ヨセフの人生から学ぶ

2024年7月14日(日)新城教会牧師 四元雅也

創世記45章7節
“神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。”

ハレルヤ!おはようございます。皆さま、暑い日々が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。梅雨がなかなか明けなくて、大雨もあったりして、あまり嬉しくない気候ですね。体調を崩しやすい時期ですので、お互いに祈り合いながら、体調管理をしっかりと行い、毎日の働きや神さまの前での歩みを続けていきたいと思います。

神さまのための働きも続けて行われていますが、リバイバルミッションの方では、先週から中部地区でGoToミッションが行われています。田中進先生とエイジアさん、岩井夫妻が奉仕に当たっておられ、この時間も豊田で集会が行われています。また、今日の夕方は豊橋で、明日は三重で集会があるとのことですので、ぜひ覚えてお祈りいただきたいと思います。

新城教会では、先週は記念すべき霊的戦いの開戦記念日がありました。七月九日で三十二年が経ち、三十三年目に突入しました。それに向けて私たちは心を整え、とりなしの祈りがされ、今日もこの午後、バスで地域を巡って祈りを捧げ、賛美を捧げる時が持たれる予定ですので、ぜひ皆さんご参加いただきたいですし、お祈りもお願いしたいと思います。

さて、今日は創世記のみことば、今お読みいただいた創世記四十五章七節・八節だけではなく、創世記の中で三十七章から五十章にかけて書かれているヨセフの人生から恵みをいただこう、そんなときにしたいと思っています。
今回改めて、いわゆる「ヨセフ物語」と言われているこの個所に目を通し、とても感動しました。これまでにない発見があり恵まれたのですが、最初に心にとどまったのが、この物語はとても美しい文章だなぁ、「作品」と言ってはいけないかもしれませんが、一言一句無駄な言葉がないと感じました。よく考えたら聖書は一言一句無駄な言葉がないわけなので当たり前なのですが、考えると、すごく美しい文章だと感じました。
そしていろいろ調べてみました。そうしましたらさらに興味深いことを知ることができました。

 ヨセフ物語の構造は「キアスマス構造」と呼ばれる文書構造があります。A、B、C、D、と進み中心にXがきて、反対側はD’、C’、B’、A’となります。このように、ヨセフの物語の全体像は、対称的な構造になっています。
中心Xを境に、左右対称の逆向きになるよう順序を逆にして繰り返している。このようにすることで、文章がより豊かに、そこに書かれているテーマや意味をより強調して伝えることができるのだそうです。ヨセフ物語、この書物全体が、「キアスマス構造」になっているということです。

この図を見て、ピンときた方もおられるかもしれませんが、山崎ランサム和彦先生が聖書全体の構造を解き明かすために用いておられる手法と同じです。山崎先生は聖書全体をイエス・キリストを中心とした対称的な集中構造として考えることができると説いておられます。

 上から下に向かって、歴史の流れが続いており、旧約聖書の始まりから黙示録に書かれている預言に向けて流れていくわけですが、その中心にいるのがイエス・キリストである。
イエス・キリスト以前では、創造に始まり、悪の起源、そして神の民イスラエルの歴史が描かれ、イエス・キリストが十字架にかかり復活されてからは、神の民の刷新、いわゆる教会の歴史が始まり、悪の滅びと創造の刷新へと繋がっていきます。「キアスマス構造」と言うことができると思います。
ここでXと付けられている中心点が、それ以外の部分を対照的に並べることにより、より鮮明に強調されるのです。
この「キアスマス構造」を理解する基本原則は、初めから終わりへと一方向に読むのではなく、両側から中心に向かう流れを理解することが大事だということです。
私たちは通常、文章を読むとき、文字の流れと思考の流れが一方方向に向かっていくような理解を無意識にします。これは西洋的な考え方が私たちの中に刷り込まれているためです。
二千年以上前の古代オリエントの異なる文化、異なる言語で書かれた聖書を読むときにも、そういった考え方になってしまうわけですが、これは古代の聖書の時代の人々の考え方と相容れないものだということです。それでは聖書に書かれたテーマの中心部分を見逃してしまう可能性があります。そういう意味で、残念な思考回路・思考の構造だということができると思います。

そしてヨセフ物語における「キアスマス構造」を見てみると、

 こんなふうになるということです。中心部に「イスラエルの系図」と書かれていますが、ほとんど全ての人がヨセフの物語を読むとき、その物語の中心はどこか考えた時に、ヨセフがエジプトの宰相に抜擢され、そしてそのヨセフの元に、ヤコブの家族や兄たちが訪れる場面が思い浮かぶでしょう。ヨセフが自分がヨセフであることを兄弟たちに明かし、劇的な再会が果たされてヤコブとその一族が救われていく。その瞬間が中心ではないかと考えがちではないかと思います。
しかし、「キアスマス構造」から考えるとそうではないのです。驚くべきことに、中心はイスラエルの系図だというのです。
系図を見て感動することは少ないかもしれません。系図は名前がずらりと並んでいるだけで、退屈だし堅苦しいだけの印象を受けるのではないでしょうか?系図の何がヨセフ物語の中心なの?と考えてしまいます。ここにどういう意味があるのか。
今日は時間の関係で、簡単に説明させていただきますが、この最初のAからFの部分では、ヨセフがどんな試練を経験したかが書かれています。彼は試練を通して訓練され、兄弟たちとの再会のときには彼らから疎まれ険悪な仲だったのが和解をし、イスラエルの家族、ヤコブの家族全員が救われていく。家族の回復、救いというものが描かれていきます。
さらに兄弟の中で誰が長子として立てられるのかという、X部分に向けた物語が前半部分で構成されています。また皆さん、読んでいただきたいと思います。
そしてX以降は、その結論として、四番目に生まれたユダがその立場を受け取っていくことが描かれます。ルベンでもレビでもシメオンでもなく、ユダがイスラエルの長子としての立場を受け継ぐということが、結果として後半のF’からA’の所に描かれている。全部の物語の帰結が描かれていきます。

イスラエルの系図は何を意味しているか?やがてヤコブと子どもたち、十二部族からイスラエル国家が形成されます。その中でダビデを象徴するユダ部族から王様が立てられていく。その末からお生まれになるイエス・キリストに繋がる救い主の系譜というものがイスラエルの歴史の中に描かれていくのですが、その大きなポイントとして、ヤコブからユダが救い主の系譜を受け継いでいくことが、ヨセフ物語を通して描かれているのです。
だから、ヨセフ物語の中心は実はヨセフではなく、イスラエル部族がユダの部族を通して救い主に繋がっていくことを物語を通じて私たちに伝えている、ということを見ることができます。

興味深いことなのですが、ヨセフ物語の最初の部分、三十七章二節には「これはヤコブの歴史である」と書かれて物語が始められています。不思議ではありませんか?その後はヨセフの物語がずっと続きますが、ここでは「ヨセフの歴史」とは書かれていません。「ヤコブの歴史」だと書かれているのです。
その中心部分で、アブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれた、救い主につながる系譜をユダが受け継いでいくことが描かれているのです。中心となっているのが、この系図だというわけなのです。
こうして考えると、私たちが全く予想もしなかったところに物語の中心があることがわかります。本当に重要な、イエスさまに繋がる鍵が、この文体の構造の中に秘められているのです。イエスさまが生まれるはるか昔の文章にです。神の計画や聖書の言葉が本当に素晴らしいと、今回このストーリーを学んでいく中で自分自身、改めて実感しました。

皆さんも古代オリエントの地域の文章の書き方、このキアスマスという法則から書かれているものがたくさんあって、聖書全体も各書簡やそれぞれの物語、新約聖書に至るまで、こういった構造が多く見られます。私たちが今まで知らなかった物語の中心、文章の中心に出会うことができるかもしれませんので、ぜひこのような考え方も頭に入れながら聖書を読んでいただくと良いのではないかなと思います。

話は大きく変わりますが、今回私はヨセフの物語を読む中で、いくつかの恵みを受け取りました。今日は、その中から三つの恵みについて皆さんにお話しし、メッセージをお届けしたいと思います。

私自身がヨセフのストーリーから受け取った三つの恵みは次の通りです。一つ目は、「すべてを最善とされる神さまの計画。」二つ目は、「人生の中心軸を自分から神さまへとシフトされたヨセフ。」そして三つ目は、「神さまの思いを受け止め、忠実に行動に移したヨセフ。」この三つのポイントについてお話しします。

まず一つ目の、すべてを最善とされる神さまの計画について、創世記三十七章の十五節から十七節を読みます。

“彼が野をさまよっていると、一人の人が彼を見かけた。その人は「何を捜しているのですか」と尋ねた。ヨセフは言った。「兄たちを捜しています。どこで群れの世話をしているか、どうか教えてください。」すると、その人は言った。「ここからは、もう行ってしまいました。私は、あの人たちが『さあ、ドタンの方に行こう』と言っているのを聞きました。」そこでヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで彼らを見つけた。”

この箇所は、私自身これまで何気なく読んできた場所なのですが、最初にこの箇所に目が留まりました。そして「ヨセフの物語は美しいなぁ」と思ったきっかけになったのがこの箇所でした。彼が十七歳から三十歳までの十三年間、人生の中で大きな試練に遭遇したわけですが、そのきっかけとなった出来事です。お兄さんたちが荒野で羊の群れを追っていたとき、お父さんがヨセフに「お兄さんたちの様子を見てきてくれないか」と頼み、ヨセフが「はい!わかりました!」ということで、荒野に一人で兄たちを探しに行きました。
その中で、ある人がヨセフと出会い、兄たちがどこにいるかを教えてくれました。その人が「ドタンの方へ行こうと言っているのを聞きました」と言い、その通りに追いかけていったら、兄たちがいました。この物語がきっかけとなって、ヨセフの試練と彼の成長が描かれていくのです。
「ある人」としか出てこない、そこから後には登場しない人ですが、クリスチャンである私たちからすると、天のみ使いか、旧約聖書に登場されたイエスさまか、想像を膨らませることができます。
しかし、ヨセフにしてみるとその人と出会ったことで兄たちの行方を知ったのです。荒野で人に会うことさえ珍しいことだと思いますが、ヨセフにとっては「よし、やった!」と思ったことでしょう。
兄たちのところに追いかけて行き、出会ったとき、兄たちは「夢見る者が来たぞ」と言って、ヨセフを捕まえて殺そうとし、穴に落とし込みました。そして、ちょうどそのときミデヤン人のキャラバン隊が通りかかり、ヨセフは彼らに売り飛ばされ、エジプトに奴隷として連れて行かれることになります。
その後、ヨセフは長い間奴隷として、さらにもっと長い間囚人として牢屋で過ごすことになります。そのきっかけになった出来事です。だから彼はその人と出会った時には、「よし!主は私と共におられる」と思ったかもしれませんし、単純に「ラッキー!」と思ったかもしれませんが、その後の苦難が続いたことで、ヨセフにとってこの出来事は長年にわたって人生の一番恨めしい汚点となった出来事だと思うのです。「なんであそこで・・これは神さまだと思ったのに!」と、思ったかもしれないですし、出会わなければ少し探しても見つからなければ、お父さんのもとに帰り「見つかりませんでした」と報告するだけで済んだかもしれません。本当に彼にとっては思いもよらない苦しみの始まりであった。
しかし、神さまの計画は違いました。ヨセフはその後、何年も経ってこの出来事の本当の意味を理解することになります。この出来事があったからこそ、彼はエジプトの総理大臣となり、父と家族を救う立場に立つことができたのです。神さまの計画は本当に素晴らしいです。