2023年9月10日(日)新城教会主任牧師 滝元順
伝道者の書11章1節〜4節(2017訳)
『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。
あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。
濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。
風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。』
ハレルヤ!お隣の方に、「主は王だ!」と宣言してください。今日も、王なるイエスさまをほめたたえることができて、感謝します。
私の家内が天に帰って、早九ヶ月です。月日が過ぎるのは早いですが、二〇二三年も残すところ、わずかとなりました。最後のパートに主が大きな栄光を現してくださるよう、祈ります。
私の為に憐れみを持って祈り支えてくださっていますことを心から感謝します。昨日は、二人の子どもたちが我が家に泊まりに来てくれました。彼らは午後二時ぐらいからスタンバイしておりましたが、夕食は、焼肉をご馳走することになりました。しかし彼らは、肉をあまり食べないで、綿菓子ばかり食べていました。いずれにしても、多くの人に支えていただいて、高い所からですが、心から感謝を申し上げます。
今日のメッセージ・タイトルは、「〜この地に植えられ七十年〜 主イエスよ。来てください!ずっと後の日になって・・・」です。
先週の水曜日、私がこのメッセージを準備しながら、水曜主日礼拝に参加すると、信弘先生が同じみことばを引用して、先生の視点で語っていました。いやぁ、これは聖霊さまの導きだなぁと感じました。
信仰は、打てば響くというか、すぐに効果が出ないとメリットがないように感じてしまうのですが、決してそうではありません。ずっと後になってから、主のみわざを確認できることが多いのです。
毎回話していますが、新城教会、この地に植えられて、今年で七十年が経過しました。七十年を振り返る時、後になって、主が働いてくださった!と感謝できる事が多くあります。
伝道者の書、十一章一節から四節までを読んでみたいと思います。
『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。
あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。
濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。
風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。』
私は二週間前も、伝道者の書からメッセージを語らせていただきました。伝道者の書はのっけから、「人生はむなしい!」と告げています。
日本語では、「空」と訳されているのですが、なぜ、「空」という言葉を訳語として使うのか、私には疑問です。なぜなら、「空」とは、そもそも、仏教の核心的概念を現す用語であるからです。
原文では「ヘベル」という言葉が使われています。それは「空」ではなく、「蒸気」とか「煙」という意味です。それが三十八回も使用されているそうです。「人生は束の間、儚く、謎と矛盾に満ちている」と言うわけです。
ご自分の道を振り返れば、そのように感じるかも知れません。私なんか本当に、そのように感じます。まさしく、謎と矛盾に満ちているのが私の人生です。
しかし伝道者の書は結論として、伝道者の書十二章十三〜十四節、
『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。』
人生は、生まれ出る時代背景で、全く質が変わります。戦争の最中に生まれた方々の人生は悲惨でした。太平洋戦争が終わって、今年で七十七年が経ちました。今のように見かけ上平和な時代に生まれれば、全く質が違うわけです。アダムとエバから始まって、今まで、どれほどの人類が地上に出現したのかわかりませんが、神はやがて、すべて人のわざを公平に裁かれるのです。神はやがて、あらゆる隠されたことも暴かれて、公平に報いられるお方です。
この神を知る時、謎と矛盾に満ちた人生に意味が与えられます。
前回、エレミヤ書二十九章十一〜十二節も引用させていただきました。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。--主の御告げ--それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』
救い主を特定し、その方に祈るなら、「わたしはあなたに聞く。答える。」と約束されています。儚く、謎と矛盾で満ちた人生ではなく、神の計画があること、大きな意味があることを体験するのです。
『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。』
この記述は、ある意味、謎かけのような言葉です。それがどういう意味かについて、水曜礼拝の時、信弘先生が語っていました。
この箇所の意味は第一に、「一見無駄と思える信仰の行為に思えても、必ず益となる。」という意味だそうです。
信仰生活の中で、日々の祈り、賛美、主への奉仕に、どういう意味があるのか、わからないかも知れません。しかし一見無駄と見える信仰の行為も、それらのすべては益となるのです。
そしてもう一つの解釈について、信弘先生は、「なるほどと思った。」と語っていました。
それは、「大胆な投資が成功もたらす。」という意味です。「それってなに?」と思うかもしれませんが、落ち着いて前後を読むと、「分散投資」のことを語っているのがわかります。
ソロモン王の時代、海上交易が盛んでした。今のように、高速道路やトラック輸送はなかった時代です。交易は、もっぱら海上交易でした。しかしそれは、大きな賭けでした。船に物資を満載して、望む港に着けるかどうかは、天候次第でした。当時の船舶は今の造船技術とは違いましたから、港に到達できたら大儲けできましたが、途中、嵐で沈んだ船も多かったのです。まさしく、水の上にパンを投げるような側面があったのです。
二節では、
『あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。』
これは「あなたの資産を分散投資しておけ」という勧めです。現代は金を銀行に積んでおいても、物価の上昇と金利は乖離していますから、長く積んでおけばおくほど、金の価値は目減りします。ですから最近国も、貯蓄ではなく、投資を強くプッシュしています。なぜなら、「国は個人の資産について、責任持ちません。自己責任で頑張ってください。」ということです。
新城教会は、不思議です。今から数年前に、このテーマを扱わされていたからです。当時は、「えっ?そんなこと、なぜ話すの、ちょっとおかしいんじゃない?」みたいに感じたかもしれません。しかし、「近いうちに、そのような時代が来ますよ!」と語っていました。それは聖霊の導きでした。
それを最初に言い出したのが、家内でした。家内は、ある意味、投資の名人でした。神さまが事前に情報提供してくださっていたのです。
「大胆な投資が成功をもたらす」というのが、この箇所の意味であるというのです。
『風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。』
日本人は、その傾向が強いです。結構、風や雨雲を見て、恐れて踏み切れないところあります。クリスチャンは聖霊によって、大胆にすべての領域において前進したいです。
私たちは、「キリスト教徒」です。キリスト教とは、「イエスは救い主」と宣言し、イエスを中心とする者たちの群れです。旧約聖書の概念を、そのまま受け取ると、おかしな方向に向かってしまいます。あくまでも、「イエスが中心」におられないと、キリスト教ではなくなってしまいます。キリスト教にはユダヤ性が根底にありますが、中心は、常にイエスさまです。
その概念を加えると、次のような解釈になります。
「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令を、「永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいている神の霊に向かって投げよ」とすれば、「ずっと後の日になって、それ(糧・必要)を見出す」という約束になる。
しかもそれは、神の最善の時において、絶妙なタイミングによって実現し、神の国の希望へとつながる。
伝道者の書だけでは、人生は虚しさの塊みたいですが、そこに聖霊の風が吹くと希望へとつながります。イエスさまが人生の中心に立たれる時、人生は変わる!という、強力なメッセージとなるのです。
しかし新約聖書を読み始めて、最初につまずくのは、マタイの福音書が系図から始まる事です。
なぜ、こんな系図から始めるの?という感じです。私が作家だったら、このような複雑な系図からは始めません。もっと興味深いストーリーから始めないと、みんな読むのをやめてしまいます。
しかしここには、大きな意味があるのです。
『アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図』
マタイ一章一節はここから始まるのですが、イエスさまの系図の意味とは、
“マタイは、意図的に系図を十四世代ずつに整理し、重要な人物の名前を記して、イエスは法的にヨセフの子であることを示している。さらにマタイは、歴史的に繋がっている人々を紹介することにより、「神の摂理的な計画によって、神は歴史を通して働かれる」という、「歴史の重要性」を記した。”
と言うのです。旧約聖書の有名人たちを概観し、振り返って、後の日になって何が起こったのかを検証しているわけです。
人生は歴史とともにあります。それは個人史、自分史だけでなく、国の歴史、世界史とも関わりながら、私たちは存在しているのです。
実は今週は、新城教会にとって、一つの歴史的記念日があります。九月十四日が、その記念日です。なぜなら一九五六年九月十四日、新城教会は宗教法人格を取得して、国からも認められたからです。
この地に植えられ七十年ですが、新城教会が法人格を取得したのは一九五六年九月十四日でした。ですからそこから数えるなら、六十七年目です。
「宗教法人格」とは、いいような悪いようなものです。よく祈らないといけない側面が多く存在します。それは、教会が神の支配下と言うよりも、国の支配下に入ることを意味するからです。それも、すべての宗教が同じ傘下に入るからです。税制法上の優遇はあるのですが、やはり、祈りの課題が多いです。
しかし教会は、法人格なくして活動は難しいですから、新城教会の活動が法的に認められたのが、一九五六年九月十四日でした。
このような歴史の流れの中、今まで守られたことを、主に心から感謝します。
最近、統一教会が悪さをしたものだから、解散命令という話も出ています。オウム事件以来、宗教法人に対する締め付けが強くなっています。守りを祈る必要があります。
その背景に、日本がたどってきた歴史が関わっています。私たちの教会も、国の宗教政策の流れの中に存在しているからです。ゆえに、その多くを祈りの対象としなければいけないわけです。
今日のメッセージの中心も、前回同様、証し中心のメッセージです。歴史を振り返る時、水の上に投げられたパンが実を結んだ事実と、主の守りを数多く発見できます。それを意識し、知る時、信仰は強められます。
私の両親がクリスチャンになったのは、戦後まもなくのことでした。両親を救いに導いたのは、戦後、アメリカから遣わされたアキチカ宣教師夫妻でした。夫妻は、一九四七年の十月にアメリカから来日しました。その活動によって、当時、東京に住んでいた、母と父は救われ、バプテスマを受けました。父は一九四九年、母は一年早く、一九四八年のことでした。