〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
大きな喜びをお知らせします!Part2

2023年12月10日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書 2章8~11節

“さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。”

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!素晴らしい賛美を聴くことができまして、心が熱くなり、喜びで満たされています。
昨晩も本当にすごいコンサートでした。無料でコンサートを開催させていただいたのですが、ちょうどよく、会場いっぱい集まってくださり、熱い夜となりました。
昨晩、わざわざ遠くから来てくださった方々が、今日の礼拝にも参加してくださっているみたいです。心から歓迎します。
クリスマスは人と人とを結びます。何か心が通じるムードがあります。それは神であるイエスさまが来てくださった証拠です。

世界には多くの宗教があります。しかし歴史のただ中に神が人となって生まれたという宗教はありません。日本の神道や仏教を含めて、神々の世界は、神話の世界です。神話の世界は、人の手には届かない世界です。ギリシャ神話にしても、ローマ神話にしても、ケルト神話など、皆、神々の世界は人間の歴史から離れたところにあります。ですから、その物語を検証することは不可能です。
しかし、キリスト教は違います。歴史のただ中に、神が人となって生まれてくださったからです。歴史の中でイエス・キリストを確認できます。それが事実であるか否かを確認できるわけです。
イエスさまがお生まれなったのは、歴史的事実です。今年は紀元二〇二三年ですが、それは、イエス・キリストが生まれて二〇二三年経ったという意味です。
最初にそれを計算した人が、暦を間違えて、数年、間違っているとは言われますが、イエス・キリストのお生まれは事実として確認されています。
また、その時代的背景も、世界史の中で確認できます。イエスさまがお生まれになった時代、イスラエルはヘロデという王が支配していました。それは聖書だけではなく、歴史家が記録している史実です。

現在、イスラエルで大きな戦いがありますが、そのルーツをたどると、ヘロデ大王の時代にまでたどり着きます。
ヘロデは、ユダヤ人ではなく、イドマヤ人でした。彼らはエドム人とも呼ばれていました。純粋なイスラエル人ではなく、他民族の人物が王となっていたのです。彼はイエスさまが生まれたのを聞いて、恐れ、二歳以下の幼児を皆殺しにしました。歴史はちょっとしたことで大きく変わります。
一人の人生がどう展開するかで、後に大きな影響を残します。私たちも注意して生きなければならないです。

イエスさまがお生まれになる以前、紀元前二世紀、「ユダ王国」の南には、「エドム王国」がありました。ユダ王国は、主にユダ族の人たちが住んでいたのですが、なぜか、イエスさまの生まれた頃は、イドマヤ人(エドム人)がユダヤの王となっていました。
なぜそんな不可解なことになっていたのかというと、これもまた、一人の人物が関わっています。それはヨハネ・ヒルカノス一世という人物です。
旧約聖書はイエス・キリストが生まれる四百年前で情報が停止しています。その後、四百年を経て、新約聖書の歴史が再び始まります。そこには四百年の空白が存在します。
旧約聖書から新約聖書を連続して読んでも、実際は不連続部分があるのです。しかし歴史は連続していたわけですから、その部分は聖書から情報を得ることは出来ませんから、考古学や世界史など、様々な当時の文書、資料を組み合わせないと理解できません。

紀元前二世紀頃、ユダ王国にヨハネ・ヒルカノス一世という王が在位しました。彼はレビ族を祖先とする祭司王でした。彼が何をしたのかというと、かつての北イスラエル、サマリア人たちが住んでいる地域を攻めて、サマリヤ人たちを虐殺し、ゲリジム山にある彼らの神殿を破壊したのです。私は二度、この現場に行ったことがあります。そこに行けばヒルカノスの行為を目で確認できます。
ヒルカノスはサマリヤだけでなく、南に位置するエドム王国をも攻めて制圧し、住民たちを力ずくでユダヤ教徒に強制改宗させたのです。この歴史はなかなか語られない史実ですが、考古学の発掘でエドム王国の存在は確認されています。
イエスさま時代の「ユダヤ」とは、ユダ王国とエドム王国を合体した名称であったのです。「ユダヤ人、ユダヤ人」と言いますけれど、ユダヤ人とは、ユダの人たちだけを指すと思っていたのですが、そうではないのです。
ユダとはユダ族の人たちのことですが、イドマヤを合わせて、「ユダヤ」という名称になったというのです。
イエスさまの時代から、すでにユダヤ人は純粋なイスラエル人ではないのです。歴史的には、エドム人たちと一緒になった民族がユダヤ人となったわけです。
イエスさまがお生まれになった時代的背景は、まさに、このような時代でした。

遡れば、エドム人たちはヘブル民族が出エジプトした時、通過を阻止した歴史があります。そのためヘブル民族は、四十年もの間、荒野を彷徨うはめになったのです。それゆえ、神はエドム人をのろいました。旧約聖書最後のマラキ書を見ますと、次のように預言されています。

“たとえエドムが、『私たちは打ち砕かれたが、廃墟を建て直そう』と言っても、──万軍の主はこう言われる──彼らが建てても、わたしが壊す。彼らは悪の領地と呼ばれ、主がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。”(マラキ書 一章四節)

ヨハネ・ヒルカノス一世は祭司で預言も知っていたはずですが、エドム人たちを強制的にユダヤ教に改宗させ合併し、その結果、「ユダヤ人」というグループの国家ができたのです。その影響は現代にまで続いていると私は考えています。
どうして現在のイスラエルは、国際社会を無視するような過激な行動を取るのか。その一因に、今述べた歴史が関わっているのではないかと、私は考えています。エズラやネヘミヤたちによって回復された、純粋に神に従うユダヤ教ではなく、神の教えから離れた現実があるからです。
イエスさまの時代、すでにユダヤ教は神に敵対する思想となっていました。その中心に、パリサイ派やサドカイ派と呼ばれる学者集団が存在していました。イエスさまの宿敵は、特に、「パリサイ派」と呼ばれるグループでした。これはエドム人たちから出てきたとも言われます。イエスさまはパリサイ派のことを「マムシの末」と呼んでいます。マムシ、蛇とは、「悪魔」を指します。エドムとは悪魔に支配された国であり、民族でした。
このように歴史的にも、霊的にも、最も混乱した時代に、イエスさまは誕生されたのです。
私たちの信仰は空想ではなくて、歴史的事実に基づいています。検証不可能な神話に基づいているのではないのです。
しかし日本人の多くは神話に基づいた空想を、信仰の基礎としています。日本神話も、仏教の経典も、皆そうです。仏教の経典はヒンズー神話に基づいています。

イエスさまに関しては、生まれる以前から、既に、預言がありました。旧約聖書を見ますと、イエスさまのお生まれは、多くの箇所に預言されています。
特に有名な預言がイザヤ書にあります。それは紀元前七百年ぐらいの書です。イザヤ書六十一章一〜三節を読みますと、このように記されています。

“神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。”

ここに『わたしを遣わされた。』の「わたし」は、「イエスさま」の事です。お生まれになる七百年も前に、何のために来られるのか?が預言されているのです。
『貧しい人に良い知らせを伝えるため』と、七百年前に預言されていました。今日、読んでいただいた聖書箇所にも、『この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。』と韻を踏んでいます。まさにイエスさまは心傷ついて悲しんでいる人たちに、慰めを与え、励ましを与え、喜びを与えて下さるのです。この役割は現在に至るまで変わらず続いています。
今日、皆さんの中に、いろいろな悲しみや苦しみで、心傷ついている方がおられるなら、この事実に基づいて、イエスさまはあなたの人生を大きく変えられます。

昨日もマキーダさんが、勇気ある自分の人生についての証しを語ってくださいました。かつて彼女は自殺ばかり考えていたようです。なぜなら彼女の過去に、大変辛い経験があったからです。口には言えないようなことがあって、心が深く傷ついていたのです。
彼女は死にたくて、死にたくて、しかたなかったと語っていました。しかしそんな彼女のところに、神が「生きなさい。生きなさい。カヤ!」と言葉をかけて下さったと話していました。神は私たちが勇気を持って生き抜くことを望んでおられます。
「人生をやめたい」と考えていたら、やめてはいけません。生きてください!神は私たちを励ましておられます。なぜなら、私たちには、神から託された使命があるからです。現在、どんな環境でも、命のある限り、精一杯、生きるのです。人生の目標は、神にあります。神によって造られた者は、神のために生きるのです。
昨日、平岡先生が素晴らしいメッセージを語りました。楽器も人間が作ったから、人間のためにあるんだと。すべて人間が作ったものは、人間のためにある。だから人間が神によって造られたのならば、神のためにあると語っていました。実は人生の目的とは単純です。私たちが神によって造られたのならば、神のために生きるのです。
もしも様々な問題で苦しんでいるのなら、神であるイエスさまを信じ、見上げて生きて下さい。

実は昨年の今頃、私は人生の中で最もつらい時期を過ごしていました。なぜなら、私の家内が膵臓がんで死にかけていたからです。そして、昨年の十二月十八日の早朝、彼女は天に召されて行きました。振り返ると、ほんとうに大変だったと思い返します。家内も瀕死の状態でしたが、私も、すべての方面で追い詰められていました。
あれから一年が経ちます。まだまだ悲しみは続いていますが、神は、私を助けて下さっています。

私は家内が病気になるまで、炊事洗濯など、家事は何ひとつやったことがありませんでした。自慢にはなりませんけれど、電子レンジの使い方さえわからない馬鹿な男でした。ご飯も炊いたことがなく、洗濯もほとんどやったことはありませんでした。すべて家内がやってくれていました。
家内は自分の死を予感して、私のことを心配してくれました。周りもまた、「順が享子さんを失ったら、生きていけない・・」と話していました。平岡先生も私のことをだいぶ心配していたようです。「順は一人では生きていけんぞ。自分では、何もできんからなぁ・・。」と話していたようです。日本の男性って、この頃は違いますけれど、我々の年代は、そういう男が結構多いかもしれません。
ご夫婦の方、結婚したら、どちらかが先に逝くのです。男性の方、先に死んだほうがよさそうですよ。男が残されるほど大変なことはないからです。本当にどうなるかと思いました。しかし一年を振り返れば、神がおられることを実感します。なぜなら今まで私は生き抜いたからです。結構元気でしょう。陰では泣いているところもあるのですが、一年よくやってきたもんだと自分でも感心します。しかしちょっと疲れたのも事実です。

先日、ある人が夢を見たと言うのです。ごく身近な人間です。天国に帰った家内と夢の中で会話をしたと言うのです。彼は夢の中で、「一年経ちますね。寂しいんじゃないですか?順がそっちに行った方がいいと思いませんか?」と、勝手なこと言いました。
そうしたら、家内は何と答えたかというと、「来なくてもいい!来なくてもいい!彼にはまだ、地上で仕事がある!」と答えたそうです。
どうも私にはまだ、この地上でなすべく仕事があるみたいです。地上での使命が終わるまでは、生きなければいけないのです。
今、生きているということは、どんな環境にあっても、神から委ねられた使命があることを意味します。使命があるのなら、途方に暮れても神がサポートしてくださるはずです。