主の使命に生きる 2024

まず、「ミナ」という単位は、タラントと比べて少額です。一タラントは六千デナリでしたが、一ミナは百デナリです。一ミナは百万円、十ミナならば一千万円です。そしてルカの福音書では、十人のしもべに対して均等に十ミナが与えられます。これらの理由からタラントのたとえでは能力に応じたより大きな使命への言及、ミナのたとえでは、信仰者に一様に求められる、より基本的な信仰における使命についての教えとも読み解くことが出来ます。

またマタイでは「旅に出る人」でしたが、ルカでは「王位を授かるために遠い国に行く人」です。
また、ルカでは「商売をしなさい」と明確な指示があります。
王位を授かって帰ってきた主人がしもべたちと清算をします。最初のしもべとは、一ミナで十ミナを儲けた。それで「十の街を支配する者になりなさい。」ということで、より大きな責任を与えられます。

最後の一人は、マタイの構成と同様さばかれます。彼は土に埋めるという安全策すら取らず、ただ布に包んでおきました。
そして二十一節では、主人自身が「私はお前の言葉によってお前を裁こう」と言っています。
結論の「誰でも持っている者はさらに与えられる」という原則は同じです。

ただ、ルカの福音書では、十九章の二十七節の、よりはっきりとした裁きの描写で物語が閉じられています。

“またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」”

これは十九章十四節に描かれている人々に対するものです。

“一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。”

それらの人々には報酬云々、評価云々ではなく、きっぱりと非常に強い表現で、裁きが下されます。

ミナのたとえでは「王位を授かって戻ってくる」主人です。イエス様の再臨とそれに際しての権威を思い起こさせます。この二十七節は信仰そのものへの言及と考えられます。イエス・キリストを信じ受け入れない者は滅びる。これは福音の大前提です。

結論に入ります。タラントであれ、ミナであれ、私たちクリスチャンにはそれぞれ主から委託されている使命があります。タラントとミナの違いから学びましたが、それぞれが負っている役目や領域、またその規模は違います。
しかし、与えられたものを用いるか否かという条件は、いずれの場合でも違いが無いはずです。ある方は私にはタラントはありませんと言うかもしれません。しかしミナは均等に与えられています。小さいと思われるようなものも、主のために必要な働きであり、忠実に果たしていくべき使命です。クリスチャンが最低限主のために果たしていくこと、その最たるものは祈りです。祈りは本当に力強いもので、またクリスチャンの生活の根底です。何もできないとおっしゃる方は、それは間違いです。祈りが何よりも力強いのです。

冒頭で子どもたちの話をしましたけれども、今、次の世代のために祈ることがとても重要であると思います。ぜひ、教会のために、子どもたちのために使命を持って祈ってください。

私たちが地上で生かされる期間は、使命を果たすための期間です。その様に生きていきましょう。ペテロの手紙第二の三章九節には、このような言葉があります。

“主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”

繰り返しですが、恐怖と怠惰というのは人間の罪深い性質そのものです。それは主が求めておられるものとは対極にあります。

私たちが主のみ心を求めるというときに、全て受身で「示してください。教えてください」という祈りになるかもしれません。
しかし、それは誤りです。祈りとともに、踏み出すことが必要です。これは滝元明牧師が甲子園のメッセージでも語られていたことですが、ヨシュアとカレブをリーダーにイスラエルの民がヨルダン川を渡っていよいよカナンの地に入るとき、祭司たちがヨルダン川に一歩踏み込んだときにその川が真っ二つに裂けました。「踏み込む」という人間側の主の促しに対する応答がなければ、主のわざは働かなかったのです。私たち人間はただ安全・安心を受け取るだけでなく、主のみ声を聞き、一歩踏み出さなければなりません。そうしたときに、主がさらにその道を明らかにされます。
道が誤っていれば正されます。誤りを正すへりくだった心も重要です。しかし、恐れから、安全を得たいために踏み出さないことが最も悪い事です。

そして最後になりますが、実は二〇二四年に向けてのみことばとして、私は第一サムエル記の十五章二十二節・二十三節のみことばを語らせていただきました。

“するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」”

これはサウル王が主の霊を失った直接的な原因となった場面の記述です。聞き従うこと、聞き従わないことの対比があり、今日の主題とも共通するみことばではないでしょうか。

主ご自身が、一人ひとりに託されているものをもう一度受け取りましょう。使命を果たす生き方をしていきたいと思います。主の喜びの中に入れられる。これが私たちクリスチャンの到達するべき点だということを、もう一度念頭に置いて、この二〇二四年残りの期間も、私たち一人ひとりが主から預けられたもの、タラントであれミナであれ、精一杯発揮して、忠実に主のしもべとして役割を果たしていきたいと思います。

お祈りさせていただいて、終わりにさせていただきます。

愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日、みことばによって、私たちがそれぞれに託されている使命があることをもう一度受け取らせていただきました。この地上にあって、私たちはそれぞれに苦しみを抱え、悲しみを抱え、困難を抱えています。また、この世や国家という、私たちの一見、力の及ばない領域においてもたくさんの大きな課題があります。
しかし私たちはそのような中で一歩一歩、主から預けられたものを精一杯主のために用い、神の国の拡大のために用い、責任を果たします。そして何よりも主がそれを喜びとしてくださり、また私たちがそれぞれ主と顔と顔を合わせ、天において清算の場面を迎えるときに、「よくやった、良い忠実なしもべだ」と声をかけられるような忠実な歩みを私たち一人ひとりがしていくことができるように願います。
そのために神のことばが必要です。また、聖霊さま、あなたの助けが必要です。私たちにはこの世の惑わしがあり、また悪魔悪霊どもの悪しき働きがあり、私たちを神のことばから離し、あなたご自身から離そうとする大きな戦いがあります。どうか主よ、私たちに力を与え、また聖さを与え、そして大いなる主の喜びを与えてくださいますようにお願いします。
私たちは主の喜びとともに、さらに主の喜びをこの地上でも精一杯用い、拡大し、そして最終的な勝利の喜びに加えていただけるように、一歩一歩、この地上の歩みをしていくことができるように願います。お一人お一人をどうか支えてください。
この新城教会に連なるすべての兄弟姉妹にあなたが与えられている、主の働きのための大いなる祝福を二〇二四年注いでください。また私たちの側としては、この二〇二四年、最後まで主の使命に生きる生き方をしていくことができるように新たな油注ぎを与えてください。
今日この時を感謝し、またすべての栄光をあなたにお返しして、救い主イエス・キリストの名前によってお祈りをお捧げいたします。アーメン。