一日は千年のようであり、千年は一日のようです

2024年12月29日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

ペテロの手紙 第二 3章8節(新改訳2017)
“しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”

ハレルヤ!おはようございます。今日は二〇二四年最後の日曜日にみことばを取り次がせていただける恵みを感謝します。

先週の水曜日には、二〇二四年のクリスマスの働きの最後の集会、「水曜クリスマス祝会」が行われました。中北育子姉妹と滝元美佐子姉妹の演奏を楽しませていただきました。順牧師のメッセージと提供された料理も素晴らしく、クリスマスの働きを締めくくるとても素晴らしい集会となりました。

また、個人的な話ですが、この一二月で長女が十五歳になりました。本当に早いもので、もう十五年も経つんだなと思います。人生はあっという間です。皆さんに一つお祈りいただきたいのですが、年が明けてすぐに高校受験があります。ぜひ、彼女のためにお祈りいただけると感謝です。主のみこころの道が彼女の上に備えられていくようにお祈りいただければと思います。
これまで私の家族もいろいろなところを通らせていただきましたが、いつも主の守りと主のご計画があったことを心から感謝しています。主の永遠のみ手がいつも自分たちの上にあることを思わされます。
一年の終わり、また初めは、そのような振り返りをするのに良い機会だと思います。私たち、主を信じる者は、時間の経過というものに対しても、主の主権を認めて考えていきたいと思います。
その様な中今日は、「時間」ということをテーマにみことばを学んでいきたいと思います。先ほど読んでいただきました、第二ペテロの三章八節をお読みします。

“しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”

ここで示されている内容から現代の私たちは何を受け取ることが出来るでしょうか。普段はあまり深く考える事がなく、何気なく受け取っている様な箇所かもしれません。
この主題を読み解いていくため、第二ペテロの三章一節から七節をまず見ていきたいと思います。

“愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。
それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。
まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。“

まず冒頭で、「愛する者たち」と呼び掛けられている読者に対して、これからのことを書いている目的は、「あなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたい」からだと書かれています。
彼らは、信仰者であり、主の教えに従って歩もうとする人たちです。おそらく何度も福音を耳にしている。しかし、その様な者でさえ、記憶を呼び覚ましていただくことがないと、純真な心が失われていくのかもしれません。我々も絶えず主のみことばに耳を傾け、主のなしてくださっているみわざに心を向けていきたいものです。

二節には、「聖なる預言者たちにより前もって語られたみことば」、「あなたがたの使徒たちにより伝えられた主であり救い主である方の命令」という両表現で、いわゆる旧約と新約の連続性が表されています。

三節から七節では、「まず第一に心得ておきなさい」と口調も強くなり、正しい主の教えからそれている人たちに向けて警告する内容が書かれています。
その対象となる「彼ら」は、後に「グノーシス主義」と体系化される、霊肉二元論などに代表される異端的な考えを持つ者です。
「終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながらこう言います。」これは未来のことのように書かれていますけども、当時の彼らに中に既に存在していた問題です。

「終わりの時」とは、イエスさまがこの地上に来られて以降を指します。イエスさまがこの地上に来られたことが「終わりの始まり」であり、その再臨が「終わりの終わり」です。その視点においては、当時の読者も現代の我々も同じステージに立っています。

「嘲る者たちが現れて嘲り」、「自分たちの欲望に従いながら、こう言います」。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
この「来臨」は先ほどもお話したイエスさまの再臨のことです。「すぐに来る」といいながら来ないじゃないかと主張するわけです。「父たちが眠りについた後も」とあることから、イエス様の地上のはたらきから一世代だけ隔てた者たちだとわかります。彼らには自分たちの感覚における「遅延」にしか視点が無いため、未だ成就していない来臨の約束を嘲笑います。

五節から七節。

“こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。”
“しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。“

彼らの人間的な主張とは対象的に、この短い箇所の中に「神のことば」や「みことば」という表現が繰り返されています。
主はご自分のみことばで全てを成し遂げることができる。天地を創造された主はやがて今ある天地を滅ぼされます。

このような流れの中で、今日の主題にさせていただいております八節が出てきます。そしてその次の九節も読んでいきたいと思います。

“しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。“
ここで再び「愛する人たち」に呼びかけの対象が戻ります。

“主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。“

主の来臨は遅れているのではなく、それはすべての人が救われるためです。主の寛容、忍耐、そして慈愛が表されています。私たちはなおのこと福音を伝え続けなければなりません。
九節まで学んできました。
さらに「時間」という視点で学んでいきたいと思います。「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」まず私たちは、主の永遠の視点に立つことが求められます。嘲る者たちの様な人間的な視座を捨てなければなりません。この箇所を宗教改革者カルヴァンはこのように解説しているようです。

「これらの人々の視点を上に(天に)向けさせることで、神に定められた時間を自分たち自身の馬鹿げた願望に従属させるようなことをしなくなる。」

また、詩篇九十篇四節には次のようにあります。

“まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです。あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。“

人間の一時性と主の永遠性の対比がなされています。
また黙示録には、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」とあります。主は永遠なる方、時間に対しても主権を持たれる方です。私たち信仰者は時間という領域においても主の主権を認めなければなりません。

今日学んでいるような視点は、実は現代においては、いくらか学問の領域においても、認められる部分があります。

時間は万物に共通する絶対的なもので、一定方向にしか流れないとういうのが、我々が一般的に受け取っている考え方ではないでしょうか?しかし、以前から理論物理学の世界ではそうではない可能性が示唆されています。
ご存じの方も多いと思いますが、相対性理論において時間というものは絶対的なものではなく、相対的なものである。あるいは時間という概念すら存在しないという考え方もあります。
宇宙全体というとても大きなスケールで物事を考えると、誰かの「現在」が無条件で他者と全く同一の「現在」を表すことができなくなります。どういうことでしょうか?
時間の流れは2つの要因により変化します。一つは速度、もう一つは質量です。光速の様なとても早い速度で移動すると、時間の流れは遅くなります。また、ブラックホールの様な非常に大きな質量を持つ空間の時間の流れは遅くなります。その様な条件を考慮に入れなければならないスケールでは、特定の空間を隔てた二者の間の時間の概念は、地上の条件下とかなり違ったものとなります。誰かの現在は誰かの過去にも、未来にもなり得るものであり、絶対的な時間というものは理論上なくなります。

このような知識は興味深く、非常に面白いものです。そして、信仰者の福音理解にいくらか役立ちます。しかし、注意しなければならないのは知識や学問的な領域にも主の主権をおいた上で学び、受け入れないと、学問そのものが目的となってしまうことです。学問的・科学的な説明が、みことばにおいて特定の内容を受け入れるか受け入れないかの判断になっているとしたら、それは「納得」であって、信仰ではありません。

 実際先ほど学んだ宇宙論が、聖書的にも正しいとしても、そのスケールでこの宇宙全体を取り扱えるのは誰でしょうか?如何に科学が発達しても人間には絶対にできません。それが出来るのはただ一人、創造主だけです。私たちは、知識や学問として情報を受け入れる以上に、その創造主に、そしてそのみことばに信仰をはたらかせなければなりません。
その様なことにも注意しながら、

第二ペテロに戻ります。三章の十節にはこのようにあります。

“しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。“

学んで来たように、これ以前までは、主の寛容と忍耐が強調されていましたが、今度は「主の日が盗人のようにやってくる」という俄然性、突然やってくるという側面が強調されています。私たちは両側面をしっかりと受け取っていなければなりません。
主が寛容と忍耐、慈愛を持っている一方で、この厳粛な執行は、避けられるものではありません。必ず終わりの終わりが来るということを、クリスチャンは心しておくべきです。

第一テサロニケの五章一節から三節には、このようなみことばがあります。ここでも同様の内容が書かれています。

“兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。“

「主の日が盗人のようにやってくる」という表現は、聖書の他の箇所でもたびたび警告されています。イエスさまご自身もマタイの福音書二十四章で語っています。さらには、イエスさま自身もその時を知らないと言います。いつであるかは誰にもわからないのです。

「主のお帰りが近い」という表現を私たちが用いるとき、これらのみことばを念頭に置きながら語ることが求められます。今私たちが立たされている時代だけを見て「主の日が近い」という表現を用いることは端的に言えば誤りです。主の日が近いというのは、永遠の視点からすれば、二千年前から条件は同じ、変わっていません。このことを私たちは間違えてはいけません。誰もわからない。だから、地上の私たちには、盗人がやってくるように感じるわけです。