2024年8月25日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド
歴代誌 第二 16章9節
“主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。”
ハレルヤ!いつも特別賛美の後に先生たちは「素晴らしい!」と言うので、僕も何か言わないといけないですかね。とても良かったです!
先ほどお祈りの時に、インターナショナル部会で今日は午後に伝道集会があるので、そのために祈ってくださいましたが、ぜひ祈ってください。今日特別なプログラムがあるので、礼拝が終わってから、いろいろなお菓子などがあります。パフェも四種類あります。ホットコーヒーやカプチーノ、ペルーとブラジルのスナックもありますので、参加したい方はぜひいらしてください。ではメッセージに入ります。
主は私に二〇二四年に向けてのみことばを与えられました。それはこの年が神の恵みの年であるというみことばでした。しかし今日は、この与えられたみことばについて深い学びをしようとは思いません。もう八月ですから。しかし今日はどのようにしたら、その神の恵みの下で生きていけるのかを皆さんと学んでいきたいと思います。
どのようにしたら、私たちが日々生活している中で、神さまの恵みがあなたを支え、守り、あなたを鍛えるのかに、焦点を当てて学んでいきたいと思います。もう一度、最初にお読みしたみことばをお読みしたいと思います。第二歴代誌十六章九節前半、
“主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。”
この箇所に印をつけてください。本の聖書であっても、携帯アプリであっても、この箇所を覚えておいてください。これはとても素晴らしい箇所です。いつも私たちは神さまを求めてこう言います。「私たちに道を示してください。私たちを新しく変えてください」と。
しかし、このみことばによると、神さまのほうが、ある特徴を持った人たちを求めていると書かれています。神さまの目はある人たちを探して全地を見渡しておられるのです。どんな人たちでしょう?
それは神さまに誠実な人です。これが今日私があなたに聞いていることです。あなたは磁石のように神さまの恵みをあなたの人生に引き付ける人になりたいと思いますか?神さまがご自分の恵みを示したくなるような人になりたいと思いませんか?それでは今日はこの聖書箇所が語っていることを注意して見ていきましょう。説明します。
この箇所というのは、アサという王様に対して予見者が語った言葉でした。アサはユダの王でした。覚えていますでしょうか。イスラエルは二つの王国に分裂しました。北イスラエルと南ユダです。このアサという王様はユダの王です。そしてこのアサは王位についてから良いことを行っていました。彼はユダの民の心が主に向かうように努めました。ユダの民が主から離れていたからです。彼は彼の治世の間、とても良い業績を残しました。
そして彼の治世の初めに、彼に対抗して多くの他国の王たちが戦争を仕掛けてきました。ある聖書の訳には、百万の軍勢がアサ王に対抗しにやって来たと書かれています。またある聖書では何千もの軍勢がやってきたと書かれています。つまり、大軍勢がユダに対して戦争を仕掛けにやって来たということです。この試練にアサ王が対峙したとき、アサ王は主に叫び求め、こう言いました。第二歴代誌十四章十一節前半、
“アサは自分の神、主を呼び求めて言った。「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。”
ここに私たちが理解するための鍵があります。神さまは、弱い者にとても関心を寄せる方です。使い捨てられたような者や、拒否された者に対して、神さまはとても関心を寄せてくださる方です。神さまがそのような不当な扱いを受けた人々をご覧になられたとき、神さまの心は特にその人々に引き付けられます。また自分が弱い者だと自覚している人、自分にはできないと自覚している人に、神さまの心は特に引き付けられるのです。ですから、アサ王がこのように祈った時、神さまの目は彼の上に注がれたのです。
先ほどのみことばの後半をお読みしたいと思います。第二歴代誌十四章十一節後半、
“私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。”
ここで何が起こったでしょうか。神さまは彼らを助けられました。聖書の中には、どのようにしてかは書かれていませんが、何か凄いことを神さまは行われたようです。そしてユダ王国は小さいながら、ものすごい軍勢に対して勝利をすることができました。
そのことがあってから三十六年後、アサ王がまだ統治していた時代、また彼は敵の軍勢と戦うことになりました。それはイスラエルの軍勢で、北イスラエル王国でした。アサ王がその試練にあったとき、彼は、「さあ、どうしたものか」と考えました。その時彼が何をしたかご存じですか?
彼は、三十六年前の戦いの時の様に神さまに叫び求めず、ダマスコの王のところに行き、こう言ったのです。「私とあなたの間に同盟を結びましょう。来て、我々の領地に留まっている恥知らずな者たちから守ってください。私たちは同盟国となりましょう。」と言いました。
そして、ここが重要な点なのですが、このダマスコの王はユダ王国にとっては敵国でした。どんな種類の協定があってそれを受け入れたのか、私には理解できませんが、ダマスコの王はその提案を受け入れました。私が考えるのは、きっとダマスコの王はユダ王国を助けた後、それを自分のものにしてやろうと図っていたのでしょう。そしてダマスコの王は同盟を結ぶと言い、戦いに出て行きました。そして軍勢を蹴散らし勝利したのです。
このことが起こった時、何が起こったでしょうか?神の予見者がこの言葉を携えてアサ王の元に来たのです。第二歴代誌十六章七・八・九節後半、
“そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです。あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車や騎兵は非常に多くはなかったでしょうか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。・・あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」”
私が今語っていることを注意深く聞いていらっしゃいますでしょうか?もしも神さまの恵みには、あなた個人のために働く力があるということを、あなたが本当に理解しているなら、あなたの人生において神さまの恵みを求めて神さまの元へ走って行ったことでしょう。試練の大きさは問題ではありません。神さまの恵みが私たちの中にあるなら、神さまはあなたの敵を根絶やしにし、あなた個人に対する試練を破棄されるからです。
神さまはあなたに力をお与えになります。私たち自身ではできない領域にも、神さまは私たちに乗り越える力を与えてくださいます。神さまの恵みがあれば、どんなことでもできるのです!ただそれが分かっていれば良いのです。
では、私たちの問題とは何でしょうか?それは私たちがアサと同じことをしてしまうということです。敵と同盟を結んでしまうということです。私たちを最終的に助けられない物事や人を頼りにしてしまうということです。私たちは状況に希望を持ったり、人に希望を持ったりします。助けて欲しい時にあてにならないものに希望を持ったりします。様々な戦いで、平和条約のようなものを結んではいけない相手と平和条約を結んでしまうのです。
神さまの恵みがあれば十分であると知っているなら、また神の恵みに一分だけでも触れるなら、戦いは終わりを迎えるのです。本来は打ちのめすべき敵が、ユダ王国と共に戦うために残されました。それはユダ王国が敵により頼み、主に呼び求めなかったからでした。
神の恵みはとても力強いものです。しかしその力はある特定の人の上に現われるものです。ですから予見者はこう言ったのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡す」と。
それではその神さまがその恵みをもって祝福されるのはどのような人でしょうか?このみことばによると、その人には二つの特徴があります。
まず第一に誠実であることです。他の言葉で言い換えるなら、神さまに対する完全な心があることです。「牧師先生、何が言いたいのですか?」と聞かれるかもしれません。「それは非の打ちどころない人たち、間違いのない人たち、罪のない人たちでしょうか?」と聞かれるかもしれません。そうではありません。
聖書がいう「完全」という言葉の意味は、神さまに対する忠誠をしっかり決めている人たちのことを指します。何があっても、何が自分の人生に来ても、神を信じ、神を求める人で、神さまを疑わない人の事です。これが「完全な心」という意味です。その人の神に対する誠実さは揺るがないものなのです。
そして第二番目に、完全に神のあわれみの御腕の中に自分を捧げている人です。たとえ人生における試練に打たれる時があっても、です。アサ王はそこで間違ってしまいました。
歴史を見ると面白いもので、後で各自調べていただいたらいいと思うのですが、アサ王は彼の最後の治世に、両足の重い病気にかかりました。聖書が記述しているところによると、彼はまず医者を信頼し診てもらうことを選び、彼を救った神に頼りませんでした。この箇所はよく調べる必要があります。同じ章の十二節に書いてあります。なぜ私たちはよく調べる必要があるのでしょうか?
なぜならこの箇所は、あなたに医学を求めるなとは言っていません。人類は医学を発展させてきました。それは特に神の聖霊によって導かれる必要がありました。そうでなければそのような知恵は人類には与えられなかったでしょう。科学というのは神が人類にその能力を与えたからこそ発展し、それによって今ある発見や発達があるのです。ですから医療技術というのは悪いことではありません。そしてここにいる全ての人がお医者様たちの手を介した手術や治療によって、神さまが病気を癒してくださったという証しできるのではないでしょうか。それは奇跡なのです。なぜならお医者様たちご自身でも数えきれないほどの治療をすることはできるのですが、しかし神さまがそのお医者様を用いなかったら、あなたは病気から回復することはなかったのです。
神の恵は神を尊敬し、神に信頼する人に引き寄せられます。二つあります。聖書は次のように言っています。「主を恐れる者と主を待ち望む者」です。この二つのことが出てきます。とても興味深いことが書いてあります。詩篇百四十七篇十〜十一節、
“神は馬の力を喜ばず人の足の速さを好まれない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。”
二つのことが書いてあります。同じ人に恐れと信頼の気持ちを持つということです。ちょっと奇妙な話ですが、どのように恐れと信頼を同じ人に持つことができるのでしょうか。私はこう考えます。
もし私がある人に恐れを抱くならば、その人のことは信頼することができません。他の人のところに助けを求めます。しかし神さまはこう言われました。「わたしを恐れ、信頼するなら、わたしの恵みはあなたと共に行く」と。
今私はあなたに神さまを味わい、信仰に生きるための鍵を与えています。神を恐れ、信頼をするということです。矛盾するように見える二つの事ですが、矛盾しないのです。
今私は「恐れ」という意味を「おびえる」という意味で話してはいません。聖書の言う「神を恐れる」という意味は、敬意や尊敬の念を言っているのです。いのちと死に力を持ち、男性でも女性であっても神と共に住む永遠へ導く力を持つ方、また神のいないもう一つの場所へ送ることができる方に対する敬意を言っているのです。神さまは正しい裁判官なのですから。
それで今ここで私が言っているのは、人があなたの事をどう言っているのかではなく、神があなたをどう言っているかなのです。なぜなら神さまこそが私たちの命に関して最終的な決定権を持っているからです。イエスさまは弟子たちにこう言われました。「からだを殺してもたましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。(これは迫害の事を言っています。)そんなものより、たましいもからだも、ともに裁かれる方を恐れなさい。」と言われました。
しかし私たちは反対の事をしてしまうのです。私たちの事を周りがどう言うかということをもっと気にします。あの人が言うことを気にします。人が自分のことをどう思うかを気にします。
主はこう言われます。「わたしの恵みは、本当にわたしを恐れる者に。わたしを敬う人に注がれる」と。神を尊敬し恐れることは、神を信頼するということになります。そしてその信頼が私たちにこれから起こりうる試練に対しての正しい視点を与えることになります。それはアサ王ができなかったことです。
今お読みした箇所のことですが、なぜ神はご自身で創造したにもかかわらず、このようなことを言われているのでしょうか。神さまご自身が馬も人も創造されました。神は馬に力を与えました。また人類に知性を与えました。それならなぜ神さまは、戦いに行く人がまず、自分たちの馬や自分たちの足に頼ること、その馬や足を創造された神に頼らないことを喜ばないのでしょうか。これはとても単純なことです!
これについて説明します。神を恐れ同時に信頼するという、特徴的な人にある力について説明したいと思います。