誠実に生き続ける

 

話が少しそれますが、「はからずも」また「ちょうどそのとき」という表現が出てきました。ルツとボアズが、人間的な計画や思いを超えて神さまの時に出会ったように、神さまは私たちの思いを超えて、絶妙なタイミングで導いてくださることを見ることができます。私たちは神さまの絶大な導きの中で、神さまの時の中で生かされていることを覚えていきたいと思います。

 

さらに、もう一つ「とき」ということについてですが、ルツ記一章二十二節の後半には、

 

“ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。”

 

とあります。この「大麦の刈り入れが始まった頃」とは四月頃のことで、その後、二章二十三節では、

 

“それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。”

 

と記されています。大麦の刈り入れが四月頃から始まり、小麦の刈り入れが終わるのは六月頃です。この数ヶ月間の季節は神さまが用意されていたものです。神さまの季節が用意されていたことも見ることができ、神さまの備えというのは素晴らしいとルツ記を読む中でも覚えさせられました。

私たちもまた、そのような神さまの季節の中に生かされて、導かれているということも覚えていきたいと思います。

 

さて、話をルツ記に戻します。ボアズとルツが出会っていくわけですが、ボアズは神さまに誠実なルツに対して、特別な好意と主の恵みを施すことになります。ルツ記二章十一節から、

 

“ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」”

 

ルツが姑ナオミに対してとってきた誠実な行動、また主に避け所を求めてきた主に誠実な行動を聞いたボアズは、困窮しているルツに対しても親切という誠実な行為を彼女に示します。律法に従い、落穂を拾うことを認め、またそのような誠実なルツに対して特別な好意を持ち、主の恵みを施し、束の中でも集めるようにさせて良いようにさせたり、またわざと穂を抜き落とすようにと、自分の農夫に命令したりしていくわけです。

 

そんな中で、ルツがボアズの畑で落穂拾いをしていることを、姑ナオミが知ることになります。そしてナオミは「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利を持つ親類の一人です」と告げます。

買い戻しの権利を持つ親族とはどのような存在かというと、レビ記二十五章二十四節には、

 

“あなたがたの所有するどの土地においても、土地を買い戻す権利を認めなければならない。もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。”

 

という律法がありました。貧しくなって土地を仕方なく売ってしまうこともあった。しかしその土地を親族が買い戻すことができた。そんな救済措置がある律法を神さまは備えられたのです。

 

また、それだけではなく、レビレート婚というものがあったということです。夫を亡くした女性に対して、夫の家族やまた親族が結婚し、その夫の家系に子どもを生んで、その土地から亡くなった方の名が消えないようにしなければならない、そんな使命もあったわけです。買い戻しの権利を持つ人というのは、そのような人物でありました。ナオミはそこに一筋の希望を見いだしたのです。

ルツ記三章一節でナオミはルツにこう言います。「娘よ、あなたが幸せになるために、身の落ち着きどころを私が探してあげなければなりません」と。ここから「ナオミの結婚大作戦」が始まります。

 

ルツ記三章三節から七節では、ナオミがルツにこう言います。

 

“あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。 あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」 こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。”

 

この行動は、当時の女性にとって非常に積極的な求婚の方法であります。ルツは「おっしゃることは、みないたします。」と、姑のナオミが命じたことを全て行ったということです。誠実に、順序立てて正しい方法を選択しているナオミやルツの姿を見ることができます。

 

そんな行動をしたルツに対してボアズはどう応えるかというと、ルツ記三章十節、

 

“ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。”

 

ボアズは、ルツのナオミへの誠実な仕え方、そして神さまに従う誠実な生き方を称賛し、今回の行動はそれに勝る誠実さだと言います。

 

そしてボアズは、そんなルツに対して好意を持っていましたが、すぐに結婚を提案するのではなく、順序立てて正しい方法で事を進めようとします。

ボアズは買い戻しの権利を持っていましたが、なんと彼よりも近い買い戻しの権利を持った親族がいたのです。その方が権利を放棄しなければ、ボアズはエリメレクの土地を買い戻すことができず、ルツとも結婚できませんでした。

そこでボアズは次の日、町の門のところへ出かけます。門のところは当時、市場になったり、裁判が行われるような公の場でした。そのような場所に出て行き、ボアズは証人として長老たちを集め、また買い戻しの権利を持つ近い親族を連れてきて、順序立てて話をしていきます。

ナオミが土地を売ろうとしているが、どうするかと買い戻しの権利のある親族に尋ねたところ、「私が買い戻しましょう」と答えます。しかし、ボアズはここで切り札を出します。ルツ記四章五節に、

 

“ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」”

 

これを聞いたその親族は、この外国人の女性を妻として子をもうけて、その土地にエリメレクの名前を継がせなければならない。そうすると自分自身の家系の相続地を失う可能性があると思い、買い戻しの権利を放棄します。そして、律法が示す通りに、履物を相手に渡すという行為を行って、しっかりと人の前にも、主の前にも手続きを踏んで、ついにボアズはルツと結婚することになりました。素晴らしい結婚が与えられましたね。

 

ルツ記は夫エリメレクと二人の子どもたちの「死」という悲劇で始まりました。しかし、終わりには「結婚」という喜びで溢れるわけです。また、結婚の喜びと共に子どもが与えられます。死からいのちの喜びが訪れました。その子は、ルツ記四章十七節、

 

“近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。”

 

なんとボアズとルツの間に生まれたオベデは、ダビデ王の祖父となります。そして、ダビデ王の家系から救い主イエス・キリストが誕生します。こうして、悲劇から始まったナオミの家族が神さまの導きによって回復され、そして素晴らしい結婚が主によって与えられて、なんとダビデ王という素晴らしい王に連なる家系、また救い主を後に送るという、神さまご自身の世界を救う壮大なご計画をなす家系に組み込まれたことを見ることができます。

ルツ、ナオミ、ボアズが主に対して誠実に生きたその一歩一歩が結び合わされ、壮大な神さまの計画の一部となっていったのです。

 

ルツ記は、神さまが直接的に介入したという描写は少ないですが、注目すべき言葉があります。四章十三節、

 

“ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。”

 

「主はルツを身ごもらせ」とあります。このような表現というのは旧約聖書の中でもこの箇所だけであるそうです。主がみごもらせたわけです。

このルツ記のストーリーの本当の主役は、主ご自身であるということですね。ナオミ、ルツ、ボアズの一つ一つの誠実に生きる中に主が働いてくださり、主が一つ一つの誠実という点を線で結ぶかのような働きを主が成してくださり、鮮やかな神さまのみわざが完成したのを見ることができます。

一人ひとりの誠実な歩みが、主の壮大な救いのご計画を備えたということを見ることができます。誠実に生き続けることが、主の用意された未来をつくる、引き寄せること、天の神さまのご計画をこの地に引き寄せる働きになっているということを、ルツ記から学ばされます。

 

これは教会の事務所に飾ってあるものです。よく見ると、一つ一つの糸が丁寧に紡がれて、一つの大きな絵になっています。この一つ一つの糸を、私たちの誠実な生き方に例えるならば、一つ一つを主が繋ぎ合わせて、私たちを主の壮大な救いのご計画、大きなピクチャーに組み込んでくださっている、素晴らしい主のみわざの中で生かされているということを覚えていきたいと思います。

一つの糸だけを見れば、それがどんな絵になるのかわかりません。また、その糸を刺すときは、私たち自身もその糸自身に何の意味があるのかわからないことがあります。当然ですね。しかし、神さまご自身が、私たちの一つ一つの誠実な行動を、点のようなものであったとしても、結び合わせ、最終的に素晴らしい神さまのご計画を現してくださるということを覚えていきたいと思います。

 

ルツ記のストーリーは、ハートウォーミングな結婚物語であります。そこで描かれている出来事は、私たちの日常生活にも起こってくるようなごく普通のことです。時に配偶者を亡くしたり、子どもを失うこともある、困窮したり、悲しみや苦しみの中で過ごすこともあるでしょう。ナオミたちがベツレヘムに帰った時、肩身の狭い思いをしていたように、私たちも社会の中で肩身の狭い思いをすることがあります。

しかし、ルツ記から学べるのは、そのような平凡な日常生活の中でも、ナオミやルツ、ボアズは主に対して、人に対して、誠実に生き続けたということです。その誠実さが、神さまの壮大なご計画の中で重要な役割を果たし、神さまのご計画に組み込まれることになりました。

私たちも目の前に困難な状況が押し寄せることがあるかもしれません。また士師記の時代のような現代かもしれませんが、私たちは誠実に生き続けることを選び続けたいと思います。

 

ナオミやルツ、ボアズが特別だったからあのように誠実に生きることが出来たわけではありません。私たちもまた、神さまに選ばれた存在です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは救われています。「贖い」は「買い取る」という意味があります。私たちはイエスさまの十字架の恵みによって贖われた者、買い取られた者です。買い取られたルツたちと同じ立場にあります。私たちが日常生活の中で誠実に生き続けるならば、神さまがナオミの家族に現してくださったような、死から命に、悲しみから喜びに変えてくださる、回復と神さまの祝福、神さまが用意された素晴らしい未来を受け取っていくことができるはずです。それも神さまご自身の壮大な救いのご計画の一部として。神さまがルツたちをイエスさまを生む家系に組み込まれましたが、神さまの壮大な救いのご計画に私たちも組み込まれているということを覚えていきたいと思います。