ヨセフの人生から学ぶ

ローマ人への手紙第八章二十八節には、

“神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

とあります。神さまはすべてのことを計画し、最善に導いてくださるのです。その長いスパン、私たちが想像もつかないような、十何年というような長いスパンで神さまは計画を進めていてくださったということを、この場所で見ることができる。その最善の計画というのは、私たち、クリスチャンとして生きている一人ひとりにも、用意されているとを覚えていきたいと思います。どんな苦しみの中にあっても、神さまはそこに計画を持ち、意味を持って私たちを導いてくださるということを覚えて、神さまに従って参りたいと思います。
これが一つ目のポイント、「すべてを最善とされる神さまの計画」です。

次に二つ目のポイント、「人生の中心軸を自分から神さまへとシフトされたヨセフ」です。
ヨセフの物語を読むと、彼が試練に遭う前の若い頃、どれほど神さまに信頼し、祈りを捧げていたのか、神さまとヨセフの関係がどのようなものであったのかは明確ではありません。
しかし、物語を読み進めると、ヨセフは長年の試練を通して、実は自分の能力で生きてきたのではなく、神さまによって生かされ、神さまが全てを与え、全てをご存知であることを、神さまが自分の主であるということを、本当の意味で知るようになったのです。このことは、彼の語った言葉の中から知ることができます。このことを象徴するみことばが創世記四十章十四節から十五節にあります。

“あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」”

この言葉は、彼の人生の中でおそらく最も苦しみに満ちた、苦難の谷を通らされている中で語られたものでしょう。この言葉を語った経緯について詳しく触れることはできませんが、この中に気になるフレーズがあります。この短い二節の中に「私」という言葉が六回も出てくるのです。「どうか私を思い出してください」「私のことを」「私が出られるように」「私に恵みを施してください」「実は私は」「ここでも私は」というように、彼の言葉には「私」が強調されています。
ヨセフは、自分が置かれている状況がいかに不幸な出来事の積み重ねであるかを訴え、どうにかしてここから逃れたいと説いたのです。彼は、自分が何も悪くなかったのに理不尽な出来事が重なってここに来てしまったと感じていたのです。ヨセフがこの言葉を同じ囚人に対して言ったとき、「今、あなたも私と同じ穴のムジナですよね。同じ苦しみを経験しているから、私の気持ちがわかるでしょう?あなたが助けられた時には、私のことも忘れないで、私も助かるように取り計らってくださいね。私・私・私・・。」と伝え、助けを求めたのです。
人間という者、思い通りに事が運ばないとき、苦しみの中にあるときに、余計に自分がかわいそうになって、自分のことしか見えなくなってしまうものです。でも、クリスチャンにとって意味のない出来事は一つもありません。彼にとってこの苦難は欠くことのできない訓練の時でした。実は彼は、この試練に遭うまでは、とても愚かで高ぶった考えを持っていた人物であったことを見ることができます。
彼はヤコブの十一番目の息子として生まれ、ヤコブの妻たちの中で最も愛されていたラケルから生まれた特別な子どもでした。そのため、兄弟たちの中で特別に扱われ、大切に育てられました。創世記三十七章の二節と三節には次のように書かれています。

“これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。”

ヨセフはお父さんとお母さんに愛されて愛されて、そしてたくさんいる兄弟たちの悪口を言って、いじめられたりすると泣いてお父さんの所に助けを求めに行ったかもしれません。とにかく両親に取り入って、自分だけ可愛がってもらおう、そういう意識が強かったのではないかと思います。
そして、自分が特別扱いされることを不思議に思うこともなく、お兄さんたちの妬みを買っていても気づくことすらできなかったのです。そのことが、この五〜七節を見ると書いてあります。

“さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」”

また、創世記三十七章九節から十節には次のように書かれています。

“再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」”

こんなふうに、自分が特別なものであることを表す夢について、はばかることなく、嬉々としてお兄さんたちに言いふらしたのです。彼はお兄さんたちが自分の見た夢の話を聞いたらどんなに不愉快か、家族がどんな気持ちになるかなんてことに思いを向けることもなく、両親をはじめみんなから愛されて、大切にされる、そのために自分は生まれてきたのだと勘違いしていたのです。なんでも自分中心に考えることが彼の日常になっていたことを、この夢を何のはばかりもなくお兄さんたちにストレートにぶつけてしまうことを通して見ることができます。
しかし、ヨセフはお兄さんたちから裏切られて奴隷として売り飛ばされることを通して、そしてまた売られた先で陰謀に巻き込まれ罪人に仕立て上げられて牢屋にぶち込まれることを通して、そして、助けてもらえると一縷の望みをかけた人から忘れ去られたことを通して、彼の強烈なまでの「自己義認」「自己肯定」「自己愛」は、砕かれたのです。そのことが創世記四十一章十五節から十六節に書かれています。

“ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」”

ここに至りヨセフは、自分ではない「神様だ」とファラオに話しました。本当に彼は苦しみの中を歩いたのですが、その中で、やっとヨセフは、自分の人生に起きた試練が、実は神さまがなされた訓練だった、自分の自我・高ぶりを打ち砕くために、神さまが与えられたものなんだ!自分じゃなくて神様ご自身によって生かされているのだ、そういった心境に至ったわけです。その時、彼の人生に回復がもたらされたのでした。彼は一日にしてエジプトの総理大臣に任命され、そしてヤコブと兄たちの命を助ける立場になることができたのです。
ヨセフと同じように、人生の価値観が自分から神さま中心に移された人物は聖書の中にたくさん登場します。名前を挙げると、モーセ、ダビデ、ヨブ、ヨナ、ペテロ、パウロなどがそうです。主に用いられる人は例外なく、自分を砕かれる経験を経て、神さまに信頼して人生を歩むことを学びます。
映像には出ませんが、詩篇一一九篇七十一節には、

“苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。”

と書かれています。また、ヤコブの手紙四章六節には、

“神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」”

私たちの人生でも、自我・自己・自分の高ぶりに気づくことはなかなか難しいものではないかと思います。しかし、神さまにあって、ヨセフのように訓練を通して自分から神さまへと中心軸をシフトした姿を見て、私たちの人生の教訓としたいものです。

そして最後に三つ目のポイントですが、ヨセフのストーリーから受けた恵みは「神さまの思いを受け止め、忠実に行動に移したヨセフ」です。長い試練を経て彼は高く上げられ、権力を手にしました。そして、彼の前で皆がひれ伏しました。エジプトでの元主人ポティファルや、その妻も、夢を解き明かしたファラオの献酌官も皆、ヨセフの前にひざまずきました。エジプトのファラオがヨセフの前にひざまずくよう命じたからです。
そしてファラオはヨセフに高貴な人の娘を妻として与えたことが書かれています。それが創世記四十一章から四十六節になります。

“ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。ファラオはヨセフに言った。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。”

ヨセフがどん底から人生最高の高みに登らされたとき、彼の人生は最も成功した瞬間でした。世界中を見てもここまで成功した人はいないのではないかと思うくらい成功したわけです。しかし同時に、彼はそのタイミングで最も大きな誘惑に直面しました。彼の人生の最も成功したときが、彼の最も大きな誘惑に出遭ったときだったのです。
今読んだ中で、「オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。」というみことばの中に、それを見ることができます。この「オン」はエジプトのひとつの街なのですが、エジプトには多神教でいろいろな神々がおり、中でも最高神と呼ばれるのが太陽神であります。この神の最も大きな神殿があったのが、「オン」という街であります。
そしてアセナテの父親は、この神に仕える祭司でした。ヨセフが人生最高の成功を収めたとき、その一方で悪魔の最も大きな誘惑が忍び寄っていたことがわかります。
聖書には、最も栄華を極めたソロモンが異教の神々を信じる妻やそばめたちによって神さまから引き離されたことが書かれています。同様に、ヨセフも試みを受けました。この試みの時に、ヨセフはどのように振る舞ったのでしょうか。彼はエジプトの最良のものを自分の周りに置いて満ち足りた生活を送ることができましたが、そうしませんでした。彼はファラオの前から去り、エジプト全土を巡り、豊作の七年間に穀物を蓄え、飢饉の七年間に備えました。
彼は権力を受けて高められた時に自分が今何をしなければならないかを考えました。それは神さまが与えた夢を現実のものとして受け止め、穀物を蓄えるという使命を忠実に果たしたのです。七年間豊作が来て、その後七年間飢饉になるということを、たった一つの夢だけで真面目に受け取って、忠実に行動しました。なかなかできることではありません。
彼の行動は、神さまを畏れる姿勢から来ていました。ヨセフはエジプトの栄華や偶像に心を奪われることなく、神さまの御心を忠実に実行しました。彼は今すべきことを忘れ去ることなく誠実に実行した。
彼の行動を後押ししていたものは何か?ファラオが見た夢でした。その夢は、神がヨセフに解き明かしを委ねられ、そして「このようなことが起こるんだ!」と預言的に示された夢でした。
神さまから受け取ったものをヨセフは忠実に実行に移したということですね。神さまを畏れる姿勢を持っていたと言うことであります。現在私たちが歩んでいる信仰の歩みの中においては、神さまが語られたみことば、これに対応して、実行に心を注いだということであります。決して彼はエジプトの栄華や、妻の持っていた偶像に心を奪われることはなかったのです。ここに彼の信仰があるわけです。本当にこの神さまの思いを忠実に受け止めて実行に移すことが、ヨセフが神さまの前に豊かに祝福され、用いられた大きな秘訣であったということを、また誘惑から守られて、神さまの前に祝福を失うことなく歩むことができた秘訣であるということを見ることができるのです。