悪魔もこの原理・原則を逆利用しています。人や動物のいのちを使って、悪魔の国と結んでいるのです。人身供儀は、歴史を見ると世界中にあります。日本でも多く見られます。縄文時代は人のいのちを頻繁にささげて、悪魔の世界と交流していました。
ペルーのインカの遺跡に行きますと、恐ろしいです。毎日のように、女性や子どもたちを殺して、血を流して悪魔と交流していた場所が、数多く残っています。日本にも、様々な場所に痕跡が残っているわけです。
聖書の中で、これはどう理解したら良いのか・・と戸惑う記述があります。それは何かというと、アブラハムが一人息子イサクを神にささげる場面です。
創世記十七章十九節に、
『神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』
アブラハムは百歳、サラは九十歳、子どもを産めるはずのない体で、神によってひとり子イサクが与えられました。そのイサクによって、後の子孫のための永遠の契約とすると神は語られたのです。
しかし神は、イサクを与えておいて、その後、
『神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに示す一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
これは本当に混乱しますよね。神さまが男の子を与えて、成長したら、いけにえとして献げろと言われたからです。
アブラハムもアブラハムです。バイブルリーディングの時に学んだと思いますが、すぐにイサクを連れて、モリヤの山に向かっているのです。私ならば、すぐには行かないです。まずは神さまと交渉します。「なぜですか?」と。
アブラハムは、ソドムとゴモラの時のように、神さまと交渉していません。すぐに旅立っています。なぜだろうか・・・。ちょっと疑問になります。本当に、神さまはこんなこと言うのかな?と。
実はこの箇所、旧約聖書を基本としているユダヤ教、イスラム、そしてキリスト教では、それぞれ、見解が違います。私たちクリスチャンの見解と、彼らの見解とが違うのです。なぜ神さまはこんなことをされたのかというと、その背景に当時の世界観がありました。
当時、モレクという偶像があって、モレクにひとり子を献げるという風習が常態化していました。もしもモレク神に「おまえのひとり子を献げろ。」と声をかけられたら、決して、涙を流してはいけなかったそうです。すぐに、子どもを連れて、生け贄としてささげなければなりませんでした。そうしないと、家族だけでなく、民族全体に不幸が訪れると恐れられていました。それは根強い悪しき風習として、アブラハムの時代を支配していました。
やはりアブラハムも、その文化の中にありましたから、強い影響を受けていたわけです。神さまからの声を聞いたときに、「涙なんか流しちゃいけない!すぐにイサクを連れて行かなくちゃ!」ということだったわけです。
しかし神さまは何をされたのかというと、イスラエル民族から人身供儀のような、悪習慣を断つために、このことを逆利用されたわけです。
カナン地方では「モレク崇拝やバアル崇拝」などで一般的に行われていた悪習慣を断ち切るために、子羊を用意して、イサクを助けられたのです。
子どもを献げなくてもいいんだよ!神はイサクの身代わりとなる、子羊を用意されました。しかし羊を始めとする、動物たちはたまったもんじゃありませんね。けれども、これは一つのシンボルでした。なぜ子羊が用意されたのか。バプテスマのヨハネは、イエスさまを認識したときに、『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』と叫びました。
ヨハネの福音書一章二十九節、
『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』
なぜ、イエスさまは「子羊」と呼ばれたのか。それはイサクのストーリーと繋がっています。愛するイサクを助けるために、子羊が用意されたのと同じように、愛する人類を助けるために、イエスさまご自身が、自ら進んで人類の罪の生け贄となられたのです。ここには、深い神の愛とご計画があったのです。
『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』(第二コリント五章二十一節)
イエスさまが子羊として、ただ一度だけ血を流してくださったことによって、人類は解放されたのです。
そして、ヨハネの福音書三章十六〜十七節、
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』
神は「世を愛された」とあります。「世」とは「コスモス、宇宙」のことを指しています。神の愛は、人から始まって、すべての被造物も含んでいるのです。
人間を救うため、長い間、罪のない動物が犠牲となっていました。しかしイエスさまが、ただ一度だけ神の子羊として犠牲になった愛の犠牲によって、人だけでなく、すべての被造物が贖われたのです。誰も犠牲になることはないですよ!動物だって、犠牲になる必要はありません!なぜならば、神は人だけでなく、被造物全体に対して愛を持っておられるからです。
最初にお読みしました箇所、
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。』
というみ言葉が、ヨハネの福音書三章十六節で帰結しています。
「一人ひとり、わたしの目の前に高価で尊いですよ!わたしはあなたを愛していますよ!」と、声をかけてくださっているのです。
私たちは神の像として造られて、悪魔の国と神の国のボーダーに置かれています。様々な戦いがあるかもしれません。しかし私たちはくじけることはないのです。
ブラックゴスペルは人の心を癒します。黒人の方々の苦しみの歴史から湧き出たものです。それはニグロ・スピリチュアルと呼ばれ、アフリカ系アメリカンが苦しみの中で神から得たメロディーと詩は、多くの人に希望を与えます。
「ギリヤードの香油」という、ニグロ・スピリチュアルがあります。私は、その歌詞に励まされました。
“私が落胆に沈み、やってきたことすべてが虚しかったと思えるとき、聖霊が私に臨み、魂を生き返らせてくださる。天使のように歌えなくても、パウロのように説教できなくても、イエスの愛を語ることはできるのだ。主はすべての人のために死んでくださったと。”
神は私たちを愛してくださっています。私たちを通して、神の愛を世界に、宇宙に、すべての被造物に、発信しようとされています。
お一人一人の上に、神は愛を注いでおられます。時には水の中を過ぎるようなときも、川を渡るときも、また火の中、焼かれそうなときでも、主は助けて下さいます!
私にとって今日は、家内が天国に移住して六ヶ月目の記念日です。私は愛のない者ですが、少しは愛を体験できたのかなと思っています。
これからの人生、どのようなことがあっても、神に愛されていること忘れずに、歩んでいきたいと、心から願っています。
最後に一言、お祈りをさせていただき、献げ物のときとします。
天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝をいたします。あなたがみ子イエスさまを、この地上に送ってくださったことを心から感謝いたします。み子イエスさまが子羊となってくださったことによって、私たちは救われました。感謝します。この愛をすべての人たちに伝えるために用いてください。一人ひとりを神の似姿として、神の像として、今週も戦いに勝利をさせてください。
今からあなたの愛に感謝して、献げ物をいたします。献げ物を受け取ってくださり、お一人一人に祝福がありますように。今からのときをすべて主に委ねて、尊きイエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。