今回、中央アジアの人たちと共に祈り、とりなすことが非常に大切だと感じました。
さて詩篇の中にこんなことばがあります。
“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”(詩篇 四十八篇十二~十四節)
この意味は、過去に主が行ってくださったみわざを忘れてはいけないということです。
エルサレムを巡ると、そこには多くの塔がそびえ立ち、城壁があります。それらを見る時、過去に主が行われたみ業を思い出します。かつてアッシリアが攻めてきたとき、主は街を守って下さった、と。そのみわざを忘れずに、後の時代に語り告げることが重要であると言うです。そうすると、「神は死を越えて私たちを導かれる」のです。
死んでしまえばすべてが終わってしまうかもしれませんが、主を信じる者たちにとっては、そうではありません。神は死を越えて導かれるのです。
そのために重要なのは、かつて主が行ってくださったみわざを忘れず、後の時代に語り伝える事です。主が行ってくださった良きことに心を留め、後の時代に語り伝えなければならないと勧めています。そうするなら、世代が変わっても、神は私たちを導いてくださるのです。
私の人生で大きな事件の一つは『主が立ち上がられた日』という本に記しました。ぜひ読んでいただきたいと思います。この本は、英語と韓国語にも翻訳されています。一九九二年七月九日、朝六時に起こった霊的戦いのことです。あの日のことは決して忘れられません。
今年で三十三年目になります。その頃、生まれていなかった方も多いです。
一九九二年は特別な年でした。一九九三年の甲子園ミッションを控えて、日本全国でリバイバルの機運が高まった年でした。新城教会の当時の若者たちも、自主的に真剣に祈り、一九九二年六月、豊川の河川敷でハートフルサーバーを開催し、千二百人ぐらいが集まりました。今は、これだけの集会を実行するパワーはありません。
その年の二月十三日に激しく聖霊が注がれて、七月九日に霊的戦いが勃発しました。その日は折しも、設楽が原の戦いの開戦記念日でした。日にちと時刻も合わせて、主が霊的戦いを始められたのです。この街を覆っている死の力を打ち破れ!という号令のもと、皆で街の覆いを剥ぎ取るために戦い祈り始めたのです。これは代々、語り続けなければならないことです。
一九九二年に聖霊が注がれたのは何を意味するのか。それは、「散らされた民を集めるため」です。これを語り続けなければなりません。
私たちの住んでいる東三河は不思議な地域です。教会前の設楽が原で起こった戦いは、日本の歴史を大きく変えました。また世界の戦争の戦術や戦法をも変えたと言われています。数時間の戦闘で一万数千人が死ぬという戦いは、世界のどこにも起こっていなかったのです。織田信長・徳川家康連合軍が行った火縄銃、三段構えの戦法によって、世界が戦争で銃を使うようになりました。主は、ここから勝ち取る必要があったのです。
さらに、この地域、明治時代にリバイバルを体験しています。何度もお話しさせていただいていますが、ある牧師が次のように記していました。
『二千年前にエルサレムで起こされた出来事が、この日本の文化のなかで事実となり、それが現代の教会のなかに「もっと大規模に実現するのではないか」と、歴史的な事実に立って「リバイバル」を期待していた学者たちがいた。』
リバイバルが起こったのは、最初、横浜でした。それが飛び火して、津具村に拡大しました。津具村には「村井與三吉先生の碑」という、牧師の顕彰碑があります。ジェームズ・バラが村に来て、リバイバルが起こり、村に教会ができて、歴史に残る働きがあったのです。
津具村のリバイバルの火も、やがて迫害されて消えてしまい、今では跡形もなくなっています。
しかし、神はリバイバルの火を、もう一度再燃させるために、リバイバル反対派の中から、一人の男を選び出しました。それが私の父でした。
田中政男先生も写っています。父は津具村のリバイバルを反対していた家に生まれました。しかし彼は東京でクリスチャンになり、後に、リバイバル運動を始めました。しかし父が、田中先生がリバイバルのために働き始めたのも、背後に、神の連続した深い計画があったのです。
父が新城で教会を始めたとき、全国に伝道するという大きなビジョンは持っていませんでした。当時彼は、新城に来る予定はなく、故郷の津具村や設楽町ぐらいで伝道したいと願っていました。しかし家を失い、職もなく、やむをえず知人を頼って新城に来たのでした。
当時、教会に誰も来ないので、しかたなく豊橋の工場で働いていました。しかしそんな中、ある日、神の声を聞いたことを前回も話しました。その声は、彼の著書「我、土方なれど」の一九七ページにあります。
『それから数日後に麻工場の機械を手にしながら働いているとき、実に不思議なみ声を耳にした。確かに、私の耳元で、神の聖霊が語りかけられた。こんな経験は今までに一度もなかった。
「今日、あなたが家に帰ると、スウェーデン宣教師のところから、手伝いをしている三輪町子さんがあなたの家に来ます。そして宣教師はあなたに伝道に来てくれるように依頼するでしょう。そしてあなたは伝道に行くようになります。するとまた、他の宣教師もあなたを伝道に招くでしょう。そして、また他の宣教師もあなたを招き、ついには日本中を回って伝道するようになるでしょう。」』
工場で働いているときに不思議な声を聞いた父は、精神的に疲れているのかと思ったのかも知れません。しかし、その不思議な声は、その日の夕方に実現しました。豊川でスウェーデン宣教師の手伝いをしていた三輪町子さん、私は出会ったことはないのですが、父に、「豊川で伝道集会をやりたいので、講師として来てください。」と宣教師の意向を伝えました。
豊川市での伝道会は大盛況でした。それから、父はさまざまなところに招かれて、日本全国、いや世界にまで展開し、やがてリバイバル・クルセード、リバイルミッションという宣教団体を設立しました。
けれどもその背景に、スウェーデン宣教師たちの大きな影響と協力がありました。
今回、モンゴルに行って、考えもしなかったことが心に巡りました。それは、スウェーデン宣教師たちのことです。彼らは内モンゴル(中国領)を拠点に、モンゴル宣教を行っていた団体でした。モンゴルでネット検索してみると、こんな本が見つかりました。「スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル」という写真集でした。この写真集には、宣教師たちが、モンゴルにどうして来たのかも記されています。
実は、モンゴルに最初に宣教師を送ったのは、スウェーデンの教会でした。北欧の元バイキングの国が、モンゴルに宣教師を送ったのです。一八九七年、フランソンという牧師が、スウェーデンのボルネスという町で集会を開催し、そのときに参加した二人の若者が、モンゴルに宣教に行くことを決意しました。なぜなら、モンゴルには当時、クリスチャンは一人もいなかったからです。気候的にも環境的にも、非常に厳しい地域だったため、他の国々も宣教師を送ることができませんでした。しかし、フランソン牧師がそのことをアピールし、二人の若者が決断して、モンゴルに向かいました。しかし、病気になって帰ってきました。それでもフランソン牧師が作った団体SMM(スウェーデン・モンゴル・ミッション)は、一八九八年から一九四四年までに、三十三名の宣教師をモンゴルに派遣したと言うのです。その中の三名は殉教し、五名が病死し、三人の子どもたちがモンゴルで死亡しました。
SMMの宣教師たちは戦乱が続くモンゴルで、厳しい自然環境の中、言語と文化の壁を乗り越えて宣教活動を行いました。しかし日中戦争が起こり、日本はモンゴルにも介入し、社会情勢が悪化し、一九四四年三月末、SMMの宣教師たちはモンゴルから追放され、宣教所は事実上閉鎖状態になりました。日本が起こした戦争と、その後の共産革命によって、スウェーデン宣教師たちは、国外追放を余儀なくされたのです。
しかしなんと、SMMの宣教師たちは、相次いで日本に移り、SMMはSMJM(スウェーデン・モンゴル・ジャパン・ミッション)と改名して、日本で活動を開始したのです。彼らは敵国である日本に来たのです。宣教師の一人のお子さんは、日本兵に目の前で殺されました。それでも、その家族は日本に宣教に来られたのです。
父が工場で仕事中に神のみ声を聞き、スウェーデン宣教師から招かれましたが、それはオーケ・レナンデル宣教師夫妻という、モンゴルから日本に移動してきたSMMの宣教師でした。
オーケ・レナンデル先生たちが、豊川市のどこに住んでいたのかも分かりました。豊川市古宿町に住んでおられたようです。「一九五一年」とありますが、私が生まれた年です。戦争が終わったのは一九四五年で、四五年に豊川は激しい空爆を受けました。しかし少なくとも六年後には、豊川で宣教活動が開始されていたのがわかります。
宣教師たちはモンゴルで宣教していましたから、モンゴル語や中国語はできたでしょうが、日本語はできませんでした。父は日本人で、日本語で伝道メッセージが出来ると言うことで、伝道会に招かれたのです。その後、日本中に展開し活動していたスウェーデン宣教師たちが父を伝道者として迎えてくれたのです。その結果として、リバイバル・クルセードやリバイバルミッション、そして、新城教会の今があるのです。
こうして見ると、彼らに本当に感謝しなければなりません。当時の写真も残っています。
モンゴルでの写真も残っています。オーケ・レナンデル先生は豊川で教会を建て、その教会は今でもあります。スウェーデン宣教師たちの影響によってリバイバル・クルセードが生まれました。田中先生や私の父、中村先生もモンゴルから避難してきた宣教師たちによって引き出されたのです。それはやがて、甲子園ミッションにまでつながりました。
“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”(詩篇 四十八篇十二~十四節)
ふり返ると、新城教会の歴史を見ても、主が死を越えて導いておられることが分かります。父も、レナンデル先生も、すでに召天されました。しかし蒔かれた種は成長し、死を越えて今でもその働きは継続されています。これは本当にすごいことです。
主がなしてくださったことを忘れずに、世代を超えて語り続けなければなりません。
「全世界に出ていき、すべてのつくられたものに福音を伝えよ!」という、「もの」が実は「すべての被造物」という意味であったことを、主は近年になって教えてくださいました。
神さまは全ての被造物の主です。そして、神が求めておられるのは、「みこころの奥義の実現」です。それはやがて時が満ちると「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」とあります。
聖霊の働きは、散らされた者たち、人だけを集めるのではなく、神が造られた被造物全体を集めることに目的があります。諸天にも神は多くの被造物を創造されました。地上にも、私たちをはじめ、多くの動物や植物を創造されました。それを一つに集められるのです。
それがいつ、実現するのかと言えば、イエスさまがこの地上に帰ってこられる日です。その日、諸天にあるものも、地にあるものも、一切が一つに集められるのです。働きの途中で天に召され、働きを地上に残さなければならなかった人たちも復活します。やがて時代を越えて、主の民が集まり、それぞれの役割を確認し、神の奥義の実現を見て、喜ぶ日が来ます。
被造世界を見ても、復活を信じることができます。家内を失ってから、家内がかつて植えた花たちが枯れても、復活したことを何度も話しました。
しかし今回、モンゴルから帰ってきたら、悲しいことがありました。あの奇跡の花たちが、完全に枯れてしまいました!
暑い日が続いても、水をやらなかったから当然です。でも、しばらく、このままにしておこうと思っています。
しかし何と、家内が残した園芸道具箱の中から、突然、花が咲きました。