「父の無条件の愛」

2021年5月30日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

ヨハネの手紙第一 3章1〜2節

『私たちが神の子どもと呼ばれるために、‐‐事実、いま私たちは神の子どもです‐‐御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』

 

ハレルヤ!感謝します。いつも私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に心から感謝します。今までインターナショナルの中に神さまの守りと祝福がありました。本当に皆さんのとりなしを感謝しています。この今のコロナウイルスの中でいろんな兄弟姉妹の働いている会社は何人も感染が出ましたが、インターナショナルのメンバーたち、またその家族も守ってくださって、本当に感謝します。では、メッセージに入ります。

 

ヨハネの福音書は、マタイ、マルコ、ルカとは異なった福音書です。なぜならこのヨハネの福音書は、主と愛された弟子、ヨハネとの間にあった親しい関係を感じることができるからです。そしてこのヨハネの福音書は最も父のみ言葉について書かれている福音書です。そしてイエスさまと天の父との関係について多くのことが書かれています。

また、次のような様子を多く表現しています。例えばイエスさまが父なる神さまに祈ったことや、「父が行った業をわたしは行います。」とイエスさまが言われたり、「父がわたしに言われたことをわたしは行います。」と言われたりしました。「わたしは父の家に行きますが、あなたがたを見捨てたりはしません。」とも言われました。

このように、父との関係とのことについて多くの箇所があります。そしてヨハネ十七章には、とりなしの祈りを見ることができます。そこでイエスさまが祈ったことは、「父よ、彼らがあなたを知ることがわたしの願いです。」と言われました。そして「わたしの使命は彼らがあなたを知るようになることです。」と言われました。

 

それで、今お読みいただいた第一ヨハネを見ていきますと、父なる神さまの愛について非常に多く語っていることがわかります。そこでは父の愛というものが、どんなに現実的なものであるかということを語っています。父の愛が、ヨハネ自身の人生の中に非常に現実的であったことを示しています。それがイエスさまの人生に現れたのと同じくらい現実的だったことが書かれています。

そして、それは世が私たちを神の子どもと呼ぶためだけでなく、私たちが神の子どもであるという確信をもって歩むために父の愛について多く語っているのです。なぜなら、あなたが神の愛の確信をもって歩むとき、人生が変わるからです。あなたの働きが変わるからです。それは純粋に神に夢中になって生きる人生です。第一ヨハネ四章十六節をお読みしたいと思います。

 

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』

 

ここには、私たちは神の愛を知り、信じたと書いてあります。あなたは神さまがあなたを愛していることを頭ではわかっていると思います。しかし神さまがあなたを愛しておられることを心で感じなければなりません。頭ではなくて心で分からなければなりません。そしてその神の愛が現実のものであるということを知らなければなりません。それはただ聖書に書いてあることではない、自分で感じることができるものだということを知らなければなりません。そして神はうそをつかない方ですので、私たちを愛しているといえば本当に愛しておられるのです。

 

今お読みした箇所で、ヨハネは、「私たちは神の愛を知り、信じた」と言いました。これについて少し掘り下げたいと思います。

 

あなたは教会に仕えることができます。教会の中にいることができます。何年も教会で過ごすことができます。それが「神を知ることがなくても」です。「牧師さん、それは馬鹿にしていますよ」というかもしれません。しかし、これは聖書的なことです。例を挙げて見ていきましょう。

第一サムエル記二章を見ますと、ハンナが自分の子サムエルを宮に連れて行く場面が書かれています。ハンナはサムエルが乳離れした時に宮に彼を連れて行きました。なぜならハンナは神に誓願をたてたからです。ハンナには子どもができませんでした。彼女は神さまにこうお願いしました。「もし男の子をくださるなら、あなたにその子を捧げます。あなたに仕えさせます。」というものでした。ですから彼女はその約束を果たし、サムエルを宮に捧げました。

二章を見ますと、その子は成長し、エリと共に昼も夜も宮で仕えていたと書かれています。そして三章を見ると、神がサムエルを呼び始めます。神さまはサムエルを四回呼ばなければなりませんでした。神さまがサムエルを呼ぶ時に、サムエルは何をしたでしょう。彼はエリの所に走っていきました。なぜでしょう。サムエルは自分の牧師のような存在であったエリとは親しい関係にありましたが、神とは親しくありませんでした。牧師であるエリの声は知っていましたが、神の声は知りませんでした。

三回目まで、神さまがサムエルを呼んだときに、エリは「私は呼んでいない。」と彼に言いました。そして三回目に神さまがサムエルを呼ばれると、エリは「それは神さまが呼んでいるのだ。」とサムエルに言いました。その理由が後の節に書かれています。

 

『サムエルはまだ主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。』

 

サムエルのように、あなたは教会にいることができます。神に仕えることもできます。何年も奉仕をすることもできます。しかしサムエルのように神を知らないということがありうるのです。

 

他の例をあげます。あなたは熱心な宗教家になることができます。神を知らないままで。

ピリピ人への手紙三章を見ますと、そこにはパウロの履歴書が書いてあります。三章を読みたいと思います。ピリピ人への手紙三章五節後半〜八節、

 

『きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、』

 

このようにパウロは何年もパリサイ人として過ごし、宗教家でしたが、本当の意味で神さまを知りませんでした。ですからパウロがダマスコでイエスさまに出会ったときに、彼はこう聞きました。「あなたはどなたですか?」と。彼は神さまを知らなかったのです。そしてイエスさまが現れた時に、彼はすぐに倒れました。そしてその日からパウロの人生は変わったのでした。

 

また、ほかの例をあげましょう。あなたは素晴らしい神学者になりえます。最も優れた神学校の博士にもなりえます。自分の好きな学校で、人生の全てをかけて神学を学ぶこともできます。博士号をいくつも取ることもできます。そして教師となることもできます。しかし、神を知らないということがありうるのです。

ヨハネ三章には、ニコデモが登場します。彼は神学者であり、宗教家でした。彼は夜隠れてイエスさまのところに来ました。それは誰も彼を見ることがないようにです。ニコデモはイエスさまにこう言いました。「先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた方であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるしるしはだれも行うことができないからです。」と言いました。つまり、「イエスさま、私は衝撃を受けました。私もあなたがしていることをしたいです。どうすればいいですか?」という意味です。

イエスさまはニコデモにこう言われました。「あなたは新しく生まれなくてはなりません」と。ニコデモは、「私が?どのようにしてですか?もう一度母の胎に入って生まれるのですか?」と聞きました。そこでイエスさまは興味深いことを彼に言います。「あなたは神学の教師なのにわたしの言っていることがわからないのか?」と。ニコデモは本当の意味で神さまを知らなかったのです。

 

別の例をあげますと、あなたは神のことを知らなくても、聖人のようになることができます。ヨブの例を見ていきましょう。ヨブ記一章一節、

 

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。』

 

ヨブが試練を終えたとき、本当の意味で知らなかった神に出会ったことを語っています。ヨブ記四十二章五節、

 

『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。』

 

彼はただ「聞いたことがあった」だけでした。しかし今、彼は自分の目で神さまを見ることができたのです。

 

神はあなたが神学的な観点から神さまを見ないでほしいと願っています。そして神の愛が現実のものであるということを認めて欲しいと願っています。

父なる神はこう仰います。「わたしがあなたを愛していることをただ信じるのではなく、あなたの心でわたしの愛の火を感じて欲しい。」と。「なぜなら、わたしはあなたを愛する父である。あなたが前進するのを妨げる、すべてのものを取り除きなさい。そして勝利の生活をしなさい。クリスチャンとしてよい生活をしなさい。」と言われます。神さまは私たちの心の中にその愛を現したいと願っています。神さまは本当に良い父であるからです。

 

ここで神の愛の側面をお伝えしたいと思います。あなたがより深く理解するためです。

 

第一に、「永遠の愛により私たちを愛された。」ということです。エレミヤ書三十一章三節、

 

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』

 

父なる神の愛とは、何か即席のものではありません。あなたがイエスさまを救い主として受け入れたときに芽生えたものではないのです。神は永遠の昔からあなたを愛しておられたのです。神はあなたを夢見ていたのです。「私ですか?」とあなたは言うかもしれません。あなたが信じなくても、神さまはあなたのこと夢みていたのです。ですからあなたは今ここにいるのです。たぶんあなたは偶然にここに存在すると思っているかもしれません。たぶんあなたは自分の両親の不注意でできた子どもだと聞かされていて、それを信じているかもしれません。しかしそうではありません。神さまは両親の油断をも使ってあなたをこの地上に生まれさせたのです。全く違う意味です。あなたは生まれました。そして今生きています。それは神があなたを永遠の愛で愛してくださっているからです。それを信じますか?これはあなたにある神の永遠の愛です。

 

二番目に、「神の愛は、決して見捨てることはありません。」そして、いつもあなたの行くところにくっついているのです。イザヤ書四十九章十四〜十六節、

 

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』

 

ここで一つの例を神があげておられます。「女が自分の産んだ子を忘れるだろうか?」と。この質問の答えは絶対にNOです。母親は自分の産んだ子を忘れることはありません。今日、道端に捨てられた子どもたちを世界中で見ます。その多くの子どもたちはただ神の愛により生き延びています。しかし今お読みした聖書箇所によると、たとえ女が自分の産んだ子を忘れても、「私はあなたを忘れない」と仰ってくださっています。それは私たちにはとても朗報です。神さまは私のことを忘れることはありません。この世界の何億人という人の中でも忘れないのです。