神さまがイスラエルの民に会うためにシナイ山に降りてこられた時、そして神の契約を啓示されたとき、皆さんは覚えていますでしょうか?神がイスラエルの民に会うために出てきたとき、シナイ山が激しく震え、山が雲に包まれ、稲妻があり、大きな音がしていました。それはまるでシナイ山が今にも噴火しそうな、火山になったかのような光景でした。それはあまりにも恐ろしい光景であったので、神さまが会いに登ってくるように命じられても、イスラエルの民たちは怖気づき、モーセにこう言いました。「モーセ。あなたが行って神と話すように」とお願いしました。なぜなら目の前の光景が恐ろしく、神さまへの信頼よりも恐怖が勝ってしまったのです。
そして唯一神が許された人、また勇敢に神を求めて山に登ったのがモーセでした。彼は勇敢にもその山に登って行きました。立ち込めた雲や角笛が非常に高く鳴り響く、壮大な景色の中、歩きました。
もし私がモーセの立場であったなら、危険な目に遭いたくないと思ったでしょう。それほど死の危険があったのです。しかしモーセはこう言いました。「この光景は神への尊敬という恐れを私に抱かせるものだ。私を呼んでいる方を私は信頼している。だから危険を冒しても行こう。」そうしてモーセは山に登ったのです。
へブル人への手紙には、とてもおもしろいことが書いてあります。ここにはこの時、モーセがどのように感じていたかが書かれています。ここには、モーセが神さまと話していた時、足から頭まで震えていたと書かれています。へブル人への手紙十二章十八〜二十一節、
“あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。”
モーセはこのとき四十年間荒野にいて、神さまとの交わりを十分に持っていました。神さまからみことばを受けたり、導きを受けたりしていました。それにもかかわらず、今まで見たことのない光景に、「私は恐れて震える。」と言ったのです。言い換えれば、「神さまあなたは、私の想像をはるかに超える方です。」と言ったのです。
それでモーセがそこに立って命の危険にあっていた時、火の中で、雷鳴が今にもモーセを引き裂きそうな状態の中で、彼はこう思いました。「どのようにして私がここにいるのかわからない。しかし私はここいる。そして私の中の声がこう言う。」と言っています。「このすべてのこと、私を恐れさせる光景の背後には、宇宙のどこよりも安全な場所が私のためにある」と。そしてある時点でモーセはこう言いました。「主よ、霧と雷の向こう側へ私を連れて行き、そして私にあなたが本当にどんな方か教えてください。」
これが神の心を動かし、神はモーセにこう言いました。「モーセよ。私はあなたを祝福し、あなたを助ける。あなたと共に行く。あなたはこの民を連れて登れ。」
そしてモーセは答えて言いました。「いいえ、主よ。もしあなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、約束の地に上らせないでください。私に私がどんな方といっしょに行くのかを教えてください。主よ、あなたの顔を見せてください。」とモーセはお願いしました。
すると、主はモーセに仰せられました。出エジプト記三十三章二十一〜二十三節、
“また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」”
「なぜなら人はわたしの顔を見て、なお生きていることは出来ないからだ。」と主は言われます。「しかしわたしはあなたを喜ばせよう」と。「わたしの手であなたを覆っておこう。わたしの恵みの手であなたを覆う」と言われました。「そしてわたしが通り過ぎたらわたしの手をのけよう。そのときあなたはわたしの後ろは見るが、わたしの顔は見ない。なぜなら、わたしはあなたには生きていて、役割を果たして欲しいからだ」と、主は言われました。
神はモーセにご自身の恵みを現すことを熱心に望まれました。そしてモーセの前に姿を現してくださったのです。それは神さまの栄光をモーセが喜ぶためでした。そして神がどんなお方であるかということを示されるという目的もありました。
この経験の後、モーセは変わりました。神さまの恵みを知る、体験するということはものすごいことなのです。神さまは勢力の強い台風のような方で、恐れるべき方です。しかし神の恵みはまるで台風の目のようであります。神に信頼を置く人々にとって、避難できる穏やかな場所です。そこに恐れと信頼にバランスが取れるのです。これを理解している人は、毎日神の恵みの中へ走って避難します。放蕩息子のように、です。
放蕩息子は罪の中に沈んでいました。しかし彼は父の家の食卓はいつも食物であふれていたことを思い出します。そしてリスクを取り、父の家へ帰ることを決断します。「私は相続財産を散財し、浪費してしまった。今父の元には何も残っていない。なぜなら全部売って、死ぬ前に財産を分けるよう、私が強要したからだ。私が父の家に戻ったなら、待ち受けているのは愚かさのゆえの激しい痛みだろう。しかし私に対する裁きを私が恐れようとも、あの父の心には他の思いがあることも分かっている。父の心には、どこにもない優しさがあり、私はあわれみを持って扱われるだろう。だからあえてリスクを取り父のもとに帰ろう。途中、裁きが私を打ったとしても、父の恵みを受けるために帰ろう」と言いました。
神さまの元へと走って行くとき、驚くことが起こります。それは神さまがその人の元へもっと早く走ってこられるのです。聖書には、この父親は、金持ちであり、中年の男性であり、上等な着物を着てエレガントな紳士でしたが、その息子が会いに戻ってくるのを見ると、気がふれたように立ち上がり走って出て行き、息子の元へ会いに行ったのでした。なぜなら神の恵みを引き付ける人が存在するのです。それは、神さまを信頼することを決心した人であり、何があっても神さまの心とつながっている人です。
一つの聖書箇所を読んで終わりにしたいと思います。ゼパニア書三章十七節、
“あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。”
これが私たちの礼拝する神さまなのです。もしあなたが神さまに、何が一番の喜びですか?と聞くなら、神はこう答えるでしょう。「わたしを信頼するものを救い、わたしを待ち望む者を落ち着かせ、わたしがいやすのを待っている者のことを歌うことである」と。神さまの一番の喜びというのは、「わたしを心から愛する者のためにギターを取って、その人のために歌うことだ」と言われます。
私は若い頃からこのみことばにとても惹かれました。教会の事務所で、仕事をしていると、私の事務所の隣が開先生の部屋になるのですが、彼は時々ギターを取って演奏しています。大きな声で弾いて歌っています。それがあると時々仕事ができないのですが、しかし私はそれを見る時に、彼の神様に対する愛を見ます。時々ギターを取って歌うのです。
神さまもこういう行動をされるのかな、と私は想像します
神さまが私たちを見て、私たちが神さまを愛していることをみると、神さまも自分のギターを取って喜びながら歌っているのではないかと想像します。ここには神さまを愛する民がいるからです。
私は新城教会の皆さんに向けてこれを語っています。神さまの恵みを人生の中に引き寄せたいのなら、二つの事が神さまの恵みを引き寄せることを覚えてください。神さまに誠実な者になること。そして一番辛い時に神さまに信頼を置くことです。
それではお祈りしましょう。
主よ、今日のみことばを感謝します。そして私はあなたのものであることを宣言します。今までの私の煮え切らない態度を赦してください。また不誠実があったら、それを赦してください。
しかし今日、私はあなたを私の神として、救い主として信じます。あなたこそ最終的な決定権がある方です。主よ、私の心を変えてください。あなたを求める心を与えてください。あなたへの愛による恐れの心と、信頼する心を与えてください。
主よ、あなたに信頼します。あなたの手の内にある家族のことも信じます。あなたを待ち望む決心をします。今日、あなたの恵みを引き寄せるために、心を捧げます。そのために心の底からあなたを愛することを決心します。すべてをかけてあなたを愛します。父よ、感謝します。イエスさまの名前によってお祈りします。アーメン。