大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
なんという幸せ、なんという楽しさ!Part2

2024年7月21日(日)新城教会主任牧師 滝元順

詩篇 133篇1~3節
“見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。”

 

皆さんおはようございます。ハレルヤ!
大変暑い日が続き、「暑い、暑い」とすぐに不平不満が出てしまう今日この頃です。しかし、もしも冬に一日だけでもこのような日があったらどうでしょうか。うれしくて感謝すると思います。これだけ暖房しようとしたら、どれだけ燃料代がかかるのでしょうか。ただでこれだけの暑さを体験できるのですから、少しは、この暑さも主に感謝したらどうでしょうか。お隣の方に「暑さを感謝しましょう」と声をかけてください。
でも、熱中症や脱水には気をつけていただきたいと思います。

子どもたちは夏休みになりました。しばらく我が家に来なかった2ボーイズも、早速やって来ました。彼らが来ると一緒にとりなしの祈りをすることにしています。昨夜は、会堂に来て、礼拝が祝福されるようにと祈りました。そうすると彼らは夢の中で主が語ってくれるみたいです。今朝も「何か夢を見た?」と聞いたら、一人の少年がこう話しました。
「礼拝中に十字架の所にイエスさまが降りてきた夢を見た。」イエスさまがここにおられるのを信じますか?

今、世界中にいろいろ混乱があります。これからどうなるだろうかと心配です。しかしイエスさまが降りてきてくださったら、全てが解決します。見える形で、イエスさまがこの地に帰って来られて、この地の王となってくださったら、世界は変わります。

先日、モンゴルに行きましたが、帰国して早、二十日以上が過ぎました。先週、私は埼玉県の教会で奉仕をさせていただきました。次のスケジュールが入ると、以前の恵みを忘れてしまう傾向があるのですが、恵みを忘れないでいたいです。
モンゴルに行って、主から語られたみことばは、今日読んでいただいた詩篇百三十三篇でした。私だけかと思ったら、ツアー・メンバーの方々も、それぞれこの言葉が語られていました。
「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。」とあります。この言葉はいいですね。こんな体験ができたらほんとうに嬉しいですよね。神が私たちに与えようとしている幸せは、まさに「なんという幸せ、なんという楽しさ」です。至上の幸せであり、至上の楽しさです。
その条件が「兄弟たちが一つになって共に生きる」とあります。「生きる」とは「座る」という意味もあります。
礼拝は、兄弟たち、すなわち、キリストのからだに属する家族が一つになって座ります。この中に幸せと楽しさがあるのです。「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである」とあります。永遠の祝福が、兄弟たちが一つになるところに秘められています。

今回モンゴルに行かせていただき、モンゴルと韓国と日本が一つになり、大きな幸せ、喜びを体験しました。
モンゴルは十三世紀頃には、世界の二人に一人がモンゴル人であったと言われるほどの大帝国でした。
日本人は「モンゴロイド」と呼ばれる、黄色人種に分類されます。日本語に訳せば「蒙古人種、モンゴル人グループ」です。
日本人の赤ちゃんにはお尻に青いアザがあります。孫にもありました。これを「蒙古斑(もうこはん)」と言います。蒙古斑はモンゴル人である印です。ここにいる皆さんも、赤ちゃんの頃には蒙古斑があったはずです。ということは、私たちは皆、兄弟です。
来年は「ゴビ砂漠に来てください!」と言われています。人生に一度ぐらいはゴビ砂漠に行かれてはいかがでしょうか。

創世記の十一章一節、

“さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。”

と記録されています。人類は初めは一つの言葉を話していました。神は人種を作ったわけではありません。皆、一つの話しことばで、同じ場所に住んでいました。それなら誰とでもコミュニケーションができ、グループの中で結婚するので、肌の色は変わらなかったはずです。
しかし、一つの事件が起こりました。

“「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」”

と言い始めたのです。この町のリーダーはニムロデという男でした。この男は邪悪で、人々を集めて町を作り、町の真ん中に頂が天に届く、塔を建てようと計画しました。

“そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。”(創世記 十一章五~八節)

このストーリーを普通に読むと、よく理解できません。なぜ神さまが、こんなにも慌てられたのでしょうか?ただ単に町を作り、真ん中に塔を建てただけでした。名を上げると言っても大したことはありません。神さまはそんなに慌てなくてもいいのではないかと思います。
しかしこの計画が実行されると、神さまは大慌てで降りてきて、計画を中止させたのです。
どうしてだろうか?と不思議に思います。特に神は「天に届く塔を建てる」ことに大きな問題を感じられたみたいです。しかしいくら人が天に届く塔を建てたとしても、大したことではありません。東京タワーや東京スカイツリーでも、何百メートルの範囲です。人間がどんなに頑張っても、天にまで届く塔を建てることはできません。ジャックと豆の木のような話は、現実にはあり得ないです。

ここで、「天」という言葉が出てきますが、英語で見ると「reaches to the heavens」と複数形になっています。ヘブル語でも「シャマイム」という言葉で、語尾に「イム」と付くのは複数形です。ということは、本来は「諸天」と訳さなければならない言葉です。
創世記の「初めに神が天と地を創造した」という「天」も、複数形ですから、「初めに神は諸天と地を創造した」ということです。
現代の天文学の世界では、空間は単一ではなく、高次元が存在することが証明されつつあります。聖書は初めから「神は諸天を造られた」と告げています。「諸天に届くための塔」とは何でしょうか。それは、「霊的世界との交流を目的とした施設」でした。バベルの塔とは、悪霊を呼び、彼らと取引する為の施設でした。
神はことばによって天地を造られました。神のことばは非常に強力でした。「光あれ」と発するだけで光が現れ、すべては神のことばによって造られたのです。
そして「全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。」とは、人類は神の強力な創造的なことばの一端を、裾分けしてもらって使っていたということです。
つまり、初めの人間が持っていたことばは、現在の言語とは比べ物にならない、とてつもなく強力なものでした。ということは、人間はことばという最強の武器を使って、諸天に蠢めく「諸々の悪霊」と交流を試みたと言うことです。それなら「彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。」という意味も理解できます。神のようなパワーを人間が身につけてしまうからです。それは天地宇宙を造った神のためではなく、神に反逆する霊たちと共に、神の被造世界に対抗する施設を建てたのです。悪魔のやりたい放題です。それは現在の地球環境をみたら明かです。

この危機を避けるために、神は言語を混乱させて、神が与えた言語を弱める為に、多くの言語に分割されたのです。そして、人々を世界中に散らしたのです。今、人類は世界中に散って住んでいますが、その原因はバベルの塔にあります。
バベルの塔は現在のイラク近辺にあったと考えられています。世界最初の文明もそこに栄えました。それがメソポタミア文明です。次にエジプト文明、東にインダス文明と続き、その後、黄河周辺に、東周りに散らされた人たちは、やがて南米のチリの先端にまで到達しました。メソポタミアから東に向かった人たちは「モンゴロイド」と呼ばれます。
私は南米に何回も行ったことがありますが、ペルーにカラルという場所があります。そこに行くとピラミッド群があります。
 エジプトにも大きなピラミッドがありますが、ペルーにも多くあります。すべてバベルの塔の模倣施設です。そこに住んでいるインディオの人たちの赤ちゃんにも、モンゴル人の印である「蒙古斑」があります。日本人を含め、東に散らされた人々は、ある意味、神の前に最も罪深いのかもしれません。なぜ、こんなに遠くまで移動して行ったのか、「宗教的な理由以外には考えられない」と宗教学者たちは言います。彼らは世界各地にバベルの塔を建てて、今でも諸天に届く儀式を行っています。
世界に悪しき霊力を撒き散らしたのは、他でもなく、東に向かった私たちの先祖たちではないかと思われます。しかし、今回、モンゴルに行って、このような大きな流れとともに、東の人たちが中央アジアにも進出したことに気づかされました。その地で、神の民が一つとなり、悔い改めることを教えられました。
以前、インダス文明から派生した、ネパールの山地に行って何年も働き続けましたが、不思議と、今回、中央アジアに目を向けさせてくださいました。

人々が散らされた原因は、諸天に繋がる儀式、シャーマニズムにあります。

使徒の働き二章を見ると、聖霊が下った記録があります。「創世記十一章と使徒の働き二章」を対比させて読んでみると、共通点があることに気づかされます。
使徒の働き二章では、弟子たち百二十人くらいが、建物の二階の高いところに上り、祈っていると聖霊が降り、「彼らは他国のいろいろなことばで話し始めた」のです。

“さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。”(使徒の働き 二章五~八節)

聖霊を受けた人々は、主にガリラヤ周辺に住んでいた田舎の人たちでした。地域的にも、文化的にも外国語などできるはずがない人たちでした。しかし聖霊を受けたとき、彼らが突然、学んだことのない他国の言葉で話し始めたのです。エルサレムに滞在していた多くの国々から来た人々は、自分たちの国の言葉をネイティブな発音で聞いて、びっくりしたわけです。

創世記十一章の記事と合わせると、真反対の共通項があります。創世記十一章では人々が散らされ、言葉が分かれてしまいました。
しかし、聖霊が降りて来た時、今まで通じなかった言葉が通じるようになるという、逆現象が起こったのです。まさに、神の言葉の回復です。
私たちが聖霊に満たされるときに、今まで言葉が通じなかった人たちと一致できるはずです。人生で大変なのはやはり人間関係です。同じ日本語を話していても、なかなか言葉が通じないのです。その原因は、性格的な違いや文化・習慣よりも、根本的には、バベルの塔にあります。日本人は偶像礼拝、シャーマニズムに浸かっており、日々、悪霊を呼んでいます。その結果、言葉が通じなくなるのです。
結婚したときにはよく通じたのに、なぜ、通じなくなるのか。同じ日本語でも言葉が通じなくなる原因は、偶像礼拝にあります。しかし、聖霊が下るとバベルの呪いが打ち砕かれます。
教会はそもそも、背景が異なる人たちが多く集まる場所ですから、普通ならば絶対にうまくいくはずはありません。新城教会も設立されて七十四年、聖霊さまの助けがなければここまでこられませんでした。聖霊が来てくださるときに、言葉を越えて国を越えて、一つになることができるのです。