2024年10月13日(日)シャローム教会牧師 チェ・ヨンドゥ
ヨシュア記 8章18~19節
ルカの福音書 11章5~13節
“また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”
新城教会の存在は私たちにとって、とっても力となり、本当に心強く思っています。本当にお会いできて嬉しいです。ありがとうございます。
コロナの時期を皆さん、どのように過ごされましたでしょうか。いろいろなことがあったと思いますが、私たちシャローム教会も恵みの中で過ごしています。
今朝は、ルカの福音書十一章五〜十三節のみことばから分かち合います。皆さんがよくご存知であるみことばだと思います。十節のみことばを一緒にお読みしたいと思います。「だれでも、求める者は手にいれ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
このみことばは、一生懸命求めて、一生懸命たたくということですね。主人の心が変わるまで一生懸命求める!ということです。それで、「私たちも最後まで諦めないで求めよう!」と思うのです。
しかし、このみことばをよく読んでみると、イエスさまが語られたポイントは、そこではないことがわかります。私たちが諦めないで終わりまで求めることは大切ですが、もっと重要なことは、「何のために」それを求めるのか、その動機を重要視されているということです。イエスさまはみことばの中で、そのことを語っています。
神さまはどのようなお方か。ドアを叩き続けるので、しつこく求めるから、仕方なく与えてくださると思うかもしれません。しかし、神さまはそのようなお方ではありません。主は豊かに与えてくださるお方で、私たちが求める以上に、すでに準備してくださっているお方です。もっと神さまのことを知るようになってほしいし、主を求める皆さんになってくださることを願います。
聖書を見ると、罪に陥る場面がたくさん出てきます。例えば、バベルの塔を建てる人間の姿があります。彼らは自分の名を上げるために高い塔を建てました。イスラエルの民が自分の名を上げようとした時、神さまを離れ、偶像を作り、罪に陥りました。
ミカ書の三章十一節を見ると、このようなみことばがあります。
“そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主に寄りかかって、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない」と言う。”
神のみ言葉を伝えなければならない者たちが、自分の利益を先に考え、間違ったことを語り、人を利用する罪に陥りました。お金のために占いをしたのです。彼らがどんなに一生懸命したとしても、神さまの思いとは隔たりがあったのです。ミカ書六章十三節から十四節を見ますと、
“わたしもそこで、あなたを打って痛め、あなたの罪のために荒れ果てさせる。あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。あなたは、移しても、のがすことはできない。あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。”
食べても食べても満たされることないのです。それが偶像礼拝です。自分の名前のためにやった全てが、結局自分を満たすことはできませんでした。
私たちを満たすことができるお方は、ただ神さまだけです。アダムから始まった、神から離れた人間の罪は、私たちの心を満たすことはできないし、暗闇の道に向かいました。神さまが本当に呼ばれているところに進んでいくことを願いします。私たちの名声や利益を優先することがないように願います。
今日のみことばには、とても重要なことが書かれています。友達の行動をよく見てみましょう。この友達はなぜこんなにしつこくドアを叩いたのでしょうか?「しつこい」という言葉は、ギリシャ語で「アナイデイアン」と言うのですが、この「しつこい」という言葉は、「とても図々しい、恥ずかしさを感じないほどに最後までやる」という意味があります。
夜中にみんなが寝ているときにドアを叩くというのは、常識的にはとても失礼なことです。しかし、この友達は最後まで諦めずにドアを叩き続けたのです。この友達は、何のためにそのドアを叩いたのでしょうか。どうしてでしょうか。
私は、自分が食べるパンをもらうためにドアを叩いたと思っていました。しかしみことばをよく読んでみると、自分の必要のためではないことがわかります。
ある友達が旅行で自分の家に来て、空腹で死にそうな状態だったため、その友達にパンをあげたかったのです。しかし自分の家にはパンがなかった。それで別の友達の家に行って、パンをくださいとしつこく頼んだのです。もし自分のためだけだったら、そこまでしなかったかもしれません。
そこまでできたのはなぜでしょうか。友達が死にそうだったからです。その友達にパンをあげないといけないからです。それで彼は諦めずに、最後までドアを叩き続けました。
聖霊さまは私たちの必要のために働いてくださいますが、それ以上に、他の人の必要のために求め始めるときに、さらに大きく働いてくださると信じます。もし私たちが神さまの国を知っているならば、友達が傷んでいて死にそうな状況を見て、その友達のために必要を求めるようになります。そのとき、聖霊さまが働いてくださって、私たちができないことを見ることができるようになります。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全てそれに加えて与えられます。」アーメン。
ルカの十章では、大切な戒めについて語られています。「神さまを愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること」が教えられています。そして、その後には「よきサマリア人の話」が出てきます。十一章では、イエスさまが主の祈りについて教え、どう祈るべきかを教えてくださいます。そして、そのすぐ後にこの「パンを求める話」が続きます。これらの話は全て、繋がっているのです。このみことばをしっかりと受けとめて祈る皆さんになってくださることを願います。
続いて、ルカの十一章十一節から十三節のみことばを読みましょう。
“あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」”
私たちが求めるもの、欲しいものよりも、もっと重要なものがあります。それは、聖霊が私たちに注がれることです。そうすれば神さまが本当に必要なものを私たちに与えてくださいます。それは私たちが求めるものよりも、もっと良いものです。「聖霊さまは私たちに良いものをくださいます。」と皆さんで隣の方に挨拶をしてみましょう。
このみことばは、シャローム教会が開拓されるときに神さまが与えてくださった約束のみことばです。十二年前、教会の開拓が始まったとき、私たちには何もありませんでした。礼拝堂もなく、家族だけしかいませんでした。けれども、私たちに必要なものは本当にたくさんありました。
しかし、神さまはこのみことばを与えてくださり、私たちの必要を求めることよりも、「他の人(隣人)の必要のために祈りなさい」と教えてくださいました。それで私たちは本当に小さな教会ですが、隣人の必要のために祈り始めました。
正直、他の人たちが私たちの姿を見れば、このように思ったと思います。
「自分たちのこともままならないのに、どうして国のために祈るのか?」と思ったかもしれません。
しかし、神さまがこの約束をくださったので、そのみことばを信じて従ってきました。日本のことも忘れずにいつもお祈りしてきましたし、新城教会と一緒に、日本の中にある南北についてもお祈りしてきました。彼らの必要のために私たちは祈ってくることができました。
その中で、少年院の子どもたちをお世話する道も開かれていきましたし、北朝鮮から脱北して韓国に住んでいる、そのような脱北者たちとの交流も始まりました。脱北者の子どもたちが韓国にはたくさん住んでいるのですが、彼らの生活は本当に大変です。特に親が脱北して中国で生まれた子どもたちが韓国に来て住んでいます。彼らはどのような難しさを感じているのかと言うと、自分は北朝鮮人でもないし、中国人でもないし、韓国人でもないと感じ、自尊心を持つのが難しい状況です。神さまが彼らを回復したいと願っておられると信じます。
教会が彼らのために祈り始めるとき、神さまのみ業が始まります。自分のパンを求める前に、また自分の教会の何かを求める前に、隣人の必要を求める、そのような祈りが始まることを願います。私は韓国にいますが、皆さんのために祈り続けたいと思います。
新城教会が今までそのように歩んで来られたことを心から感謝します。韓国、そして韓半島のために祈ってくださったことにも感謝します。来年は二月に、韓国と北朝鮮、そしてモンゴルが一緒に集まる機会があります。本当に一緒に神さまを求める素晴らしい時間になることを願っています。
北朝鮮には今も苦しんでいる人々がたくさんいます。ここで祈りの声が上がるとき、必ず主が回復してくださると信じます。
神さまが私たちに豊かさを与えてくださいました。神さまを求める者たちに聖霊が臨むならば、私たちは貧しい者ではありません。私たちは豊かな者です。なぜなら、イエスさまはすべてのものを持っておられるお方だからです。
ヨハネの第一の手紙四章四節にはこうあります。
“子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。”
私たちのうちに生きておられるイエスさまは、勝利されました。すでに来られて勝利されました。これを私たちの口で告白して前進します。
詩篇二十三篇一〜二節には、
“主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。”
とあります。私たちには乏しいことがありません。主が私たちの羊飼いとなってくださるからです。
イエスさまは、いのちのパンでした。私たちがそのいのちのパンを食べるようになります。このパンを食べる私たちに、イエスさまは語られます。このいのちをまた誰かに分かち合うことを願っておられます。
一八九六年に、日本から初めてのプロテスタント宣教師となった、乗松という人がいました。彼は横浜海岸教会でイエスさまを信じ、聖霊を受け、神の国を求め始めました。そのとき、韓国(その時は朝鮮)からのニュースが届きました。
一八九六年、朝鮮の王妃が日本人によって殺害されたというニュースでした。この報せを聞いた乗松さんは、「韓国の地に行かなければならない!」と、韓国に行く決意しました。
彼が韓国に行ったのは二つの理由からでした。まず、日本が犯した罪を悔い改めるため。そしてもう一つは、韓国の人々に福音を伝えたいという願いからでした。彼は貧しい韓国の人々と共に生活し、イエスさまの福音を伝えることに尽力しました。韓国の人々は、彼の献身的な姿を見て、彼が話しをしなければ彼を韓国人と思うほどでした。
これが彼の写真です。韓国に墓があります。弟子だった人がこのように石碑を建てたようです。無名な人であるのですが、この人について聞きました。主はこのように出て行くことを願っておられると思います。