2025年2月9日(日)新城教会牧師 岡本信弘
ローマ人への手紙 1章11~12節
“私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。”
ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。今、ヘブンリーキンダムと永井さん夫妻の素晴らしい賛美を聞いて、私にも賛美の賜物があったらなぁと思ったりしますが、それぞれに与えられた賜物があるのだと思い、感謝します。
二〇二五年が始まって、もうすでに一カ月以上が過ぎました。先週はだいぶ寒くなって、この辺りでも久しぶりに雪がうっすらと積もりましたが、皆さんお元気でしょうか?
私は昨年末、昼間から「風邪をひいたかな?」という感じがしていたのですが、カウントダウンのメッセージを何とか終えることができました。しかし、一月一日の朝に起きたら、三十九度以上まで熱が上がり、新年礼拝にはネットで参加することになり、とても残念でしたし、本当に申し訳なかったです。その後三日間ほど寝込みましたが、こうして元気になりました。いつも皆さんに祈っていただき、心から感謝いたします。しばらく寒い日が続きますが、皆さんも健康に気をつけてお過ごしください。
さて、先ほど共に祈りましたが、今週はいよいよ、モンゴル・韓国・日本の合同聖会が行われます。二百人近くの方が集まられるのですが、その半分以上は海外の方々です。すごいイベントですよね。本当に素晴らしい主のわざがそこに現されると信じ、期待しています。皆さんもこの集会に、一つだけでも参加して、主の恵みを受け取っていただきたいと思います。
海外から来られた皆さんは県民の森に宿泊されるのですが、冬の間、料理を提供しておらず、厨房も貸してもらえないということで、全部の食事をこちら側で用意することになっています。そのため、教会で調理して持って行き、現地で温めたり、一部は外の施設で調理したりして提供します。今、ミッション・教会のスタッフがいろいろと準備をしていますが、私も食事の担当をさせていただいています。すべての食事がスムーズに提供でき、来られた方々が霊肉共に満たされて、楽しく、また本当に素晴らしい祝福を受け取る時となるように、共に祈りながら参加していただきたいと思っています。どうぞお祈りください。
いつもプレイズの働きのためにも祈っていただいていることを、心から感謝します。皆さんにロゴマークをいくつかお見せします。これは、私の名刺の裏面の画像です。
プレイズの各部門のロゴで、六つあります。三十五年前に始まった、印刷・出版部門、右上にあるのは老人ホームの「アークホーム」。今、一つ空き室がありますので、もし興味のある方はお問い合わせいただければと思います。真ん中はデイサービスしおん、そして下には二つの就労継続支援B型のシャロームとサーム23。ここは、一般就労をめざして障害者の方々が通って来られる施設ですが、サーム23は雲の柱から事業転換をした働きです。これらの働きが、ここまで守られてきたことを感謝します。
そして、昨年から神さまに導かれていたハーブ農園を、二〇二五年から正式に、「ベテルファーム」として経営するようになりました。写真を二、三枚お見せしたいと思います。
ここには三棟、別のところにあと二棟、ハウスがあります。中は、このようになっています。
幅約十m、長さ約五十mのハウスの中で、ハーブを栽培しています。
次の写真をご覧ください。これは、「セルバチコ」というハーブです。正直言うと、私はハーブに関する知識もなく、全くの素人です。セルバチコも、もちろん名前も知らず、「タンポポの葉っぱみたいだな」というのが第一印象でした。高級(?)イタリアンレストランなどで、添え物として使われたりするようですが(私は組合に出荷しているだけなので、詳しくはわかりませんが)、少し苦みのあるさわやかな味のハーブです。皆さん、セルバチコをご存じでしたか?
もう一つ、別の写真をお見せします。
これは外での栽培の様子です。冬の間はこのようにビニールをかぶせて防寒しながら、ローズマリーとタイムの苗を植えて成長を待っています。全体で約千五百坪の面積があります。外には、成長したローズマリーが植わっている場所もあります。
最近順先生も、「未来のため、将来のために投資をしなさい」とよく言われていますが、私はこのベテルファームの働きにおいては、かなりの投資をしています。しかし、この投資が必ず将来、教会やミッションの働きのサポートになると信じていますので、ぜひ皆さんにもお祈りいただければと思います。
年末のカウントダウンで、「ダイヤモンドは、発掘された当初は、ただの硬い石ころでしたが、磨く技術が発達したことによって、高価な宝石として用いられるようになった」と語りました。最近、「ダイヤモンドっていくらぐらいするものなんだろうか」と興味が湧き、ネットで調べてみました。最近で一番高いダイヤモンドは、八十五億円だと出ていました。どんなものなのか、ちょっと見てみたいと思いましたが、どんなに価値があっても売らなければお金にならないので、私にとっては、すぐに使える現金のほうがよっぽど価値があるなぁと思ったりします。
それはさておき、聖書のみことばに目を向けると、イザヤ書四十三章四節には、こう書かれています。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』
皆さんよくご存じのみことばですが、一人ひとりが神さまに愛されていて、神さまの子どもとされていて、どんなダイヤモンドよりも高価な存在であり、値段をつけることができないほどの価値があるということです。そのことを忘れずにいていただきたいと思います。
さて、今日は、カウントダウンで語らせていただいた「賜物」についてさらに掘り下げて、『あなたの賜物によって教会を強くする』というタイトルで、どんな賜物があるのかということではなく、それぞれの賜物が組み合わさったときに、いかに大きな力を生み出し、どれほどの輝きを放つのかということを共に学んでいきたいと思います。
ローマ人への手紙一章十一〜十二節を、もう一度お読みします。
『私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。』
「賜物」という単語は、聖書中に四十七回ほど出てきます。そのうち、新約聖書では三十八回。その中でもこのパウロが書いた三つの書簡、コリント人への手紙に十五回、ローマ人への手紙には八回、エペソ人への手紙には四回出てきます。
以前お話ししたように、「賜物」とは、単なる特殊な能力や才能ではありません。賜物と才能は似ているようですが、才能は自分の能力として使われるものであり、賜物は神さまからの授かりものであると考えることができます。
一般に、賜物を「用いる」「生かす」「受ける」「求める」というような使われ方をしますが、才能のように「育てる」という表現はされないように思います。それは、神さまから与えられている賜物は、初めから完璧なものであり、育てる必要がないと考えることができるのではないでしょうか。
例えば、皆さんが素晴らしい特技を持っていたとして、努力して自分の能力として使うのであれば、それは才能として開花します。一方、特技を神さまから与えられたものだと考え、神さまのために使っていくなら、賜物といえるのではないでしょうか。
つまり賜物とは、皆さん一人ひとりが神を信じ、神さまの子どもとされたときに、特別に神さまから預かり、それを使って神さまのために使うものといえるでしょう。私たちは、神さまによって造られた者ですので、生まれ持った才能や特技が賜物として用いられることもありますが、突然、上から降ってきたように与えられる賜物もあると思います。
ローマ人への手紙を読むと、パウロはローマの人々に対して、「あなたがたは神さまから召された者だ」と、はっきり語っています。その上で、「私はあなたがたに寄り添い、賜物を分けて強くしたい」と語っています。
次に、パウロがコリントの人々に送った手紙を見てみたいと思います。ここでは、「賜物を分かち合う必要性」と「主の働きの関連性」について語られ、各器官がからだ全体を構成し、それぞれが重要な役割を果たしていることが示されています。
コリント人への手紙第一十二章二十二節から二十七節をお読みします。
『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』
体にはたくさんの部品というか器官があり、それらによって成り立っています。一般的に考えると、足よりも手のほうが見栄えが良いと考えたり、手よりも頭のほうが重要だと考えたりする人がいるかもしれません。また、体のどこか一カ所が痛かったり、苦しかったり、不具合が起きたときに、「そこだけ悪いけれど、ほかはすごく元気で問題ない」とはなりませんね。一つの器官に不具合が出ると、それによって体全体の調和が乱れてしまいます。体は一つの器官だけで造られているのではなく、それぞれの器官がどれも重要な役割を果たしており、欠けてはならない存在であり、かかわりを持っているということです。そのことは、ご自身の体を考えるならよく理解できると思います。
ここで、一般社会と教会の違いを考えてみましょう。
会社で働いていることを想像してみてください。大きな会社には社長をトップとして各部署があり、各部の長たち、社員で構成されています。
会社のような組織では、能力が最も重要な要素とされ、行動力や判断力、分析力、またはコミュニケーション能力などによって、給料や昇進が決まることがあります。また、一人ひとりが「人材」として扱われ、会社にとって有益かどうかで評価されます。つまり、「人材」の言葉が示すように、会社において人は「材料」の一つという考え方があるのです。
皆さんは、「適材適所」という言葉を聞いたことがあると思いますが、会社で「適材適所」に人材を配置することは重要です。もし当てはまらなかった場合は、会社に不利益をもたらしたり、会社に不適合とされ、窓際に追いやられたり、リストラされたりして、会社の組織から排除されてしまいます。これが、一般社会の構造なのです。
一方、私たちが属している「教会」という集まりは、このような組織とは根本的に異なります。今日ここに来られている方やネットで参加されている方たち三百人以上の方が、血縁関係がないにもかかわらず、子どもからお年寄りまで、神の家族の一員として集まるところなのです。
先週、順先生が授産所の兄弟姉妹のことを話しておられました。彼らは障害を持ち、世の中的には弱い存在として見られたり、何かを成し遂げたというように評価されることも少なかったりするかもしれません。しかし、彼らは純粋で、霊的にも鋭いところがあり、重要な役割を果たしているのだと。教会においては、何かをした、これだけの仕事を成し遂げた、ということが評価の基準にはなりません。普通ならばマイナスに見える要素や、見劣りする部分が、かえって尊ばれることがあるのです。
また教会では、聖霊の賜物が用いられるとき、目立つような部分はそのままにされることもありますが、目立たない部分に特別な注目が集まることがあります。そこが会社とは全く異なる点です。