、我々が神に従い、悪魔を恐れるのではなく、「対抗する」必要を教えられます。

三年前、家内の病が発覚した時、私はたいへん混乱しました。一生懸命に主に仕えてきたはずなのにと、がっかりしました。家内のいやしを祈りたいのですが、「助けてください。」としか、言葉が出ないのです。戦う事なんて、全くできませんでした。
しかしある時「わたしに助けを求めるだけではなく、自分でも悪魔に立ち向かえ」と主から言われた気がしました。
「おまえはいつも語ってきたじゃないか。立ちあがって、悪魔に立ち向かう祈りをしなさい!」と、語られた気がして、戦う祈りをするようになりました。

その時、過去の一つの体験を思い出しました。何回もお話をしているのですが、結構前の話ですが、この教会に一人のペルー人の若い女性が来られました。彼女は明るくて、いい子だったのですが、ある時、顔が痛くなって豊川市民病院に行って診てもらったら、皮膚の裏側の骨の隙間に癌ができていて、それが痛みの原因でした。それで手術することになってしまいました。彼女は本当にがっかりして教会に来ました。
教会は霊的世界の専門家であるべきです。霊的条件を満たしてから、手術を受けるようにしてあげたいと思いました。それで彼女にいろいろ霊的な事柄を聞いてみました。

最も悪霊と関わりができる原因は、偶像礼拝です。「この世は悪魔の支配下にある」とヨハネが語っているのですが、結びの言葉として、『子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』(ヨハネの福手紙 第一 五章二十一節)と告げています。
偶像の背後には、悪霊どもが働いています。統一協会の壺も偶像の一種です。なぜか、人は手で作った像から離れることができないのです。不思議ではありませんか?人間が人形を作るのは分かるけれど、人形が人間を作くる事は出来ません。自分で作った像に「神様!」と拝んでしまうわけですから、愚かなことです。しかし人は本能的に、偶像に霊的な力が宿るのを知っています。
宗教改革の指導者の一人、カルヴァンが、このように語っています。

“人間は、その性質として、偶像礼拝に陥る傾向がある。人の性質は、いわば偶像の永久工場である。”

「偶像を作りたい」という欲求が、心の中から溢れるみたいです。聖書が告げているように、その背後に、悪魔・悪霊どもが働いているのです。それが人を苦しめる原因となるのです。悪魔はその理由をゲットして、天の法廷に訴えます。「神さま、彼はこんな偶像礼拝をしていますよ。神の裁きを受けて当然でしょう。」理由があったら、神さまも許可せざるを得ないのです。

彼女は自分の国にいた時、何か重要なことを決める際には必ず、先祖の墓場に行って、先祖の霊を呼び出して行動を決めていたと言うのです。学校を卒業して、さぁ、これからどうしようと思った時に、お母さんが「いつもの場所に行こう」と誘ったそうです。霊能者を雇って、夜中に墓場に行って、先祖の霊を呼び出したと言うのです。しかし、それは「先祖の霊ではない」のです。以前にも話したように、死んだ人たちは、神の完全管理下に置かれており、先祖の霊は地上にはいないのです。出てくるのは、「先祖のふりをした悪霊ども」です。それがまことしやかなことを言うわけです。それを信用すれば、ちょうどアハブのようなものです。大変なことが起こるわけです。

「日本に行け。日本に行ったら幸せにしてやるぞ。」と言われて彼女は日本に来ました。初めはお金も儲かって良かったそうです。しかし最終的には、病になって絶望的な人生になったのです。
彼女は罪を悔い改めて、悪霊との契約を断ち切って祈りました。私は悪魔に立ち向かって宣言しました。
「悪魔よ、よく聞け!おまえはこの女性を殺すことはできない!私たちは神からの権威を持っている!この女性から手を離せ!」と宣言しました。そうしたら、突然、彼女の体が震え出して、男みたいな声で、「うるさい、うるさい、うるさい!俺はこの女が嫌いだ。この女を殺してやる!」と叫び始めました。自分で言っているのです。これは聖霊によって、背後に隠れていた敵が暴かれた瞬間でした。
私はちょっと驚きましたが、怯まずに立ち向かい、悪霊を打ち破る祈りをしました。彼女は聖霊によって倒されてしまいました。
その後、何が起こったのか。すっかり治って、綺麗になって、今でも生きております。

家内が病気になってしばらくして、その時のことを思い出しました。家内の病気は膵臓癌。絶対絶命だと、半ば諦めていました。しかし「悪魔に立ち向かえ!」と示されました。それは医学を否定するものではありません。病院に任す部分と、教会でやらなければならない、霊的領域があるわけです。
ある夜、家内がたいへん苦しんでいました。三年前の十二月のことでした。
私は「悪魔よ、よく聞け!膵臓癌の悪霊どもよ、よく聞け!家内から手を離せ!」と、悪魔に立ち向かって祈りました。すると家内の体が震えだしました。私は実験が好きなので、三日間にわたって、同じ祈りをして見ました。すると毎回、同じ現象が起こりました。その戦いを通して、何かを打ち破った感覚を覚えました。根源で、家内を殺そうと企んでいる、死の力が打ち破られた手応えを感じました。
その後、抗がん剤治療が始まっていきました。

「舟の右側」の記事を読んでいただけましたでしょうか。インタビュー記事で語らせていただいたように、神の栄光が現れました。医学も十分に活用されながら、霊的戦いが共にあって、実際的な結果が出たと考えています。まだ読んでいない方がおられたら、是非とも、読んでいただきたいと思います。

ただ「神さま助けてください!」いう領域だけではなく、霊的戦いが加わって、結果は出ると信じます。さらに、とりなし手の方々が、いろいろな場所に出向いて戦ってくださいました。その結果として、勝利が現わされたことを実感しています。

『神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。』と聖書は勧めています。この二つのベクトルが満たされる時に、「さらに豊かな恵み」がもたらされます。
神に十、近づいたら、十の力で悪魔に立ち向かうことができると思います。神さまに一ぐらいしか近づかないと、やはり一くらいしか戦えないと思います。どのぐらい神に近づくかの度合いによって、敵に立ち向かう度合いも決まるのではないのでしょうか。

何も恐れることはありません。神は、イエスさまの十字架の死によって、死の力を持つサタンを滅ぼしてくださっています。堅く信仰に立って、サタンに立ち向かえばいいだけの話です。私たちが行動を取るか取らないかです。ヤコブの手紙のテーマのように、我々が行動を起こすならば、事態は変わると信じます。

教会とは、「悪魔の訴えを取り下げる場所」です。エペソ人への手紙の二章六節に、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。主を信じる者たちの集合体である教会は、天の所に座らされています。悪魔が訴えても、「おまえは訴えることはできない!離れて行け!」と宣言できるのです。しかし現代の教会の多くは「立ち向かう」ことを悪魔に忘れさせられています。