2023年1月1日(日)新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録 22章20節
『これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』
新年あけましておめでとうございます。ハレルヤ!
今年、新城教会は、この地に植わって七十年目です。私の両親がこの地域に入って伝道を開始したのは七十三年前ですが、新城市に拠点を移して宣教を開始した、新城教会の歴史は、今年、七十年目にあたります。その間、様々なことがありました。今朝は子どもたちが賛美してくれました。彼らは今後の新城教会の担い手たちです。彼らのために祈っていただきたいと思います。
昨晩は九時から0時過ぎまで、「カウント・ダウン・ワーシップ」という集会がありました。そこで私を除く七名の先生方がメッセージを語ってくださったのですが、預言的なメッセージでした。また、二〇二二年に、この教会でどのような活動がなされたのかをまとめた、映像が流されました。もう一度、二〇二二年を振り返って、主に感謝したいと思います。
昨年の十二月、予想だにしない大きなことが起こりました。それは、私の最愛の妻・享子が天に帰ったことです。皆さんの思い出と合わせながら、二〇二二年を感謝しつつ振り返ってみたいと思います。では、よろしくお願いいたします。
<ビデオ>
いかがでしたでしょうか。様々なことがありましたけれど、主に栄光をお返しします。一言お祈りします。
「父なる神さま、感謝します。二〇二二年、様々なことがありましたけれど、守ってくださったことを心から感謝します。新しい年、二〇二三年が始まりました。主よ、導きと励ましを与えてください。新年の礼拝を心から感謝します。今日ここに来てくださったお一人一人、ネットで参加されている方々お一人一人、新城教会のからだに属するすべての兄妹・姉妹に祝福がありますように。尊いイエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。」
もう一度、主に、すべての栄光をお返しする拍手をおささげしましょう。ハレルヤ!
二〇二三年が始まりました。今年はどんな年になるのでしょうか。二〇二二年のスライドを見ましたけれど、予想だにしないことが起こるのが、人生であり、世界の歴史です。
家内も昨年の九月までは元気でした。三年四ヶ月前に膵臓癌末期と診断されましたが、祈りによって癒され、手術もできないと言われていたのができるようになって、一年が経過しました。「良くなりましたね。転移がない人の治験に入ってください」と医者から言われていました。そんな中で、十月ぐらいから調子が悪くなって、十二月十八日には、天に帰って行きました。
明後日、一月三日は家内の誕生日です。六十七歳になるのですが、少し短かったなーと思うのですが、本当にパワフルな人でした。六十七年間、全力で駆け抜けた人生でした。
高校生の時にクリスチャンになって、約五十年間、忠実に主に仕えました。最後は少し苦しい時もありましたけれど、天国に帰る直前、どんな感じだったかというと、私はちょっと寝ていたのですが、娘に「来て!」と呼ばれて家内の部屋に行きましたら、天に帰る十秒前位でした。魂ロケット、発射寸前みたいな場面でした。
その少し前の状況を娘から聞いたら、家内は両手を天に上げて祈り始めたそうです。「祈っているなぁ」と見ていたそうですが、突然、力が抜けて、天に帰ったと言うのです。
何を祈っていたのかなぁと思うのですが、確実に、彼女は神の国に入ったと信じています。もう少し長く生きて欲しかったと思うのですが、これが彼女の一生、神が定められた寿命であったと思います。本来ならば、病で六十四歳の時に死んでいたはずが、祈りによって三年間、命を付け加えていただきました。奇跡の中で彼女は天に戻って行きました。彼女も、もう少し長く生きたいと願って、悲しみながら天に帰ったのかなぁと思ったのですが、孫の勝門(かつと)が、今回、主に用いられて、いろいろな場面に祈りで私たちを励ましてくれました。神さまは、幼子を使われます。
家内が召天して、私ががっかりしていたら、彼が来て、私の頭に手をおいて祈ってくれました。「じぃじが、元気になりますように。」と。そして、彼がこんな祈りを続けてしました。
「ばぁばは、残念な思いで天に帰ったのではないことを感謝します。感謝しながら、すべてを理解して、天に帰ったことを感謝します。」と祈りました。小学一年生の祈りではないなぁと思いました。彼は未熟児で生まれたので、本来は、こども園の年長の男ですが、今、一年生です。彼を通して、主は語ってくれました。
二〇二三年も、何があるのかなぁと、ちょっと不安にもなります。コロナ騒動も続いています。
私と家内、コロナから守られました。私も家内もワクチン接種をしていません。ワクチン反対派ではないのですが、家内の手術だとか、何だかんだで機会を失いワクチンを接種していません。その間に、娘の家族全員がコロナになりました。教会、ミッションのスタッフたち、ほとんどがコロナに感染しました。コロナ・ウイルスに周りを囲まれましたけれど、私と家内は守られました。家内なんか、コロナに感染したら、一発で死んだはずです。しかし守られました。そのことだけでも、奇跡だと思います。家内は、定められた時に、主が天に連れて行ってくれたと確信します。
今年もこの中から、もしかしたら、天にお帰りになる方も出るかもしれません。あなたかもしれませんよ。そう指さすと、三本指は自分のほうに向いていますからね。私なんか危ないです。だいたい男って、奥さんを亡くすと、三年以内に亡くなる人が多いそうです。しかし奥さんがご主人をなくすと、三十年生きるそうですけど。「あぁ楽になった」みたいな感じでしょうか。男は何もできませんから、私もこれからが勝負です。いつ死が襲ってくるのか分かりません。
しかし私たちクリスチャンは、死は敗北ではないのです。去年のテーマは「主の復讐の年」でした。私の身内や家内が亡くなったので、「敗北じゃないか」と思っておられたら、それは間違いです。
キリスト教の中心は、「死に対して真っ向から挑み、勝利する」というテーマです。キリスト教から「死に対する挑戦」を除いてしまったら、死を恐れる一般の宗教と同じになってしまいます。イエスさまの十字架の苦しみと死によって、死の霊・悪魔に挑戦し勝利するテーマが中心にあるからです。そして私たちクリスチャンは、自分の十字架を背負って、イエスさまに続く者なのです。
伝道者の書の七章一節に、
『名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。』
どうでしょうか。誕生日はお祝いしますけれど、死んだ日をお祝いする人っていますでしょうか。よほど憎らしい人が死んだら、敵がお祝いするのかもしれませんが、普通、自分の父母の誕生日はお祝いしますけれど、「親父が死んだ日」とか、「お袋が死んだ日」を盛大にケーキを買ってきてお祝いする人はいないと思います。
しかし聖書は、生まれる日よりも死んだ日の方がめでたいと言うのです。パウロもピリピ人への手紙一章二十一節で、
『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。』
と語っています。「益です」とは、「死ぬことは利益だ」と言う意味です。誰もが迎えなければならない「死」。死に勝利できるのは、イエスを救い主として信じる者のみです。主を信じる者たちにとって、「死ぬことは利益だ」と告げています。
どんな利益があるのか。それは永遠の命がその先にあるからです。
教会はなぜ、一生懸命に伝道するのでしょうか。それは人生は死で終わらないからです。その後の世界があるから、一生懸命、福音を伝えるわけです。
現在、海外旅行はなかなかできませんけれど、海外旅行をされた方は分かると思います。出国の列に着く時、パスポートとチケットを持って、係官の前に出ます。なんとなく緊張します。出国したら、その後、他国に入国するわけです。
人生も同じです。家内も一人、六十七歳で、地球から出国して行きました。
しかし死んだ瞬間、家内はびっくりしたと思います。「世界では、こんなに大勢の人たちが一度に死ぬのか!」と。毎秒、毎秒、何千人、何万人という人たちが死んでいくわけですから。その行列に着いて、「あなたはなぜ死んだのですか?」「私ですか。癌で死にました。あなたは?」「私は老衰です」とか、「交通事故です」とか、死亡原因は数々ありますけれど、やがて誰でも、地球から出て行かなければいけないわけです。
でも、出て行った後が重要です。出て行った後は、次の国に入国するからです。海外旅行はそうでしょう。日本から出国したら、お隣の韓国に行くとか、中国に行くとか、アメリカに行くとか、様々の国に入国するわけです。
我々がやがて地球を出国したら、どこに入国するのでしょうか。入国可能な国は、たったの二つだけだというのが、聖書が告げる所です。それは、「神の国」か、「悪魔の国」の二つのうち一国です。我々は否が応でも、どちらかに入国しなければならないのです。
神の創造された次元的世界は、第一の天から第三の天、そして、諸天がその上にあります。第一の天とは、私たちの住んでいる物質の世界です。その上に、第二の天が覆いかぶさっています。それは悪魔が支配している国です。
我々が住んでいる、第一の天は、第二の天、悪魔の王国の強い支配と影響下にあります。しかしその上に存在するのが、第三の天、「神の国」です。
聖書には第三の天以上の領域を示唆する「諸天」という表現もあります。第三の天以上の空間も、神の国の支配領域に属していると思われます。
現代の宇宙物理学では、時空を超える高次元が存在する事を、理論的に証明しつつあります。十一次元ぐらいまでの次元を重ねないと、宇宙を解き明かすことはできないと言われます。『はじめに神が天と地を創造した。』の「天」は単数ではなく「複数」です。神は緒天と地を創造したのです。
第三の天とは、死後に入国可能な、神の国の領域です。もしも私たちがこの地上で第二の天、悪魔の支配と影響を強く受けていたら、どうなりますか。第二の天に行ってしまうわけです。パスポートとビザで相手国への入国が決まります。
例えばアメリカに行こうと言っても、アメリカに入国できる許可がなかったら、入ることはできないです。同じです。「第三の天、天国に行きたい。」と言っても、入国許可証がなかったら入ることはできないのです。第三の天に入国許可を与えるのは、唯一、天国の地上オフィスである教会です。
教会に来られて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるならば、悪魔の国の支配を受けている地上にあっても、第三の天に入国できる許可証が与えられるのです。
私の家内も、先日まで第一の天にいたわけですけれど、死んだ瞬間、第三の天に移ったと思います。今は神の国で永遠に生きています。私には悲しさもありますけれど、どこに行ったのかがはっきりしていますから、前向きに歩んでいきたいと、願っています。
孫たちが、「じぃじは講壇に立つと元気になるね。ずっと講壇に立っていたほうがいいんじゃない?」と言います。そりゃぁ、家に帰ればがっくりすることもあります。しかし家内は第三の天にいます。第三の天は、第二も第一も貫く次元です。家内がどこにいるのかと言ったら、「ほら、ここにいる」ということではないのでしょうか。
人々がイエスさまに「神の国ってどこにありますか?」と質問すると、「あなたがたのただ中にある」と答えられました。その回答は、物理学的にも正しい答えです。
私たちが住んでいる時空以上の空間があるとしたら、ドラえもんのどこでもドア状態の空間であるはずです。それ、欲しいですよね。時間と空間を超えて、戸を開けると他国に行ったり、他の領域に行くわけです。時間とか空間を超えた領域が、我々の住んでいる時空の只中にあったら、「神の国ってどこにあるのですか?」と質問されたら、「あなたがたのただ中にある。」と言えるわけです。見えなくても、私たちのただ中に、第三の天は重なっています。この教会から天に帰っていった人たちは、七十年間に何百人もおられると思います。「その人たちはどこにいるのですか?」と質問されたら、第三の天、神の国は、あなたがたのただ中ということですから、私たちと一緒に重なるように、目には見えませんが、存在しているということです。