主の使命に生きる 2024

2024年6月16日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

マタイの福音書 25章21節

“主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”

ハレルヤ。おはようございます。二〇二四年も六月の後半に入ります。皆さんは、この二〇二四年、どのように歩んでおられるでしょうか?

これまでにも報告されていますが、先月は結婚式と婚約式がそれぞれ祝福の中で行われました。また今月のあたまには、ひとつのご家庭に新しい命が無事に誕生しました。
また、週報の祈りの課題をご覧いただきますと、さらに別のご家庭に命が与えられ、お産を控えていらっしゃいます。教会に連なる兄弟姉妹に喜ばしい出来事が続いていることを心から感謝します。守りと祝福をお祈りしましょう。
この教会では、時代や社会に逆行して多くの新しい命が与えられています。これは非常に大きな祝福と勝利です。主に感謝し、栄光をお返しします。

それでは本題に入らせていただきます。今日はマタイの福音書の二十五章二十一節を主題にみことばを学んでいきたいと思います。もう一度お読みします。

“主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”

これは有名な「タラントのたとえ」の一部です。少し長いですが、その全体をお読みしたいと思います。マタイの福音書二十五章の十四節から三十節。

“天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』”

マタイの福音書は二八章までですので、二十五章は終盤に当たります。ひとつ前の二十四章と二十五章は世の終わりについて語られている場面です。そして、特に二十四章の後半からは、「主の日」は突然やってくるという文脈で話が進められます。
二十五章でも、タラントのたとえの前に「花婿を待つ十人の娘」のたとえが語られています。その主題としては「目を覚ましていなさい」また「備えていなさい」という点で、それを教えるためのたとえ話となっています。

その後、タラントのたとえという流れになります。一連の文脈の中で、「備えている」という点において、より詳しく話されているのがこのタラントの例えだということです。信仰者にとって主の日に備えるとはどのようなことであるのかを教えています。

たとえ話の物語を初めから少しずつ見ていきたいと思います。まず、物語の構成として、旅に出る人がいて、その人が自分のしもべたち三人に財産を預けます。それぞれに五タラント、二タラント、一タラント各々の能力に応じて預けました。
その後長い期間があり、その後に清算の場面があります。その清算に際して、しもべたちに対する主人の評価が描かれています。

ご存じの方も多いと思いますが、タラントというのは当時のお金の単位で、一タラントは六千デナリに相当します。デナリというのは、当時の一日の賃金でしたので、現代においては一万円と考えるとわかりやすいです。一デナリを一万円とすると、六千デナリは六千万円です。つまり一タラントは六千万円。五タラントなら三億円、二タラントでも一億二千万円になります。非常に大きなお金であるということがわかります。意味もなくこの様な大金を例え話に組み入れないと思いますので、やはりそれ相応の適切な解釈が必要ではないでしょうか。
この物語の中では、タラントを預ける際に主人はしもべたちに「これで何かをしなさい」と言ってはいません。しかし、二人のしもべはすぐにそれで商売をして、五タラントを十タラントに、二タラントを四タラントに増やしました。一方で、別のしもべはその預かったものをただ地中に隠しました。

もし皆さんが三億円を預かったらどうしますか?三億円という大金は、やはりそれを以て何か、事業を始めたり、大きな計画のために使おうと考えるのが自然ではないでしょうか。それをただ放置しておくには勿体無い額だということは、現代の我々でも持ちうる感覚ではないでしょうか。預かったものを用いるという前提は発生するような額ではないかと思います。
続けて見ていきたいと思いますが、十九節に「かなりの時がたってから」という前置きが合って、清算の場面があります。この「かなりの時がたってから」というのも大きなポイントとなってきます。

それぞれのしもべに対する主人の評価はどのようなものであったでしょうか。五タラントを預かったしもべが進み出て、もう五タラントを儲けたと報告した時、主人は「よくやった。忠実なしもべだ」と言いました。預けられたものを用いてさらに儲けるという行為は、主人の目にかなっていたということになります。そして、「わずかなものに忠実だったから多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と語られます。
一方、ただ地中に隠していた者はどうだったでしょう。二十四節を見ると、そのしもべは主人に対して、「あなたは蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める厳しい方だ」と言っています。これはこのしもべの考えであり、真実ではありません。後にしもべは自分のこの言葉によって主人に裁かれることになります。
二十五節では、主人に対する誤った評価のもと「怖くなった」と言っています。恐怖という動機のみで、この預かった金を「地中に隠す」という行為を選んだことが描かれています。
また、二十六節には、それらに対する主人の返答があります。二十一節のねぎらいと評価の言葉とは正反対に、「悪い怠け者のしもべだ」と言われます。「怠ける」という状態は「悪い」という評価になっています。
先ほどふれましたが、二十四節でしもべ自身が放った言葉によって、主人はさばきます。「私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。」
ここで銀行と訳されているのは、当時の両替商・高利貸しのことです。
仮にしもべの考えが正しかったとしても、その考えに基づいて、預けるべきところに預ければ利息が伴ったわけです。しもべはそれすら怠りました。ここに大きな叱責があるわけです。

二十八節以降、結論部分ですが、一タラントのしもべは、預けられたタラントさえも取り上げられ、それは十タラント持っている者に与えられました。
そして二十九節と三十節では「誰でも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」とあります。

主から与えられたものを有効に用いることが非常に大事であり、それを用いない者に対しては、非常に厳しい評価が下されます。与えられているものまで取り上げられてしまいます。

このタラントのたとえをより大きな枠組みでさらに受け取っていきたいと思います。はじめにみた様に、二四章、二五章は世の終わりについて語られている場面です。「主人が帰ってくる」、「かなりの時が経ってから」、「精算」という描写をみても、イエス様の再臨が思い起こされます。このたとえ話の教えを私たち自身にどの様に適用できるでしょうか。今は西暦二〇二四年で、イエス様の時代から地上的にはかなりの時が経っています。その期間に、主から委任を受けた、タラントを預かる私たちクリスチャンは、どのように歩むべきでしょうか。やがて私たちも清算の場面を迎えます。本来それはクリスチャンにとっては喜ばしい時です。しっかりと主の使命を果たした者には、二十一節にあるように「よくやった、忠実なしもべだ」という声がかけられます。私たちも主の前に顔と顔を合わせて受け取りたい言葉です。この忠実なしもべに対する報酬は、「多くのものを任せよう」とあるように、金品ではなくより大きな責任です。地上的な観点からは理解しにくいかもしれませんが、主の報酬はより大きな責任です。
最終的な清算の場面に限らず、地上における私たちの主のための働きにおいても、より忠実な者はより多くのものを任されるという神の国の原則があてはまるのではないでしょうか。
「主人の喜びをともに喜んでくれ」という表現は、日本語ではどこかぎこちないですが、原文で見ると、「主人の喜びの中に入れ」というシンプルな表現です。
私たち自身の思いや喜び、達成感ではなく、主の喜びを受け取ることが大事です。主の視点にたつこと。地上の価値観ではなく、神の国の価値観で物事を評価するべきです。

一タラントのしもべのように、私たちも時に、「これをしなければ裁かれてしまう」とか、「従わなければならない」という負のモチベーションで行動することがあります。それは誤りです。私たちが主を「おそれる」とは、「恐怖」、「怖い」ということではなく、「畏れる」です。主に対して畏敬の念を持って、その教えに従って歩むということになります。しもべは、その前提が誤っていました。彼の動機づけは、「怖い」でした。預けられたものを失う恐怖のみに縛られ、「失わない」という彼の中の一番の目的を達成する「地の中に埋めて隠しておく」という方法を選んだということになります。

「悪い怠け者のしもべだ」とあるように、「怠惰・怠ける」という行為は、主が最も嫌われるものであると言えます。私たちは、出来ない事や失敗、間違いをあまりにも恐れている部分があるのではないでしょうか。しかし、間違いは誰にでもあります。至らないところは誰にでもあります。それは主が一番ご存知です。それら自体が悪いのではなく、それらを恐れ行動を起こさないこと、使命を果たさないことが悪い事です。

ルカの福音書にもマタイのタラントのたとえと非常によく似たとえがあるのを皆さんご存知かと思います。ルカの福音書十九章に「ミナのたとえ」があります。多くの共通点とともに、いくつかの相違点もありますので、その相違点を中心に学んでいきたいと思います。