『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自分がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。・・・夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』

ここで語られるように、家庭の中では夫という存在が、キリストが教会を愛された愛と同じように自分の妻を愛する、そして妻は、教会がキリストを愛し、キリストに従うことに倣って自分の夫に従う、そうすることによって良い夫婦関係が形成されると教えているわけです。
このようにクリスチャンの夫婦は、自分たちを結婚するように定めてくださった神さまがいかに素晴らしい方で、いかに愛に満ちた方であるかということを、夫婦生活の中で味わい、それをこの世に対して現わしていく、そういう責任があるということであります。

今日、残念なことに多くの結婚が崩壊するという不幸があります。そういう中で主にあって揺るぐことのない家庭を築くことが出来る事を世に表すのが、クリスチャン家庭に求められているわけです。

その夫婦関係の法則がキリストと教会との関係性にある法則と同じである。すなわちキリストが頭、教会はその体。頭として夫がいて体として妻また家族がいる。そういう関係だというわけです。
ある集会に参加した時に、講師の牧師先生がこんな話をしていました。今お話ししたみことばから「キリストは教会の頭、教会はキリストのからだという関係が、夫婦関係と同じ法則だと書かれています。家庭の中の主、家族の中の頭は私です。ということは私が家族の中で一番偉いのです。よく知ってください。誰も私に逆らうことはできません。…」
私は(この先生ちょっと大丈夫かな…。)と思いながら聞いていたわけですが、先生は続けてこのように仰いました。「…そして、私の妻は頭である私を自由に動かすことのできる首です。」と。なるほどそうかぁと思いました。
皆さんのご家庭でもそうだろうと思うのですが、私も家庭の中では主としての存在をなんとか保たせていただいているわけですけど、家内も私に色々お願いをしてくるわけです。「パパ、ご飯を三合炊いて。」とか、「洗濯物取り入れて。」とか、「子ども迎えに行ってあげて。」とか、なんでも言ってきます。私はその度にできる限り「はーい」と言って従うわけです。家内が、「はい、こっち。はい、あっち。」と言ったら、子どもたちは「え~~、面倒くさい」と言って従わないときがありますが、夫である私は「面倒くさいからやらない。」と言うことはできません。ちゃんと従わないといけないのです。もちろん家内も私が疲れてないかな?大丈夫かな?と、配慮してくれています。「おまえの命令になんか従えん!」と言ってしまったら、夫婦の関係性は首切り分断されてしまいます。家族は自分の体として大切にし慈しむのが頭である夫には要求されますし、妻はたとえ私のように出来の悪い夫であってもその夫を立てて従っていくことが要求されるわけであります。
もちろんクリスチャンの家庭であっても、この世にあって様々な誘惑があったり、困難に直面したり、夫婦関係の危機に出くわすこともあるかもしれない。そういう時にこそ、私たちはみことばに返って、信仰によって、神さまにより頼んで、力を合わせて乗り越えていかなければなりません。
初めにお読みしたみことば、ヨハネの福音書四章十九節には、このように書かれていました。

『私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。』

社会には、どうしても必要なものとして「愛」があります。愛が必要です。互いに愛し合う。そこには労りあいがあったり、優しさがあったり、相手の側に立った物の見方があります。寄り添い、分け与えることもあります。ある時には尻を叩いたり、背中を押したり、時には先に立って引っ張りあげるという、そういう関係性が社会の中には必要です。
そのような社会の中での、愛の人間関係の一番基本にあたるものが夫婦関係そして家庭にあるわけです。夫婦の中、家族の関係性の中で、私たちはそのような心持ちを育まれ養うことができるわけです。
そのような愛も、ここまで学んできたように、人間側から出るものでは不十分です。みことばにあったように、神さまがまず私たちを愛してくださった、その愛を受けるところから始まるのがまず必要なことなのです。まさに“愛され、愛する”という、今日のメインタイトルであります。

新約聖書が初めに書かれた時、皆さんもご存知のように、ギリシャ語で書かれました。そしてよく言われることでありますが、ギリシャ語には日本語の「愛」にあたる言葉が四種類あります。
一つは、よく耳にされることのある言葉だと思いますが、「エロス」です。これはいわゆる“恋愛”の愛です。
そして二番目に「ストルゲー」という言葉があります。これは“家族愛”。
そして三番目の愛、これは「フィレオ」、これは“友達同士の愛”。
この三つは、人間関係の中での「愛」という意味で用いられます。人間同士の愛です。
聖書には究極の神の愛として四番目の「アガペ」という言葉を用います。これはどういった愛かというと、“無条件の愛”、“一方的に与える愛”です。
これをある人が“『・・でも』の愛”そして人間の愛は、“『・・だから』の愛”だと表現しました。分かりやすく言うと、“『・・だから』の愛”は「あの人は優しいから・・、親切だから・・、自分の肉親だから、私は愛します」そういう愛だということです。「私がこれだけしてあげたから応えてくれるはず。」という、そういう期待感が心のどこかにある。そういう種類の愛だと言うのです。
しかし“アガペ”神の愛、“『・・でも』の愛”とは、例えば、「この人は私にこんな意地悪をした・・、性格も合わない・・、でもこの人を愛します」というような、自分にとってメリットはない、でも愛する。神さまの愛というのは、“『・・でも』の愛”だというわけです。私たちが神さまの前でどんな状態であっても、「あなたを愛しているよ。」と言ってくださる、そういう愛だと言うのです。
この方をもし心にお迎えすることができたら、どんな時にも、たとえ私たちがそうと気づかない時でも、いつも共にいて人生を支え助けてくれる。そういう愛、これが神の愛、アガペの愛です。
生まれたばかりの赤ちゃんにはお母さんが注ぐ愛に対して何かを返すということはできません。もう一心に愛を受け続けるだけです。同じように神さまは私たちに対して、まず愛を注いでくださったと聖書は教えています。

教会に立っている十字架は、イエスさまが私たちを愛された愛の象徴です。時間の都合で今日は詳しく学ぶことができないのですが、今日のメインのみことばになっている第一ヨハネの手紙の四章、まず神さまが私たちを愛してくれたその愛は、十字架の上で現されました。十字架の上で私たちの犯した罪の贖いの代価として神のひとり子が死んでくださった、この時に現されたアガペの愛こそが、私たちを救い、それだけじゃなくて人の愛の源になっているという事をイエスさまを信じると知ることができる。そのことが第一ヨハネの手紙の四章全体にも書いてあるので、家でまた読んでいただきたいと思います。
このイエス・キリストを信じて、神さまの元に行く中で、その愛を私たちは実際に受け取ることができます。蛇口があっても、水が供給されていなければいくらひねっても水は出ません。水源に繋がって初めて、ひねると水が出る。同様に愛は私たちの内から溢れ出すことは難しい。私たちの内側には愛が満ちていないのですが、愛の源である神さまと出会って神さまの愛を知って、神さまの愛に生かされる時に、愛が生まれ流れていくことができるわけです。
そして、神さまが私たちを愛してくださったのは、救われた私たちが教会で互いに愛し合う歩みをし、神さまを認めることができない世の中に、教会を通して神さまの存在と愛が現されて、この世が神さまを知る、そのためのものであります。
教会の私たちの交わりが、そのように神さまを愛する愛で満ち溢れたものとなっていったら本当に素晴らしいです。私たちはそんなに立派な者ではありませんので、つまずきやすいですし、失敗しやすいですし、時々うまくいかないようなこともあるかもしれません。しかし、教会にいる私たちそれぞれが、そういう弱さの中にありながら、なおも愛してくださる。そういう神さまの無条件の愛を知って、その神さまの恵みによる歩みをしていく。そういうことを通して神さまの存在、また愛がこの世界に対して示されていくのではないかと思います。教会を通して神さまの愛が世に現れる。そういう天のみ国のような場所となったら素晴らしいと思います。

皆さんに伺いますが、どうでしょうか。教会は好きですか?教会に集まることは好きですか?なぜ毎週日曜日に皆さんが貴重な時間を割いて、せっせと教会に来ているのでしょうか?教会で過ごす時間が楽しいからですよね。神さまに賛美をささげたり、お祈りをささげたり、みことばに耳を傾けるということが、私たちの心を潤わせ、励まされ、あるいは癒され、一週間の第一歩を踏み出す元気をもらえるから教会に来ているのではないでしょうか。ここに神さまの愛が注がれているから、神さまの愛に触れて、同じように造られた兄妹姉妹との交わりの中に、この世で、ここでしか味わえない神の愛、アガペの愛の恵みがあるから私たちは教会に集うわけです。
そしてこの味を知ってしまったら、私たち、他の日曜日の過ごし方というものを考えることができなくなるわけであります。

メッセージの最後に、この「愛」教会の中に満ち溢れている神さまの愛は、具体的にどのようなものなのでしょうか。ということについて一つお話をして終わりにしたいと思います。これは大切なことですのでよく聞いていただきたいと思います。
それは、先ほど全員で唱和しました『主の祈り』の中で書かれている一節にあります。『主の祈り』とは、イエスさまが弟子たちに対して、祈り方の模範として教えられたことばです。今一度出していただいて読んでみたいと思います。マタイの福音書六章九節〜十三節に書いてあります。これは文語体で書かれている主の祈りです。

天にまします我らの父よ
願わくは御名をあがめさせ給え
御国を来たらせ給え
御心の天になるごとく 地にもなさせ給え
我らの日用の糧を 今日も与え給え
我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく
我らの罪をも赦し給え
我らを試みに会わせず 悪より救い出し給え
国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり
アーメン

ここに書かれている中で『我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 我らの罪をも赦し給え』この一節、どの祈りも重要なのですが、ここがとても重要です。『主の祈り』はマタイの福音書六章九節から十三節までですが、イエスさまはこの祈りを教えられ、これに続いてこのように語られました。六章十四節と十五節、

『もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。』

このように、『主の祈り』をイエスさまが教えられて、続いて十四節、十五節に『主の祈り』の中で語られたのと全く同じことを繰り返されました。その場所にいた弟子たちに念を押すように今一度「人の罪を赦しなさい。」と語られたわけです。
この「許す」という行為こそ、“「・・でも」の愛”なのです。これこそがイエスさまが十字架の上で現された愛の本質であります。
私たちは罪人として神さまの前に生きて、滅びの道を歩んでいたものでありますが、教会に来て、イエスさまを信じる信仰によって救われた者です。言い方は悪いかもしれませんが、赦された死刑囚の集まりのような、それが教会です。罪のゆえの滅びの刑罰を免れた。それだけではなくて、神さまの家族の中に迎えられたという、とんでもない愛を与えられた者たちが、その愛で互いに愛し合いながら生きていくという、そういう場所であるわけです。皆さんそのことを信じておられますか?もっと大きい声で言ってみましょうか。皆さんこのイエスさまの愛を信じておられますか?アーメンですね。皆さん、是非そのことを受け入れて、この救いを与えられた神さまに感謝しましょう。
そして、たとえあなたのことを悪く言う人でも、あなたが挨拶をしても返してくれないような人でも、たとえ冷たくあしらわれても、裁いたり、憎んだりせずに、祝福を祈りましょう。それを主が喜んでくださいます。赦しこそ神さまがここにいる皆さんに示された愛であります。それと同じように、父があなたを赦してくれたように赦しましょうと、聖書は私たちに教えています。