2023年6月4日(日)新城教会主任牧師 滝元順
コリント人への手紙 第一 15章3〜5節
『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。』
ハレルヤ!おはようございます。
和基君の演奏、もう一曲やってほしかったですね。六月十六日には豊橋で彼の演奏会があります。素晴らしい演奏家に育ちました。お近くの方、ぜひ、ご参加ください。
また十七日は、この教会で素晴らしい集会があります。それは上條頌君と、多和田さんという歌手が来られて、平岡先生の息子さんがメッセージを語る、「アコースティックナイト」があります。十六日と十七日、素晴らしい演奏を聞くことができます。ぜひともスケジュールに入れておいて下さい。
皆さんに祈っていただき、私の白内障、緑内障の手術も無事に終わり、皆さんのお顔もだいぶ見えるようになりました。世界が明るくなりました。家内が昨年の十二月に天に帰って、早、六ヶ月が経とうとしています。その間にも様々なことがありましたが、守られ、心からお祈りを感謝します。
先週はバプテスマがありました。この二人の少年たちが受けたのですが、バプテスマを前にして、「お前が先に受けろ。お前が先だ。」とか言いながらもめていて、面倒くさかったのですが、二人一緒に洗礼を受けました。
「なぜバプテスマを受けたの?」と左の少年に聞いたら、ある時イエスさまから、「バプテスマを受けたらいいことあるよ。」と声をかけられたと言うのです。だから受けたというのです。主は時々、何も考えていないような少年たちに情報を与えると思うのです。まだバプテスマを受けていない方は、ぜひ、受けて下さい。
昨日、この少年に「いいことあった?」と聞いたら、「まだない。」と言っていましたが、人間的に期待するとよくないのが信仰の世界かもしれません。孫も洗礼を受けることができて嬉しく思います。
そしてもう一人の女性の方もバプテスマを受けられました。
先週この近所は大雨で、新城市は標高が高いので守られたのですが、豊川、豊橋方面で被害を受けられた方もおられます。災害が多い時期でもありますので、被造物の管理人として、「必要以上に雨よ降るな!水よ。主をほめたたえ賛美しろ!」と宣言しましょう。
今日は午後から特別なプログラムがあります。新城教会、今年で新城市に教会が建てられて七十年ですが、私の両親が北設楽郡津具村に入って伝道を始めてから、七十二年になります。その原点に行って、賛美して祈るプログラムです。
この場所には、村井與三吉という牧師の顕彰碑が立っています。日本広しと言えども、牧師の顕彰碑がある村は津具以外、どこにもありません。
なぜならば、明治の初期、ジェームス・バラという宣教師が津具に来て伝道したからです。その時、村井先生は小学校の校長でした。しかしクリスチャンになった事で職を解かれ、その後、牧師になって津具で伝道して、村にリバイバルが起こったのです。村の半数ぐらいがクリスチャンになったのではないかということです。この小さい方の石碑は、顕彰碑を建てるためにお金を出した人たちのリストです。約百二十軒の名が刻まれています。相当多くの人たちがこの村でクリスチャンになったに違いないと思うのです。
その村で私の父は生まれました。父の家はキリスト教反対派だったそうです。私も津具で生まれました。
今日は私も行こうと思っています。是非とも、ご一緒して、この場所で祈ってください。
三河の山中でのリバイバルって、すごいじゃないですか。この書を書いたのは、賀川豊彦です。賀川豊彦は、ノーベル賞候補に何度も上げられたキリスト教主義の社会運動家です。彼はこの村で病がいやされ、信仰を回復し、世に出たのです。それで村井與三吉先生の碑という、書を書いたわけです。クリスチャンならば、この村の歴史を知らないといけないと思います。日本のキリスト教の原点みたいな場所です。一時半にバスが出ます。リバイバルの火が再度燃え上がるように祈りたいと願っております。
今日、皆さんと一緒に学びたいテーマは、「主イエスの十字架とその奥義」についてです。キリスト教の中心は、十字架です。しかしイエスさまの十字架の意味について、知っているようで、あまり知られてないのです。「・・・私の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださった。本当にありがたい。」ぐらいで終わっています。しかし、キリスト教は旧約聖書から新約聖書に至る何千年という歴史があって、人類史そのものです。
そのような中で、イエスさまの十字架がどのような意味があるのかを理解する必要があるのではないかと思うのです。
しかし何よりも、単純に知らなければならないことは、コリント人への手紙 第一・十五章三〜五節です。
『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。』
信仰生活で最も大切なこととして、パウロが短くまとめています。「私も受けたことだ。」と語っています。偉大な使徒パウロも体験したことです。それは「キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。」
すなわち、イエスさまは十字架で、「私たちの罪の身代わりとなって死なれた」という事実です。罪がない!なんていう人は、誰一人いません。神は聖いお方です。罪があれば神の前に出ることはできないのです。しかしイエスさまが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことによって、罪は赦されたのです。
次に、イエスさまは実際に墓に入ったわけです。けれども、三日目によみがえりました。その後、「ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」とあるように、ペテロに、また、弟子たちに現れたという、目撃証人がいるのです。ある時には、同時に五百人以上の人たちに現れました。
ということは、今でもイエスさまは私たちと共におられるということです。目に見えないかもしれないけれど、共におられます。
先々週、マタイの福音書二十五章から語らせていただきました。やがて、見えないイエスさまが見える形で、この地上に帰ってこられる日が来ます。我々が現在、過ごしている時間軸の延長線上のどこかに、マタイの福音書二十五章のみことばが実現するのです。イエスさまが語られた言葉ですから、間違いありません。
マタイ二十五章三十一〜三十四節、
『人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。』
やがてこの言葉を、イエスさまから実際に聞ける人は幸いです。イエスさまを自分の救い主、キリストとして受け入れているならば、終わりの日に、右側により分けられるのです。今日ここにおられるお一人一人、インターネットで礼拝に出られているお一人一人、誰一人として、左グループに入って欲しくないです。右により分けられる者になりたいですね。
人生最大の目的はここにあります。勉強ができる、できないかは、一時的なことです。終わりの日に、右か左か?右により分けられることが最も重要です。
そのために必要なことが、イエスさまが私の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったこと、葬られたこと、また、三日目によみがえられたこと、そして今も生きておられると信じる事です。
人生って、信じるか信じないかのどちらかです。それが永遠を変えます。ある意味、人生は賭けみたいなものです。「よし!信じるぞ!」と決断するか否かです。
パスカルが「人生は賭けだ」と語りました。信仰の世界は賭けです。イエスを信じるか信じないかの賭けなのです。そのときに我々の永遠が変化します。「イエスさまは、私の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった!」と信じてください。
そして、イエスさまは、ご自身の死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖に繋がれ、奴隷となっていた人々を解放してくださいました。
死は、最低・最悪、最弱の出来事です。人は弱って死んでいきます。家内が天に帰る瞬間を見ました。強くなるのではなく、だんだん弱って死んでいきました。イエスさまも十字架で弱り果て、死なれたのです。しかしイエスさまはご自身の死によって、悪魔をやっつけたわけです。これって、すごいことです。
キリスト教は、不思議な宗教です。普通、神とは、めっちゃ強い、何でもできる!イメージです。聖書はもちろん、何でもできる全能の神という描写も多くあります。しかし同時に、救いの中心が、弱さの極みの中でもたらされたという事実です。
私も歳をとってきました。家内も亡くなって、いろいろな面で、弱さを覚えています。弱くなるのは、嬉しいことではありません。人は弱さを嫌います。しかし実は、弱さって重要なのです。最近、そのことを聖書を学ぶ中で教えられ、自分自身の弱さと共に感じています。お歳を召されて、「弱くなった・・・。」と思ったら、この弱さこそ、最大の賜物なのです。十字架の奥義を通して、その事を学んでいきたいと願っています。
キリスト教は世界三大宗教の一つとか言われます。しかし同時に、人類史は、宗教史そのものなのです。どの時代をとっても、宗教が存在しなかった時代はないからです。共産主義の国々だって、宗教は息づいていました。人類から宗教を取り去ることはできません。「私は無神論だ!」なんて言いながら、心の奥底では困ったときには神頼みをしています。宗教とは、人類に欠かせない要素なわけです。
「宗教」という言葉、日本語だと、「宗の教え」です。「最も大切な教え」という意味のようです。しかし、「宗の教え」となると、仏教的な響きがあるわけです。仏教が最も大切な教え!みたいな響きがあります。
けれども英語だと、宗教はご存知のように、「Religion」です。語源は、ラテン語の「Religio(レリジオ)」です。その元の意味は何かというと、「きつく結ぶ」という意味です。二本の紐を、きつく結び合わせる、それが宗教です。宗教とは、「結び目」のことを意味するわけです。宗教というと、教理だとか、儀式だとか、そういう部類を連想するのですが、元々は「きつく結ぶ」という概念が宗教です。
では何と、きつく結ばれるのか?ということです。
宗教学、考古学の分野から、結び目の根源は何かの調査と研究が進んでいます。そこで発見された宗教の根源は、
「人類史的な尺度から見ると、動物供儀(くぎ)を中心とする犠牲の祭儀(供儀)が宗教そのものであった。」
と言われています。人類史を突き詰めると、それは宗教の根源に突き当たるのですが、「動物供儀を中心とする犠牲の祭儀」だと言うのです。少し難しい言葉かもしれませんが、平たく言うと、動物を殺して、絶対的な存在に捧げる儀式そのものが宗教という訳です。
動物愛護の方からしたら、「ひどいなぁ〜」と感じるかもしれません。しかしアダムとエバが罪を犯したその直後から、人類史全体が、動物供儀を中心とする犠牲の祭儀そのものとなったのです。
『彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。