再び燃え立たせてください

『見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の【主】は仰せられる──』

このみことばを私は十二月の中旬に与えられました。世の終わりの時代、昨年は「主よ、遅れないでください」と、一年間祈り求めてきました。また今年は神が働きを加速される年!として祈り始めました。今年は主の働きが加速し、主のみ業がどんどん進んでいくとことを信じましょう。

『見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──』

今まで私たちに覆いを被せて、様々な妨害してきた悪魔、悪霊の力が打ち破られるときが来るのです。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。と暗闇の力はすべて焼き尽くし、根も枝も残さないとあります。今年は勝利の年が来るのです。そして、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る事ができる。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。とあります。「牛舎の子牛のように跳ね回り、喜ぶ」ことができると教えられています。さらに、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さないというのです。ローマ十六章二十節

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

とあります。この箇所は賛美となって良く歌われます。今年は悪魔、悪霊から霊的戦いによって勝利を頂く時です。「牛舎の子牛のように跳ね回わる』とあります。私たちは癒しと、救い、解放があり、喜ぶことができるというのです。私たちはどれだけ牛について知っているでしょうか?「ロース」「カルビ」「タン」など焼肉の部位の名前は知っていても、牛の生体はあまりよく知っていません。インターネットで得た情報ですが、狂牛病を研究している英国獣医学研究所が、牛の知能はチンパンジー 並みに高いことを突き止めたとありました。牛は人間の言葉の一部は理解し、感情も豊かだと言うのです。「牛は動作がのろく、表情も人間から見ると、あまり何を考えているのか分からない。それで知能を過小評価していた部分があった。しかしある日牛に装置をつけたまま、昼休みに何を食べるかを研究員同士で話していたところ、「ハンバーガー」 の単語を聞いた際に、牛の脳のことばを認識する領域が激しく反応したというのです。その後も実験を重ねた結果、「ステーキ」、「ミンチ」など相当数の単語を理解しているほか、トラックで運ばれる子牛を見たときには、人間の「切ない」という感情とよく似た血流の動きもみられたそうです。感情の繊細さや知能の一部はチンンバンジーやゴリラにも匹敵するとありました。牛が音楽を聴かせれば乳の出が良くなるのは知られた話です。それも感受性の豊かさの表れでしょうとありました。「牛舎の子牛のようにはね回る」とあるように喜びが保障される。跳びまわっている子牛にたとえられた「喜び」を想像しつつ一つの映像をご覧ください。この映像は冬が厳しいスウェーデンの映像です。「春の風物詩、クースレップ(Koslapp)」これは冬の間牛舎に閉じ込められていた牛が牧場に放たれる時だそうです。体重七〇〇キログラム前後の牛たちが飛び跳ねながらでてきます。狭い空間から解放されてで牧場に出て行く時、嬉しくて後ろ足を蹴り上げたり、スキップさながら飛び跳ねる映像です。私たちは悪魔、悪霊から霊的戦いによって勝利を頂く時、喜び躍る事ができる事を思い浮かべながらご覧ください。

今まで霊的に押さえつけられ、踏みつけられて、悪魔にやられてきましたがその悪魔悪霊の頭を踏み砕き、勝利を得る二〇二五年である事を信じましょう。もう一回マラキ書四章三節を読みます。

『あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の【主】は仰せられる──』

今年は勝利を喜び躍る年とさせて頂きましょう。牛舎の子牛のように跳び跳ねまわる事のできる年であることを信じます。神が働きを加速される年であることを信じます。

最後の三つ目のみことばは先ほど読んでいただいた第ニテモテ一章六節から七節

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

お祈り頂いております家内は二〇二三年の十二月三日に、今の施設に入居しました。しかし、昨年一月十八日から栄養が口から摂れていないということで、まず鼻から管を入れて、栄養剤を入れるようになりました。その後薬の調整をしようということで、二月二十日から入院しました。しかし二日後の二十二日に突然呼吸が調子悪くなり、気管を切開しなければなりませんでした。家族にとってすごく大きな試練と決断でした。もう彼女の声を聞くことができない。医師もこの状況からすると再度話す出すことするできないだろうと言われました。しかし感謝なことにスピーチカニューレという器具を使うことで声が出るようになりました。素晴らしい慰めでした。本当に感謝でした。その後四月四日に今度は、首からの胃ろうの手術をしました。短期間で大きな変化があり、私自身気持ちの整理がつかないほどでした。今では体重も増えて来たことを主に心から感謝、皆さまがお祈り下さり、支えられております事を感謝いたします。
話は変わりますが、今住んでいる場所に引っ越して、もう十五年間が経ちます。ある朝、寝室のカーテンを開けて、カーテンを束ねようとしたとき、両面テープで止めていた「ふさかけ」という部品

が経年劣化のため剥がれてしまいました。その為修理しなくてはならなくなり、今度は二度と外れないように両面テープではなく、ねじで止める「ふさかけ」に取り替えました。その「ふさかけ」を直している時、主から一つのみことばを教えて頂きました。このみことばが、第ニテモテ一章六節から七節。

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

ここは、「神の賜物を再び燃え立たせなさい」と、主が語ってくださっています。一人ひとりに主が下さった賜物があります。しかし知らず知らずの内にその賜物がさび付いて使われなくなってしまう状態になってしまいました。

以前と同じ両面テープの「ふさかけ」を設置するのではなく、今度は二度と取れないようにネジでしっかりと固定した。それと同じように、私たちも神さまから与えられた賜物を再び燃え立たせる時であると教えられました。それも神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。賜物を「もう一度燃え立たせなさい!」
それも今度は消えることのない賜物を聖霊の力によって頂きなさい。取れないようにネジで固定しなさいということを語って頂きました。それは「力」です。語源的に「ダイナマイト」のような爆発的な力だと言われます。そのダイナミックな力によって、みたまが働いてくださるとき、私たち自身にはない強い力によって働くことができるということです。「愛」とは神の犠牲の愛です。そして「慎み」というのは、「自制心」という意味があり、冷静な判断力を指しているそうです。私たちは聖霊の力と愛、聖霊の判断力で主の働きのために働いていかなければならないということを、教えられました。

この新城教会では一九九二年に聖霊が臨まれました。圧倒的な力と業を頂きました。この聖霊によって翌年の「全日本リバイバル甲子園ミッション」の働きをすることができました。
聖霊が望まれ、新城教会に神が与えてくださった力と霊的目が開かれました。そして「霊的戦い」を主が導いて下さいました。当時、私たちにも、子どもたちにも霊的な目が開かれて、多くの賜物が与えられました。その当時を振り返って見ると、すばらしい働きを思す事ができます。ある地域のために私たちとともに少年たちが共に祈っていました。すると、一人の少年に主が語って下さいました。彼はとりなしの祈りの時には必ず聖書を持参してきました。そして「どこどこの何章何節」と主に語られました。彼は今やおじさんであり、一人の子どもの親になっています。彼は当時、聖書を読む子でもなく、「神からエレミヤ書って言われたけどエレミヤ書ってある?」という具合でした。しかし彼が神さまから語られたみことばはそのとりなしに対してとても必要でした。そのみことばで教えられ、励まされ、そのみことばが「みことばの剣」となりました。戦いの裏付けとしてみことばが与えられたことを思い出します。

また、もう一人の少年。彼にもう一度その賜物を奮い立たせて欲しいと声を大にして言いたいのですが、異言の解き明かしをする少年が現れました。皆さんがよくご存じの少年。今や良いおじさんになっています。彼は今ではある面でとても有名な人になった方です。当時私たちが異言で祈る時、私たちには何を語っているか全くわかりませんでした。しかし彼は、「今、こういうふうに祈っている」と、その異言を解き明かす賜物を頂きました。その異言の祈りを聞いて、彼は主に語られ解き明かす事ができました。その異言の解き明かしによって、とても励まされたことを思い出します。
私たちは主からいただいた賜物を再び燃やして欲しい。力と愛と慎みとの霊で神のみわざを見ることができるように求めて行かなくてはならないと教えられました。先ほども言いましたが、みたまの力というのは、語源的に「ダイナマイト」のような爆発的な力だと言われます。大きな岩の壁も吹き飛ばすことができ、粉々にすることができるダイナミックな力です。強い力によって働くことができるということです。

エペソ三章十六節には、

『どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。』

「内なる人を強くしてくださいますように。」とあります。また、第二テモテ一章六節には、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』
「再び燃え立たせてください。」今は消えてしまったり、消えそうになっている賜物を、今度は失うことなくしっかり燃え立たせてください。新城教会が各々与えられた賜物によって、二〇二五年は「ダイナマイト」のような力をこの教会に与えて頂きたいと願っています。

また、以前礼拝で語ったみことばマルコ二章十二節に、

『すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。』

「こういうことは、かつて見たことがない」、主の聖霊の力、聖霊のわざを、今年この新城教会に見せて頂きたい。その為神の賜物を、再び燃え立たせてください。そしてダイナマイトの聖霊の力が新城教会に起こされるように求めていきたいと思います。

今、天の教会と地の教会が一つになるようにというみことばが語たられています。天の教会で起きている、神の国がこの地になされるように、期待しましょう。今さまざまな問題や病があっても、苦しみ、立ち止まってしまった所も、神は必ず素晴らしいことをしてくださいます。聖霊によってわざを起こしてくださいます。期待しなさいと神が語ってくださっています。