誠実に生き続ける

2024年9月8日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

ルツ記 3章10節前半

”ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。”

今日はルツ記から「誠実に生き続ける」というテーマで皆さんと共に神さまのみことばを受け取っていきたいと思います。

 

この夏の始まり頃、何気ない普段の生活の中で教会で奉仕を終え、自宅に戻って車を停め、家に向かって歩き始めた時、ふとある思いが私の中に湧き上がってきました。それは、「今のあなたの行いは未来をつくっていること。またそれは未来を手繰り寄せること。天の神さまのご計画をこの地に引き寄せることにつながっている」という、そんな思いでした。私自身が考えるようなことではなく、突然与えられたものでした。

私たち人間というのは、今目の前で起こっていることにしか目を向けられず、今という瞬間にしか生きることができないような者かと思います。そして、今自分がしていることに将来どんな意味があるのか分からず、不安に感じたり、恐れたりすることがあるかと思います。今辛い状況を通っている方々にとって、将来がどうなるか心配になることもあるかと思います。私自身も、そのような体験を時々します。

しかし、そんな私に「今していることは神さまが用意された未来をつくること。そして未来を引き寄せること。天の神さまのみ心をこの地に引き下ろすことだよ!」と語ってくださったような気がして、すごく励ましを受けました。

ですから、私たちが「今という時を誠実に生き続ける」ことについて、今日は共に学んでいきたいと思います。

 

話は変わりますが、野球が好きな方は多いかと思いますが、大谷翔平選手のことをご存知でしょうか?彼は今、たくさんホームランを打っています。彼がバットを振ってボールを打つとき、バットの力がボールに加わり、その当たる角度によって打球の行方が決まります。フライになるのか、ヒットになるのか、またはホームランになるのかは、その一瞬にかかっているわけです。ボールとバットが接触する瞬間で、すべてが決まるのです。

 

こんなことからも、今という瞬間にどう行動するかが、未来を決めるというイメージを持ちやすいのではないでしょうか。今という瞬間を私たちが誠実に生きていく時に、私たちがどこに向かっていくかが決まっていく。未来の行き着く場所が決まっていくわけです。それは未来をつくること、未来へつながることになるわけです。

ホームランという未来に向かってボールは飛んでいくわけですが、逆の視点から見るならば、ホームランを、そのバットを打つ瞬間に引き寄せていく、未来を引き寄せるというイメージがより持てるかと思います。

しかし、今というボールをバットで打つ瞬間というのは、その後どうなるかは分からないのです。私たちはその瞬間に何が起きるのか、どのような結果に繋がるのか、必ずしも分からないことがあります。しかし、神さまは私に語ってくださいました。「今という瞬間に誠実に生きるならば、また人に対して誠実に生きていくならば、主が用意された素晴らしい未来がつくられていく、引き寄せられていく、神さまのみ心が引き寄せられていく。」そのようなことを教えられて、語られております。今日は、ルツ記を通して「誠実に生き続ける」というテーマを受けとっていきたいと思います。

 

「ルツ記」に入る前に、ルツ記の時代背景を見ていきたいと思います。ルツ記は、一章一節に、「さばきつかさが治めていたころ」と書かれています。これは士師記の時代です。

イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、ヨシュアに率いられて約束の地に入った後の時代です。イスラエルの民は約束の地で土着の偶像礼拝に妥協し、神さまに対して背信の罪を犯しました。そして、神さまからの叱責を受け、助けを求めるようになり、神さまが祭司や預言者、戦士たち、リーダーたち、士師たちを送られて、イスラエルの民を敵から救われるということが起こるわけです。

しかし、しばらくは神さまに正しく歩むのですが、士師がいなくなってしまったら、また偶像礼拝に戻り、再び背信の罪を犯してしまうというサイクルが繰り返されるのです。

士師記の時代というのは、聖書の中でも最も暗い時代と言われます。無秩序で暗黒の時代です。この士師記を象徴するようなみことばが、士師記二十一章二十五節、

 

“そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。”

 

というものです。それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。「自分」が中心なのです。自分が良いと思うこと、天の父なる神さまの思いや、王なる主の考えを良しとして行動するのではなく、自分が良いと思うことを優先していたのです。

 

最近、「サブスク」という言葉をよく耳にしますね。皆さんもサブスクリプションサービスを利用していますか?映画やテレビ番組が見放題だったり、最近では車や電化製品までもサブスクで利用できるようになっています。サブスクというのは、「定期購読」ということですが、定期的にお金を支払うことで特定のサービスや商品を利用できる仕組みです。サブスクというのは自分自身で何を選択するかが重要になります。「これが見たい」「あれが欲しい」「これをしたい」など、すべて自分を中心にして選択するわけです。そんな時代に私たちは生きているのです。

比較してみると、現代と士師記の時代は少し重なるようなところがないでしょうか。自分自身が良いと思うものを行う時代。ともすれば、このような時代の中に生かされている私たちも、教会や神さまに対して、神さまのみことばに対してサブスクのような態度を取ってしまう危険性があるのではないかと感じます。

神さまのみことばに対して、自分の都合の良いところだけを受け取り、従いたくないことや自分が良いと思わないことは選ばない、そんな生き方をしてしまうことになりかねないような時代に生かされていると思います。

サブスクは簡単に解除できますし、映画などもスクロールすれば、嫌なものはすぐに自分の目の前からは消えるわけです。「自分中心」という考え方に陥りやすい時代に私たちは生かされているのではないかと、最近考えさせられています。

このルツ記の時代背景は、自己中心的な生き方が世の中にあった時代背景ということで、現代の私たちもルツ記から多くを学ぶことができるのではないかと思います。

 

さて、そのような時代背景を踏まえ、ルツ記に入っていきたいと思います。今日はルツ記全体を俯瞰しながら、みことばを受け取っていきたいと思います。

ルツ記には主に三人の登場人物、ナオミ、ルツ、ボアズがいます。簡単に言えば、これは結婚物語です。その中で、この三人が主に対して、また人に対して誠実に生きたことが描かれています。

三章の十節には、ボアズがルツに対して「今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています」と述べています。「誠実」という言葉があります。

 

先に、「誠実とは何か」ということについて考えたいと思います。ここで使われているヘブル語を調べると「ヘセド」という言葉が使われています。この「ヘセド」という言葉には、さまざまな意味がありますが、基本的には「愛、善行、寛容、好意や恩恵を与えることによって人に親切にする。」とか、また親切にするのですが、特に困窮している人や、惨めな状況にある人に対して親切にすること、慈悲、憐れみ、また永遠に関わり続ける決意、そんな意味合いがあるということを私も学ばさせていただきました。

この「誠実」というのは、「人を愛し、思いやり、約束を守る行為」とまとめているものもありました。そんな「誠実に生きる」というテーマを受け取っていきましょう。

 

ルツ記の冒頭には、ベツレヘム出身のエリメレクという家族が登場します。エリメレクの妻はナオミで、彼らには二人の息子がいました。ある時ベツレヘムに飢饉が起こり、彼らは故郷を離れてモアブに移り住むことになります。

そこでの生活が始まりますが、ナオミの夫エリメレクがなんと亡くなってしまいます。さらに、ナオミの二人の息子も亡くなり、残されたのはナオミと、その二人の息子たちが結婚した、異教徒であったと考えられるモアブの女性たち、オルパとルツでした。この物語は悲劇から始まります。

ナオミたちはモアブの地に十年ほど住んでいましたが、ベツレヘムで飢饉が終わったという噂を聞き、ナオミは故郷ベツレヘムに帰ることを決意します。そして、モアブの女性であったオルパとルツに対して、ナオミは「あなたたちは自分たちの故郷に戻るように」と促します。しかしルツだけがナオミについていくことを決心し、ナオミとルツがベツレヘムへ戻っていくことになります。ルツがそのときにナオミに語った言葉が印象的です。一章十六〜十七節、

 

“ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」”

 

ルツは「ナオミの行く所に行きます!」と固い決意を表し、約束を守ると宣言し、ルツの誠実さを見ることができます。また、異教徒であったと思われるモアブの女性ルツが「あなたの神が私の神です」と宣言し、ナオミが信じる真の神・主を自分の神として信じ、信頼して従っていきます!と、主に対しても誠実な生き方をしようとしたことが、ここからも見て取れます。

 

その後、二人はベツレヘムへ戻りますが、家族を失ったナオミとルツには経済的な基盤がありませんでした。貧しさの中にありました。ナオミは夫も子どもも失い、残されたのは外国人であるモアブの女性ルツだけ。祝福の象徴となる子どもや孫もいないということで、肩身の狭い思いでベツレヘムでの生活を始めました。

そんな中で、ルツは生計を立てるために「落穂拾い」を始めます。

 

当時のイスラエルの律法の中で、貧しい者や在留外国人など困窮している人々に対して施すための律法がありました。申命記二十四章十九節にあります。

 

“あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。”

 

と記されています。

当時は円形状に収穫が行われ、四角い畑ならばその隅に穂が残され、また刈り取った束から落ちた穂も貧しい人々のため畑に残す、そんな律法があったわけです。ルツはそれを目当てにして出かけていきます。

そして彼女が行った先がどこかというと、ルツ記二章三節に、

 

“ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。”

 

義理の父エリメレクの親族であるボアズの畑だったのです。

 

そしてルツ記二章四節に、

 

“ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。”

 

とあります。ついにボアズとルツが出会うわけです。

結婚されている方々は、伴侶の方と初めて出会ったときのことを思い出すと少し心がドキドキするかもしれません。ルツもまた、ボアズと出会う瞬間が訪れたのです。

 

このボアズは農夫たちに「主があなたがたと共におられますように」と声をかけ、農夫の方々も「主があなたを祝福されますように」と答えています。ここからもわかるように、ボアズは主の祝福を祈り、神さまに対しても、人に対しても誠実な人物であり、農夫たちからも尊敬を受けていたことがわかります。