2024年1月1日(月)新城教会主任牧師 滝元順
主の年、二〇二四年、おめでとうございます!
今年もよろしくお願いいたします。
ゆったりした音楽を聴かせていただきましたが、このような気分で一年過ごすことができたらいいと思います。かずき君とお父さんの共演、いいですね。親子で共演できるなんて幸せです。来年は、かずきくんがお嫁さんをもらって、お嫁さんがピアノを弾いてくれると、もっといいかもしれませんが。
この教会には多くのミュージシャンや、様々な賜物を持った方々が主によって備えられています。その恵みを心から感謝します。
私も激動の一年でしたが、皆さんに支えられ、今日を迎えることができて感謝です。日曜日にもお話ししたのですが、ある意味、私たちのような主に仕える者たちは、皆さんの標本にならないといけないと思われます。様々な試練の中でどう対処し、くぐり抜けるのかを実践することにより、そこから皆さんの問題対処の糧となったらいいと思います。私も妻を失い、たいへんな環境下での一年でした。しかし少しはその役割で貢献できたかと思っています。
先ほど、二〇二三年を振り返るスライドを見ましたが、結構いろいろあって、よくぞという感じでした。教会のプログラムはすべて楽しい雰囲気でした。しかし世界に目を向けるならば、喜ばしいニュースは少なかったように感じます。
ウクライナは二年にわたって戦場と化しています。ロシアとウクライナの戦いといいますが、ロシアの西の隣国がウクライナです。では、東の隣国はどこかと言うと、日本です。日本もいつ何どき、戦争が始まるかわからないわけです。
また、昨年の十月からはイスラエルのガザで大きな戦いが始まりました。本当に悲惨な状況です。もしも私たちがガザに住んでいたら、どんな気持ちでしょうか。毎日空爆があって、命の危険にさらされるのは、相当なストレスだと思うのです。
現代のイスラエルと、聖書が告げるイスラエルとは別です。私たちは主が帰って統治されるイスラエルを求めて祈らなければなりません。日本もイスラエルも、どこの国でも、国の主権者は、悪魔と悪霊どもです。背後に人々を苦しめ、戦いを継続させる悪しき力が働いているのです。
ですから、イスラエルの真の平和のために祈らなければいけないのです。現在、フーシ派が世界の船舶を攻撃し始めています。それは世界大戦に広がる危険性を秘めています。対岸の火事では済まされない時代がやって来ました。
太平洋戦争を生き抜いた方々は、かなり少なくなられたのですが、戦争が始まる前日までは、普通に暮らしていたと思うのです。しかしいったん戦争が始まったら、状況は一変したわけです。
二〇二四年は、昨晩も祈りましたけれど、何が起こったとしても、耐え抜く力が与えられないといけないと思わされます。どんな時代にあっても、主は助けてくださると信じます。
二〇二三年、新城教会は新城に植えられて七十年でした。昨年のテーマとして、主は「希望の年」と語ってくださいました。どんなに良いことがあるのだろうかと、期待したのですが、残念ながら、聖書の「希望」と、私たちの抱く「希望」の概念は違うことに昨年は気づかされました。
「希望」と言えば、良いことばかりが散りばめられているイメージを持つのですが、聖書が告げる「希望」とは、その前に「絶望」があるのです。「絶望からの希望」それが聖書の告げる希望です。
預言者イザヤは、”エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。”と預言しました。
簡単に述べられていますが、その背景に何があったのかという事です。栄華を極めたダビデ、ソロモンの時代、イスラエルが切り株にされるとは、誰も思いませんでした。
しかしイスラエルは切り倒され、切り株のようになったのです。けれども、そんな絶望的状況から、希望の芽が出るとイザヤは預言したのです。
時に私たちの人生も、切り株状態になる事があります。いつ何時、絶望状態に陥るかもしれないのです。しかし聖書は、「そこから希望は始まります」と告げています。
この何年かで、切り株のようになった方もおられるかもしれません。私はそのひとりです。一生懸命祈ったのに、なぜ神は祈りに耳を傾け、応えてくださらなかったのか?
しかし暗闇が深ければ深いほど、希望は近づいているはずです。
「絶望からの希望」のテーマは、継続中だと感じています。昨晩は七名の先生方が、素晴らしいメッセージを語ってくださいました。それぞれの視点で、主が語っておられました。それを来週は、ダイジェストでお届けしたいと願っています。また全編も、印刷して配られますから、今年の指針として、受け取っていただけたら幸いです。
現在、世界には今までにないような絶望的状況が広がっていますが、この次に来るのは希望です。その希望とは何でしょうか。
イエスさまは、今から二千年ほど前に地上に来られました。それは「初臨の希望」でしたが、その次には「再臨の希望」があるのです。
昨年は七十周年で、「主イエスよ。来てください!」というテーマで、主を求めました。イエスさまがこの地上に再び帰ってくださらなければ、本当の希望はありません。ですから継続して「主イエスよ。来てください!」と祈り続けなければならないのです。
先ほどもお話しましたが、もしも私たちがガザの住民の一人ならば、どのぐらい真剣に「主イエスよ。来てください!」と助けを求めて祈るでしょうか。もしもウクライナの戦場のただ中に置かれたのなら、どのぐらい激しく「主イエスよ。来てください!」と叫ぶでしょうか?やはり人は、その環境に置かれないと本気にならないものです。
私も家内が天に帰って、一人ぼっちにされました。今まで本気ではなかったけれど、「主イエスよ。来てください!」と、心の底から祈れるようになりました。ある意味で、私のメイン・ミッションは、今や「主イエスよ。来てください!」と叫び祈ることかと思います。
問題が起こって切り株状態にされたら、「主イエスよ。来てください!」と祈って下さい。なぜなら、イエスさまが再び帰られることが、自分にとっても、世界にとっても、人類にとっても、究極的な希望となるからです。
二〇二四年のみことばを求めて祈っていましたが、今年、掲げさせていただくテーマは、
「大いなる年
二〇二四
主よ。遅れないでください!」
これが私にとってのテーマです。
ところで、あなたは時間に正確ですか?「誰かと約束しても、いつも遅れる・・。」という人もいるし、約束の五分前ぐらいに行動する人もいます。時間の概念は人によっていろいろですよね。
私の家に二人の少年が毎週、泊まりに来ると話していますが、今の私にとっての刺激は、このことくらいです。その子どもたちに、「時間を気にしているか?」と聞いたら、一人は「僕は時間が気になってしかたない。」と答えました。学校でも、常に時間を気にしているというのです。
しかしもう一方の少年は、「俺は時間なんか、気にしたことはない!」と言うのです。「じゃぁ学校で、授業が始まる時間とか、どうしてるの?」と聞くと、「俺はそんなのも全然、気にしていない。先生が俺に合わせているだけだ。」と言うのです。すごいやつだなぁと思います。どちらの少年か、大体推測はつくかもしれませんけれど。
神さまも遅れることがあるらしいです。英語の聖書では「O LORD, do not delay!」となっていました。ネット翻訳にかけたら、なんと訳されたと思いますか?
「オー主よ。遅刻しないでください。」でした。神さまはどうも遅刻するみたいです。
一方ではこんな言葉もあります。
“わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」”(イザヤ書 四十六章十三節)
しかし神さまには「遅刻される方」というテーマもあるらしいのです。
新約聖書には、イエスさまが今日にでも、明日にでも帰ってこられるぐらいの勢いがあります。弟子たちも聖徒たちも、真剣にイエスさまのお帰りを期待していたのです。
しかしイエスさまは、二千年も遅刻しているのです。どうしてなのか。そこには定められた時もありますが、やはり、私たちが本気で叫ばないからだと思います。「主よ。来てください!」だけでなく、さらに一歩進んで、「遅れないでください!遅刻しないでください!」と叫んで祈らなければいけないのです。
今年、導かれている聖書箇所は、詩篇四十篇十六〜十七節です。
“あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ遅れないでください。”
詩篇の記者は、『わが神よ遅れないでください。』と叫んでいます。伝統的にこの箇所は、イスラエルにおいては、戦争のただ中で読まれるそうです。
「助けてください!遅れないで、主よ。助けに来てください!」と叫び祈る言葉だというのです。まさに、「我が神よ、遅れないでください!」と叫ばなければならない時が来ています。
詩篇七十篇にも同じ表現が出ています。四〜五節、
“あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。神よ私のところに急いでください。あなたは私の助け私を救い出す方。主よ遅れないでください。”
「主よ。遅れないでください!」。これは個人的というより、国家的、世界的な苦しみの中、聖徒たちは主の前に叫ぶ使命があるのです。
と同時に、ここでは「主は大いなる方」と宣言しなさいと告げています。
今年のテーマは、
「大いなる年
二〇二四
主よ。遅れないでください!」
私たちの主は大いなる方です。今年は大いなる年となることを期待します。その為には、「主よ。遅れないでください!」と、叫ぶ必要があります。
詩篇七十篇は、六十九篇とペアだと言われます。詩篇六十九篇三十四〜三十六節を見ると、
“天地よ主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。まことに神はシオンを救いユダの町々を建て直される。彼らはそこに住みそこを自分たちの所有とする。主のしもべたちの子孫はその地を受け継ぎ御名を愛する者たちはそこに住む。”
とあります。私たち人類が「主よ。遅れないでください!」と叫ぶだけでなく、「天地よ主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。」とあるように、主は、すべての被造物に賛美を命じておられます。
「福音」は人だけのものではなく、被造物全体のものです。「主よ。遅れないでください!」という叫びは、人だけでなく、被造世界全体の叫びです。
地球環境も、現在、どんどん悪化しています。ゆえに人以外の被造物も、「いい加減にしてくれ!主よ、帰ってきてください。遅れないでください。」と叫んでいるはずです。
今年は人だけでなく、被造物全体が主をほめたたえ賛美しますように。福音が人だけのものでないことを確認したいと思うのです。
最近、バイブルリーディングがあって、昨年は新城教会での学びが前進した年でした。毎週日曜日、十五分だけですが、聖書を読み、解説していただくのですが、講師のお一人おひとり、短い中にエッセンスを凝縮しておられます。
私は彼らに話しています。あの講義をホームページに掲載したら、注解書になるではないでしょうか。
実は聖書は何千年も前のものです。しかし近年、様々な歴史的資料が解読され、精密に聖書のみことばの意味が浮き上がっています。
二〇一七訳聖書が出たのですが、ネストレ・アーラントという人たちが作った原版を、解析し続けて、多分二十七版だと思うのですが、今回、二十八版の新しいバージョンを定本とした聖書が発売されました。
興味があったら買っていただきたいと思うのですが、新約聖書だけですが、どこが発売しているかというと、岩波書店です。これは学術的に精密というのが売りになっています。普通、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという順序ですが、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネと並んでいます。なぜかというと、研究によるとマルコの福音書が最初に記述されたことがわかったからです。それで順序が変わったのです。またパウロの書簡も年代別に並べられています。
マルコの福音書十六章十五節、