「70年が満ちた2021 回復と再建の年! 〜『回復と再建』を宣言しよう!〜」

2021年10月10日(日)新城教会主任牧師 滝元順

歴代誌 第二 7章12節〜14節

『その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。「わたしはあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。』

ハレルヤ! おはようございます。石塚さんの素晴らしい賛美を聞きました。
十月になりましたけれど、十月という月は、私にとって忘れることができない月となりました。それは二〇一九年の十月の事です。家内に突然、膵臓癌が発見され、余命三ヶ月・四ヶ月と宣告されたからです。今の賛美歌の歌詞のように、どこに持って行っていいのかわからない状況に一瞬で陥りました。
しかしその時から、教会あげて家内のために祈りの手を上げて下さいました。私も真剣に主を求め、祈りはじめた時、奇跡が起きました。
約一か月前、家内は手術を受けました。大きな手術でしたが、今は退院して家で過ごしております。三ヶ月・四ヶ月の命と宣告されて、二年が経ちました。手の施しようがないと言われていたのが、手術ができて、快方に向かっているのは、奇跡以外の何ものでもありません。私たちの主は、生きておられます。
調子のいい日には、スーパーに買い物に行ったり、出歩くこともできるようになりました。
一年半前から私は、家内の病に加えて、新型コロナも重なり大変な日々が続いております。しかしそんな中でも、主は常に支えてくださっています。心から感謝します。

最近、新型コロナウイルスの感染状況も、激減しています。昨日あたり、愛知県では新規感染者が四十三人と報道されていました。毎日この数字で国民全体が心を乱されていますが、東京は一千四百万人の人口を持ちながら、昨日は、新規感染者が八十二人でした。これは統計学的に言ったらゼロに等しい、誤差の範囲ではないでしょうか。
新城の周辺も拡大なく過ごしていることは、本当に感謝です。
しかしこれを普通のことだと考えてはいけないと思うのです。神の恵みとして受け取って、今こそ、油断せずに祈ることが大切ではないのでしょうか。

日本と韓国のワクチン接種率はほとんど同じです。環境的にも変わりません。しかし昨日の感染状況を比較してみますと、韓国では千九百四十九人が感染し、一方、日本では八百二十七人でした。日本と韓国の人口差は、韓国は日本の約三分の一ですから、換算すれば六千人ぐらいが日々感染している計算になります。
ということは、神が日本に何らかの目的を持って、目を注いでくださっているということです。もちろん、主は韓国にも目を注いでおられます。日本の減少傾向を、誰一人解き明かすことはできないと言われています。八月のオリンピックの頃は、東京だけで一日、五千人を突破していました。一万人、二万人にすぐ到達すると、誰もが考えていました。一般的に言えば当然です。しかし予想に反して、あっという間に下がったのです。
この原因について、ある人たちは政府が選挙を控えて統計を操作している?と言います。しかし不思議に思うのは、関東地方だけ下がるのではなくて、北海道から沖縄まで、まさしく息をするかのように、全国一斉に増減することです。何かウイルス界に親分がいて、親分が、「感染せよ!」という号令を発すると、全国のウイルスどもが感染を拡大して、ウイルス軍の隊長が「撃ち方やめ!」と命令すると、減少するみたいに感じます。
皆さんはどのように感じていますか。私は、日本のクリスチャンたちの切なる祈りの結果であると信じたいです。
特に毎日のように、私たちはウイルスに対して、宣言の祈りをしています。

「新型コロナウイルスよ!変異株たちよ!私は被造物の管理人として命令する。これ以上、感染拡大してはならない!回復された新型コロナウイルスや被造物と調和して、大声で主を賛美せよ!」と宣言しています。この宣言が新型ウイルスどもに届いているからではないでしょうか。

そうならば、感染力が弱まってきた時にこそ、心を一つにして、さらに声を大にして宣言する必要があるのではないでしょうか。
私たち人類は、「被造物の管理人」として創造されました。私たちに委ねられた権限を行使するならば、必ず、ウイルスにもヒットするはずです。ぜひ今週、油断せずに、宣言し続けていただきたいと願っています。

このような社会的状況を鑑みまして、現在、二部に分かれている礼拝を、十月二十四日から本来の一部礼拝に戻す計画があります。新城教会だけが勇み足のようには考えないで下さいね。十月からは、全国の教会も元に戻そうと努力しています。日本の教会全体のためにも祈っていただきたいと思います。回復と再建を信じて、祈り続けたいと願います。
今年は「クリスマス・コンサート」も、開催できたらと考えています。現在、その為の計画・準備を進めております。先週、だいたいの案が固まりました。なかなか興味深いコンサートです。去年は「宣教七十周年」でしたから、記念コンサートを開催したかったのですが、何もできませんでした。しかし今年は、オリンピックのように一年延ばして、「七十周年記念クリスマスコンサート」として開催したいと願っています。
 「~新城教会の七十年の歴史を賛美で綴る~」という企画です。副題として、「グロリアシンガーズからニュー・ジェネレーションまで」というタイトルです。新城教会の賛美のルーツは、何を隠そう、別に隠してはいませんが、私たちが始めたグロリアシンガーズでした。そこから現在、大きく派生してザワメキが始まったり、多くの若者たちがプロ・ミュージシャンになって一般でも活躍しています。新城教会関係のミュージシャンたちを集めて、記念コンサートができたら素晴らしいと考えています。
しかし定員制限があります。大体、二百五十名ぐらいでしょうか。チケットが発売されましたら、早い者勝ちですから、よろしくお願いします。
でもネット配信も予定しています。ネット配信のほうは無料の予定です。しかし十二月に、再度感染爆発が起こったら、できなくなってしまいますから、是非、祈っていただきたいと思います。皆さんの祈りにかかっています。

今日は「共に集まる」というテーマで、聖書から学びます。共に集うことは本当に重要です。その意義について、み言葉から確認しておきたいと思います。今日、会堂に集ってくださった方々も、現代社会は仮想空間に教会ができて、インターネットで礼拝に出席されている方々もおられます。いずれも、定められた時刻に集まって礼拝を守っています。
私たちの教会は、あまりアーカイブを残しません。どうしてかと申しますと、いろいろ理由はあるのですが、最も大きな理由は、「教会とは、決められた時刻に、決められた空間に集まる」のが原点だからです。犠牲を払って、第一部、第二部、そしてインターネットの定められた空間に集う時に、教会は機能するからです。
いろいろな形態はありますが、「集まる」ところに祝福が注がれます。

以前、山崎ランサム先生が来られた時に、一冊の本を紹介して下さいました。すでに読んだ方もおられると思いますが、「創世記一章の再発見」という本です。ジョン・ウォルトンという聖書学者が書いた本ですが、目からウロコの一冊です。
私たちは聖書読む時、現代的世界観・視点で読んでしまいがちです。創世記は何千年も前に書かれた書物です。何千年も前の人たちがこの書を読んで、理解できたわけです。当時、どのような世界観で創世記は書かれ、人々は受け取っていたのか、当時の目線に合わせない限り、真意は理解できないはずです。
最近は考古学も発展して、聖書が書かれた時代の様々な状況が判明して来ました。碑文等が読み解かれたりして、当時、どのような考え方で世界は成り立っていたのかも分かってきたわけです。

創世記一章を現代人が読むならば、創造についてのストーリーです。神が無から有を生じさせて、天と地を創造されたと受け取ります。
しかしそれは、進化論という対立する概念があるがゆえの理解です。創世記が書かれた時点に時間を戻すならば、当時、進化論など全くありませんでした。神が天と地を創造したことを疑う人など、誰ひとり存在しない世界でした。わざわざ神が天と地を創造したと、説明する必要はない世界で創世記は記されたわけです。
そのような視点で読むと、「創造」という言葉の意味も違ってきます。「創造」と訳されているヘブル語は「バーラー」という言葉が使われていますが、それは「創造」ではなく「機能を与える」という意味の方が強いというのです。聖書全体からバーラーを調べても、「機能を与える」という使い方の方が多いらしいのです。
スマホを買っても、すぐに使えるわけではありません。最初に、機能設定をしない限り、自分のものとしては使うことが出来ません。同じように、神さまは天と地を創造したけれど、それらに六日間かけて「機能設定を施された」と言うのです。
どのような機能を施されたのかと言うと、「宇宙神殿としての機能」を設定されたというのです。
「神殿」とは「俗なる世界から離れた聖なる空間」という意味です。教会には神殿としての機能があります。建物は俗のために使うのではなく、主を礼拝するためのみに使用されています。
この会堂もできあがって四十一年が過ぎましたが、ただ、主を礼拝し、主と出会うための空間として使用されています。
神は神殿としての機能を、限られた空間だけではなく、宇宙全体に拡大されようとして、六日間かけて機能設定をされたというわけです。聖書は一貫して、天地創造から新天新地の創造まで、宇宙神殿完成を目指して記されているというのです。
このような流れがある事に気づかされます。
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この中で人はどのような役割かというと、「宇宙神殿管理人」であるというのです。
しかし最初の管理人であった、アダムとエバが堕落して、管理権を悪魔に奪われたのです。けれども、神はみ子イエスさまを地上に送り、管理人の権利を回復されました。
聖書には、神殿が様々な箇所で強調されています。第一神殿、第二神殿を経て、イエスさまの時代はヘロデが修復・拡張した神殿がありました。しかしイエスさまは、ご自身が神殿であることを宣言されて、十字架と復活によって、宇宙神殿の管理人の権利を回復されたのです。
イエス・キリストを信じ、クリスチャンになるとは、宇宙神殿を管理する管理人としての立場の回復です。
神は、限られた領域だけに存在する神殿を、管理人の働きにより、宇宙規模に拡大し、安息の場を造ろうとされています。

イエスさまの時代、弟子たちも、イエスさまも、そのような視点で行動されていたと言うのです。この著書によりますと、次のように記されていました。

“イエスは神殿を何よりも天と地が出会う場所であり、そこで重要なことがなされる場であると考えていた。
ところが現代のクリスチャンの多くは、神殿は壮大な教会のような建造物に過ぎないと考えている。礼拝の場であることは確かであるが、小宇宙、つまり天と地が非常に小さな空間でまとめられた世界の縮図であるとは理解していない。”

この文章を読んで、どうお感じになられますか。この概念を持って教会に集っておられる人は、世界に、どのくらいいるでしょうか。教会について、礼拝を行う施設としての理解はありますが、こんな理解は全くないことでしょう。
しかし、これが教会が本来持っている機能なのです。イエスさまの時代、イエスさまも、弟子たちも、その事を理解した上で、神殿に出向いていました。
教会は小宇宙、つまり「天と地が非常に小さな空間でまとめられた世界の縮図」です。天と地がコンパクトにまとめられた世界の縮図がここにあるのです。
初期のクリスチャンたちは、神殿に集まり礼拝を続けていましたが、「自分たちの新しいムーブメント自体が、ある意味、新しい神殿であると考えていた」と言うのです。
彼らは世界の縮図である神殿を外に持ち出す為に、世界に向けて宣教を拡大したのです。