そしてもう一つの条件が何かと言いますと、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということです。

神さまを愛することと、隣人を愛すること、この二つを実行したら、世界は絶対に変わります。世界には多くの宗教がありますけれど、皆、本物の神さまを求めているわけです。もしも本物の神さまを世界中の人が特定して、「創造主なる神さまがおられる!それはイエスさまだ!」と気づき、隣の人を愛し始めたら、戦争など起こるはずはありません。

 

「隣人を愛しなさい。」という意味について、イエスさまが語られたのが有名な「良きサマリヤ人のたとえ」です。

良きサマリヤ人の例えは、後から時間があったら触れたいと思いますが、サマリヤ人とはユダヤ人の隣の民族でした。イエスさまはユダヤ人ですが、隣には、サマリヤ人が住んでいたわけです。しかしユダヤ人たちは、隣の民族、サマリヤ人たちを愛することができませんでした。

 

今、ロシアとウクライナとの間で戦争があります。戦争の原因を突き詰めていけば、民族問題です。ロシアの人たちは「スラブ人」と呼ばれていました。スラブ人という言葉からどういう単語ができたかと言ったら、「slave」=奴隷という言葉です。今のロシアはスラブ人たちの末裔です。長い間、奴隷としてこき使われていました。そんな中で、ウクライナ人たちは貴族でした。ロシア人の根底には「俺たちをよくも奴隷にしやがったな!」みたいな感情があり、お互いに愛せないのです。それが世界規模の問題になっています。

もしも互いに、お隣の民族を愛することができたら、世界平和はすぐに実現します。

日本にとって、隣の民族はどこですか?ロシア人はお隣の民族です。韓国、北朝鮮、中国もお隣です。お互いに、隣の民族を愛することができたら、豊かな国になるはずです。今のように石油が高くなったり、物価が上がったり、経済が混乱することは決してないはずです。

聖書の教えは万民に対する真理です。神さまを愛する、隣人を愛するは、重要なことです。何か宗教の教えみたいに考えないで、「それを実行しなさい!そうしたらいのちを得ます。」とありますから、実行しないといけないですね。

 

今週、神さまを愛することと、隣人を愛する、特に、お隣の国々の祝福を祈ることを実行しましょう。また、対立している人たちとの和解と祝福を祈りましょう。

 

今日は伝道礼拝なので、少し、昔話もしたいと思うのですが、私は一九五一年(昭和二六年)生まれです。戦争が終わったのが昭和二十年ですから、私が生まれた当時は、日本は本当に荒れていました。戦場を生き抜いた荒くれおじさんたちが社会には満ちていました。学校も体罰は当はたり前でした。喧嘩とかたかりとか、そんなのいっぱいありました。今では考えられません。私たちの時代は、隣人を愛するというよりも、常に戦いモードで生きていた気がします。

そんな中で、両親はど田舎に伝道の為に入ってきたわけです。この地で伝道したって、うまくいくはずはないのです。今から七十年ぐらい前のことです。この地で伝道を始めると、村人からは大迫害でした。キリシタンの迫害は終わっていても、「キリスト教なんか、この村には必要ない。出て行け!」という感じでした。村八分でした。この近所は、神社の祭りを中心に、すべてが回っています。両親は、「私たちはクリスチャンですから、神社の祭りには参加しません。」と断りました。すると「何を言うんだ!」ということで、すごく迫害されました。

そんな中、両親を含め、少ないクリスチャンたちが取った作戦とは、生んで増やせ作戦でした。両親は八人の子どもを設けました。お隣に見城さんがいましたが、そこは十二人兄弟でした。その上二人、養子をもらって、十四人の子どもたちがいました。そして岡本さんは五人、伊藤さん、「伊藤村」と呼ばれていますが、そこは六人。四家族で、四十人くらいの集団ができました。

私が小学生の頃、日本のキリスト教史に残る偉業を成し遂げました。それは何かと言ったら、この地域では、子沢山のクリスチャンホームの子どもたちが通学団を乗っ取り、クリスチャンがクリスチャンではない子どもたちを迫害するという現象が起きました。「おまえら、クリスチャンにならなかったら、遊んでやんねーぞ。」とか言って、少々いじめたので、学校の先生にめちゃくちゃ怒られたことがありました。

 

村人とは常に対決姿勢ですから、神社の祭りの時なんか、教会に神輿とか爆竹が練り込んできました。その日になると、クリスチャンホームの子どもたちは全員集まって、祭りの集団と戦うのです。この戦いのことを私たちは「設楽原の戦い」と呼んでいました。棒とかを持って戦いました。

飯田線が通っていますけれど、飯田線のこちら側と向こう側で対立していました。向こうは富沢、こっちは富永という地域ですが、「富永はクリスチャン部族」と呼ばれていました。私たちは富沢を、「異邦人の地」と呼んでいました。祭りの日に練り込んでくる子どもたちと、殴り合いの喧嘩もよくありました。岡本正広さんと私はタッグを組んで、上級生をやっつけて本当に嬉しかった思い出があります。

 

そんな中で伝道したって、対立していますから、教会に来るわけがないのです。やがて私は牧師になりましたが、私の大学生の頃は学生運動の世代で、あまり勉強できなかった時代でした。体制に対しての不満もあって、いつも誰かに突っかかるような人生でした。

 

私は教会の副牧師になったのですが、父はいろいろな所に出かけて伝道していたので、我々に教会を任せました。しかし伝道はうまくいきませんでした。

ある日、ある高校にチラシ配布に出かけました。当時の先生は結構、戦争から帰って先生になったような人が多かったような気がします。結構偉そうな先生が多かったです。私たちがチラシを配っていたら、教頭が出てきて、「おい!キリスト教!そんな所でチラシを配るな!もっと向こうに行け!」と言いました。私は頭にカチーンっときました。

それで、「おい、おまえ!教頭だかなんだか知らないけれど、生徒に話すような言葉で俺たちに接するな!もっと常識を持て!ここは天下の公道だぞ。なんでここで配っちゃいけないんだ。ちょっとこっちへ来い!」と言ってやりました。そうしたらその先生はびびって、「すいません、すいません。」と謝って来ました。気分が良かったです。

しかし、それ以来、その高校から誰も教会に来なくなりました。誰かと喧嘩して勝つと、ちょっとすっきりしますが、後から損します。

 

しかし私は、一九九二年に聖霊さまに触れていただいてから丸くなりました。本当に変わりました。先週の証し会、良かったですよね。ある方が、私に出会った第一印象を述べていました。「この人、ちょっと大丈夫?」と思ったそうです。まぁ、このヘアスタイルとか、風貌で感じたと思うのですが、結構、私は優しいですよ。

昔ヤクザだったけれど、クリスチャンになって牧師にまでなった方がおられます。ある時、その方の教会に奉仕に行きました。すると「順先生がクリスチャンにならなくても、私たちは、どこかで会ったと思いますよ。」と言うのです。何それ?と聞くと、もう一人の人が「間違いない!」と言うのです。もしも私がクリスチャンにならなかったら、もしかしたら、そのような世界に入ったのかも知れません。しかし私は聖霊さまに触れていただいて、穏やかになりました。そして隣人を愛するようになりました。そうしたら教会も祝福されました。

 

ある時、この教会にある人たちが訪問しました。それは、「エホバの証人」という人たちでした。エホバの証人って、この辺にもいますけれど、キリスト教ではありません。エホバの証人とは、エホバの証人なのです。私たちは、キリストの証人です。礼拝対象が違うのです。彼らはイエスさまを神だとは信じていません。彼らはイエスさまは、天使の一人だと言います。

六月度の霊的戦い専門課程があるのですが、今日の午後、ダイジェストセミナーがあります。今回も素晴らしいテーマが与えられました。

ちょっと難しい主題が並んでいますけれど、今回、「エホバの証人と霊的戦い」というテーマで、お話しさせていただきます。私はいろいろ学んでみて、エホバの証人の人たちを愛さないといけないと思いました。

 

今から四十年くらい前ですから、時効になっているのでいいと思うのですが、教会にエホバの証人の人たちが来て、「一緒に聖書の勉強をしませんか?」と言うのです。私はまた頭にカチーンっときました。「おい、おまえら。ここはどういう場所か知ってるのか。聖書の勉強をする場所だぞ。おまえらに教えてもらう筋合いはない!」と言って、口で、ボコボコにしてやりました。

そうしたら、その後、新城市で一つの噂が広がりました。「あの教会の牧師はヤクザだ」という噂でした。それ以来四十年、一度も、彼らは来たことはありません。よほどその時、私が怖かったのか知りませんが、彼らは教会に近寄らなくなりました。しかし今回、いろいろ学んで、彼らを愛さなくてはいけないと、反省しました。

 

午後から少し、そのことを話したいと思いますが、エホバの証人で社会的問題となっているのは、「輸血拒否問題」です。親の輸血拒否によって、子どもが死んでしまった事件も起こっています。

どうして、そのようなことが起こるのかと言うと、これは彼らの間違った聖書理解にあります。彼らがそのような理解に至った経緯なども、今回の専門課程において扱います。彼らは輸血を、レビ記にある「血を食べることの禁止」と同じに理解しています。

聖書の時代に輸血なんてなかったのです。当時は、輸血どころか血を抜くことをやっていたぐらいです。しかし彼らは、輸血するのが、血を食べると理解して、輸血を拒否します。

どうしてかと言うと、それは彼らの特殊な終末観にあります。やがてエホバが来て、人類を滅ばし、生き残れるのは、唯一、エホバの証人としての信仰を保っている者たちだけだと信じています。

そしてもう一つ、彼らが持っている特殊な、「死後の世界観」にあります。それは彼らが「霊魂消滅説」という理解に立っているからです。人が死んだら、魂は消えてしまうと信じています。宇宙のどこを探しても、見つけることが出来ないというものです。これは唯物論者と同じ考えです。そのように彼らは、統治体とよばれる本部から、教え込まれているのです。聖書を正しく読んだら、そんなことは絶対にありません。死後の世界はあります!

「子どもに輸血をしないと助からない!」という状況になっても、もしも、エホバの教えに反したら、子どものたましいは一瞬にして宇宙から消えてしまうと信じています。そうしたら、二度と会うことができないと考えるのです。ならば、今ここで子どもを見殺しにしても、エホバの教えに従えば、来世で会えると考えます。ならば輸血しないほうがいい、という選択です。なんとも悲しい信仰です。聖書を正しく読むことは、本当に大事ですね。

 

来週から礼拝のプログラムが少し変わります。十時から始まります。聖書について簡単に学び、朗読するプログラムを用意しています。聖書を正しく学んだら、エホバの証人のような悲劇は起こりません。

現在日本に、エホバの証人は、「二十一万人」いるそうです。世界では八百万人ぐらいいるそうです。組織に洗脳されて、「神とは怖い存在だ」と考えています。「エホバの教えに従わなかったら、消えてしまうんだ!」という、強い恐怖心からの信仰です。

 

神さまはそんな方ではありません。私たちに対して、愛を持って接してくださる良いお方です。

隣人を愛するとは、イエスさまのご性格です。イエスさまが持っていた愛によって、隣人を愛したら世界は変わります。

 

先ほども良きサマリヤ人の話に、少し触れましたけれど、イエスさまの時代、ユダヤ人とサマリヤ人は強烈に対立していました。今もイスラエルに行きますと壁があります。

これはユダヤ人地区と、パレスチナ人地区を分ける壁です。パレスチナ人地区は、かつての北イスラエル、サマリヤ人の地と重なります。二千年の対立の構図があるのです。サマリヤに行きますと、今でも、サマリヤ教徒という人たちがいます。イスラエルはユダヤ教徒です。