あなたの賜物によって教会を強くする

例えば、病気にかかった人がいた場合を考えてみましょう。癒しの賜物を持つ人は、その人のために駆けつけて手を置いて祈るでしょう。また、奉仕の賜物を持つ人は、看病するために出掛けていくでしょう。そして、とりなしの賜物を持つ人は、霊的な部分を察知し、とりなしの祈りをするでしょう。一方で、病気にかかった本人も、病床の中、辛さの中でも神さまを賛美し、ほめたたえることができます。このように、キリストの体である教会は、様々な賜物が組み合わされ、一体となって大きな力を発揮するのです。
今、そういった賜物がないとしても、聖書には「賜物を熱心に求めなさい」とも書かれていますから、あなたの近くに病気の人がいて、「どうしてもこの人に癒しを与えてほしい」と願うなら、その人のために信仰の賜物、また癒しの賜物を求めて、まず祈ればいいのです。
また、兄弟姉妹の中で霊的に束縛を受け、落ち込んでいる人がいるのを見て、その人の力になりたいと思う人は、霊を見分ける力、またサタンに打ち勝つ霊的な賜物の力を求めたらいいのです。御霊の賜物が正しく用いられるとき、単に人材として能力のある人が集まるのではなく、恵みと愛に満ち溢れた集まりとなり、教会が強くされ、成長していくことになります。
ある方は、自分でこの教会に来たと思っているかもしれませんが、皆さんはこの教会で、キリストのからだの重要な一部分を担うために、神さまがここに導いてくださったのですから、そのことを忘れてはなりません。
しかし、一人ひとりが素晴らしい賜物を受け取っていたとしても、自分勝手に働き、調和がないことによって分裂や混乱が起こったとしたら、何の意味もありません。神さまは、お互いにいたわり合うために私たちに賜物を与えてくださったと、語られています。コリントの教会において、素晴らしい賜物が表されていたにもかかわらず、それらの賜物が乱用され、分裂や混乱が起こっていたことを聞いたパウロは、コリントの人へ手紙を書いたのです。

少し話が変わりますが、皆さんは、ルカによる福音書十九章で、主人が十人のしもべ一人ひとりに一ミナずつを預けたという記事をご存じだと思います。
この話の中で、一ミナを預かったしもべの一人は、それで一ミナを儲けて主人の前に差し出し、主人からお褒めの言葉をいただきました。しかし、別のしもべは、一ミナを預かりながらも、それをしまい込み、一ミナをそのまま主人の前に差し出したため、お叱りを受けました。
この一ミナの意味には様々な解釈がありますが、一つには、クリスチャン全員に、一ミナという賜物を神さまが預けたという解釈があります。その一ミナは、まず、神を愛すること、そして伝道することです。これはクリスチャン全員に与えられている使命ともいえます。

また、マタイによる福音書二十五章には、三人のしもべにそれぞれ異なるタラントを預けて旅に出たという記事があります。
円に換算しないとなかなかピンとこないかもしれませんが、一ミナは約百万円で、一タラントはおよそ六千万円です。ミナとタラントでは、金額に大きな差があります。しかし、ミナもタラントも、単に金額を表しているのではなく、賜物の象徴であるもと考えられます。
五タラントを預かったしもべは、さらに五タラントを儲けて、主人の前に差し出しました。五タラントは約三億円です。三億円を預かり、さらに三億円を儲けて主人に返したということです。「どうやって商売したんだろう? すごいなぁ」と思います。
この話を聞いて、私は、「五タラントを預けられたい」と思う一方で、「五タラントを預かっても、五タラント儲けるだけの力が私にあるかな」と思ってしまうところもあります。皆さんは「私も五タラントを預かりたい!」と思いますか? そう思うなら、真剣に祈ったらいいと思います。もちろん、それだけの責任も問われますが、神さまはその決心に報いてくださいます。

このように、全員に与えられる賜物もあれば、特別な賜物として与えられるものもあります。そのことについて、エペソ書 四章十一~十三節にこうあります。

『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』
ここに「使徒」「預言者」「伝道者」「牧師」「教師」とありますが、すべての人が預言者になるわけではなく、すべての人が牧師になるわけではありません。神さまから特別に選ばれて、特別な働きをするために賜物を預かった人々がいます。
大きな意味ではすべての人に伝道という賜物は与えられていますが、特別、伝道者の賜物を受け取った人もいます。その代表的な人物の一人が、十年前に召された、愛と熱血の伝道者・滝元明先生ではないかと思います。
先生は約六十五年間、魂の救いのために全力で走り続けた本当に素晴らしい伝道者でした。私は明先生を生涯の師として仰いでいます。いまだにその足元にも及びませんが…。しかし、私にも多くの伝道のチャンスが与えられています。プレイズで、お客さんや業者の方、その他いろいろな人と話す機会がありますので、そのたびに教会の証しをしています。
先日、ハーブ農園の関係の方と一緒に食事をしながら、四時間ほど話をしました。本当は、農園のことを詳しく聞きたくて食事に誘ったのですが、その方が開口一番、「岡本さんは牧師なんだよね?」、「牧師って何をするの? 教会って何をやっているの?」と、次々に質問をされました。そこで私は、自分の証しや明先生の証し、明先生が受け取って行われた甲子園ミッションの証しや、先生が召されてなお、主の働きが前進してきたことなど、教会のことを二時間以上話しました。その方はとても教会に興味を持ってくださり、「一回教会に行ってみようかな」と言ってくださいました。本当に素晴らしいひと時を持つことができました。救われている皆さん全員に、伝道のチャンスが必ずあります。伝道の賜物を生かして使ってください。

新城教会には多くの牧師先生方がおられます。献身当初、自分の賜物が何であるか、はっきりと気づいていなかったかもしれませんが、「神さまのために働きたい。仕えたい!」と自分自身を献げたことによって、主がその思いに報い、それぞれに与えられた賜物を祝福し、今主に用いられているのだと思います。
また、プレイズにも神さまのために少しでも何かをしたいという思いをもって入社してくださった方が、約四十人います。皆、それぞれ与えられている賜物を生かして働いてくださっていることにより、働きが祝福され、私自身も助けられています。
皆さんも、会社や学校、家庭において、あなたにしかできない主の働きがあることを覚えてください。皆さん一人ひとりが、それぞれ置かれている場所で主に仕えていくならば、今は想像もつかないような賜物を受け取ることができると、私は信じています。
特に、若者の皆さん、せっかくタラントを預かっているにもかかわらず、「私は何もできないから」と思わないでください。若い人たちはこれから多くの選択肢と可能性があります。主に祈りつつ主の働きに参加し、いろいろなことにチャレンジして賜物を生かしていただきたいと願っています。

そしてこのみことばでパウロは、『聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため』であると、語っています。
ダイヤモンドも磨かれることによって輝きを増すように、私たちが成長するためには、与えられている賜物を使って磨くということが重要です。信仰の一致を持ち、お互いの賜物が組み合わされていくことで、さらに賜物が磨かれ、教会全体が強くなり、主の働きが前進していくのではないでしょうか。

最初にお読みしたローマ人への手紙一章十二節において、パウロはローマの人々に、『あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。』と呼びかけています。
パウロは、多くの書簡を書き、賜物をたくさん持っていた人物で、それを存分に使った人であるわけですが、そんな素晴らしいパウロであっても、一人でできることは限られていましたし、パウロも私たちと同じ、ただの普通の人間でした。ですから、共に働くことを願ったのです。
最近、この教会では、「教会はサタンと戦う軍隊である」ということが語られています。あなたに与えられている賜物は、主の働きを前進させるための戦いの武器であり、あなたは、軍隊の一員であるということを覚えてください。そして、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(エペソ人への手紙 六章十~十二節)

とあるように、この地上に生きている限り、毎日サタンの攻撃があります。そのことは、皆さんも感じていると思います。戦うのに何の武器も持っていなければ、すぐに敗北してしまうことは明らかです。
一方で、このようなみことばもあります。

『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』(コリント人への手紙第二 十章四節)

皆さんに与えられた賜物は、神さまによって力あるものです。それぞれの役目を果たし、互いに組み合わされ、共にそれを使って戦っていくときに大きな力となり、リバイバルの前進を見ることができると信じています。

最後に、一か所みことばを読みたいと思います。第一ペテロの手紙 四章七~十節です。

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』

終末が近づいていると言われています。今年は、「主の働きが加速する年」と語られ、皆さんも祈っておられることと思います。イエスさまがいつ来られても大丈夫なように、私たちは準備をしておく必要があります。そのためにはまず、「心を整え、身を慎み、互いに熱心に愛し合うこと」が大切です。

自分の賜物を見つけて磨くということは、どんな些細なことであっても、「私はこれを使って主に仕えたい!」と願うことから、また祈ることから始まると私は思っています。
どんな賜物も素晴らしいものですが、「賜物を持っていると楽しいな」とか、「これはすごいぞ」と自己満足のために用いても意味がありません。教会のために用いられ、それが組み合わされるとき、大きな力を発揮するのです。与えられた賜物を、自分を喜ばせるためではなく、神の恵みの良い管理者として、キリストの働きの中で教会を建て上げるために使ってこそ、意味があるということを覚えてください。
あなたに与えられている賜物をしっかりと見極め、それを磨き、戦いの勇士として主の働きに役立つ者となっていただきたいと切に願います。

一言お祈りします。
愛する父なる神さま、み名を崇めます。二月に入りました。私たちの教会にとっては、この二月は大きな意味のある月です。特に今週は、祈り備えてきた大きな聖会があります。その聖会において、主ご自身がそこに臨んでくださり、「今年、主の働きが加速する」と語られているとおり、主の業を見る年となり、リバイバルが起こされますように、この時もう一度主の前に出て祈ります。
また、一人ひとりが与えられた賜物をしっかりと受け止め、リバイバルのために、主の働きのために皆で心を合わせ、それぞれの賜物を組み合わせるとき、大きな力が発揮され、リバイバルが前進すると信じています。今日、主がお一人おひとりに語ってくださったことを心に留め、主のみ心が、主の恵みが、主の栄光が現されることができますよう導いてください。今日の恵みを心から感謝します。すべての栄光をお返しします。主のみ名によってお祈りいたします。アーメン。