大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
道・真理・いのち

イスラム教は現在、世界的に勢力を伸ばしています。イスラム教の死後の世界観では死後、「一人の男性に七十七人の女性が待っている」とされています。男性の皆さん、変なことを考えていませんか。しかしやめておいた方が良いですよ。地上で一人の奥さんをコントロールできない男が、天国で七十七人もの奥さんを持ったら、それこそ地獄です。そして、女性たちは皆、奴隷扱いです。イスラム教は男性中心的宗教です。この世界を目指して多くの人が一生懸命に信仰しているのです。だからイスラムの神にひれ伏すのです。

以前も話しましたが、キリスト教もいくつかの宗派がありますが、主に、プロテスタントとカトリックがよく知られています。カトリックとプロテスタントでは、死後の世界観が全く異なります。
カトリックにも天国に行くという教えはありますが、天国に行くためには、まずは煉獄で何万年もの罪滅ぼしをしなければならないのです。
このような話をある教会で語ったのですが、一人のおじさんが「分かった!私、イエスさまを信じたい!」と言いました。なぜならその方は長く家族がカトリック信者でした。「人間は死んだら煉獄の火で苦しむ」と教えられていました。地獄の火と煉獄の火の温度は同じだそうです。
カトリック教会の葬式は、プロテスタント教会の葬式とは異なります。天国の賛美歌が歌われることはなく、司祭から遺族への慰めの説教や言葉もない。なぜなら葬儀の目的が、神をなだめるための式だと言うのです。

一方、プロテスタント教会、これはプロテスタントというより、聖書の正しい教えですが、「死後すぐに天に移され、先に天国に移された家族や友人と共に幸せに生きる!」というのが、プロテスタント教会の教えです。これはでっち上げではありません。イエスさまが神の霊を通して語られた言葉です。

“また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」”(ヨハネの黙示録十四章十三節)

ここで使われている「幸い」とはギリシャ語は「マカリオス」と言います。これは、山上の垂訓でイエスさまが「心の貧しい人は幸いである」と言われた「幸い」と同じ言葉です。「幸い」とは、これ以上ない幸せを意味しています。
「今から後、主にあって」というのは、イエス・キリストを道とし、真理とし、いのちとして進んでいく者たちの死は、幸いなものであり、至上の幸福だと教えています。なぜなら、彼らは労苦から解き放され、休むことができ、彼らの行いが彼らに付ついて行くと告げられています。

輪廻して幸せとは言わないと思います。先祖の霊から変質して鬼になり、祟る霊になることが幸せだとは思えません。煉獄に行って幸せでしょうか。
聖書は何と語っているのかというと、「イエスを道として歩んでいくならば、死後、すぐに神の国に入り、先に同じ道を歩んでいった者たちと、共に幸せに生きる。」のです。

ということで一番から六番までの「死後の世界観」、結び目、誰と握手するのか。これは人にとって、重大な問題です。皆さんは、誰と握手されますか?
素直に考えれば、六番を選ぶのではないでしょうか。私は絶対に六番を選びます。なぜなら、二年前に、家内が一足先に天に帰ったからです。六番しかあり得ません。

家内はクリスチャンとして、プロテスタント教徒として、天に帰って行きました。実は、家内は、もともとはカトリック信者でした。カトリックの高校に通い、シスターとも親しくしていました。しかし、家でちょっと問題があり、新城に教会があると聞いて訪れたところ、それがカトリック教会ではなく、プロテスタント教会だったのです。運がいい人ですよね。あの人、あのままだったら、煉獄に行って今頃、火の中です。しかしプロテスタントで一生を終えましたから、即刻、神の国に入り、今も、私を待っています。だから私は絶対に六番を選びます。

私も教会の息子に生まれて本当に良かったと思います。もしも教会の息子に生まれなければ、きっとキリスト教徒にはならなかっただろうと思います。よく家内に言われました。「あんたクリスチャンじゃなかったら、きっと大変な男になっていたわ」と。本当にそうかもしれません。クリスチャンになれて本当に良かったです。

先週、沖縄に行って、少ししんみりしたところもありました。
この写真は、私の隣で家内がにっこり笑っています。五年前に沖縄に行った時、最後に奉仕した教会で撮った写真です。今回、同じ教会に行き、メッセージを語らせていただきました。写真が撮られたのは二〇一九年の八月の終わり頃でした。そのとき家内は少し体調が悪いと言っていました。
十月になって病院で診察を受けたところ、「あなたは膵臓がん末期です。余命は三ヶ月から四ヶ月です」と宣告されました。
結婚すると、このようなこともあり得ると、想定内としておかなければならないと思います。
最近、婚約式や結婚式が多く、嬉しいです。しかし、結婚するとどちらかが先に、天国に行く日が来るのです。これは避けられない現実です。しかし教会で婚約し、結婚するなら、同じ死後の世界に行くことができますから、問題ありません。
私も覚悟していたつもりでしたが、まさか家内が先に逝くなんて、これっぽっちも考えたことがありませんでした。絶対に自分が先に行くと思っていました。

家内が五年前、沖縄から帰った後に「あなたの寿命は三ヶ月から四ヶ月です」と宣告された瞬間、本当に時間が止まったような気がしました。
でもそんな中で奇跡が起こったことを、私は何度もお伝えしています。その奇跡に用いられたのは、有名な牧師でも大統領でも医師でもありませんでした。神は当時三歳、未熟児で生まれた私の孫を使って下さいました。彼にはまだ、夢という概念すらなかったのですが、イエスさまが現れて、「ばあばは治ったよと言ってくれた。」と言うのです。
夢の中でイエスさまは家内に飲み薬を手渡して、家内が受け取っていたと言うのです。ちょうどその頃、私たちは飲み薬タイプの抗がん剤を選択しようとしていました。それはあまり効果がないと言われていたものの、気休め程度にはなるだろうと思っていました。
なんと、夢の中にイエスさまが家内に飲み薬を渡し、次に彼の所に来て、「ばあばは治ったからね」と話したと言うのです。
ちょうど家内はその薬を飲み始める時期でした。その後、奇跡が起きたのです。夢の中でイエスさまが言われた通り、三ヶ月ほどで大きながんはすっかり消えました。その後、腫瘍マーカーの数値も正常値になり、本人も「病気だなんて、全然分からない」と言うほどでした。それで三年間以上生き延びました。手術ができないというのができました。しかし手術がうまくいかなかった部分があり、胆管炎が治らず、三年後に天に帰ってしまい、今年の十二月で二年になります。それでも、三年間元気に過ごせたことは、心から感謝していますし、神が生きておられる証拠です。
地上に生きていれば必ず、病気や困難に直面する日が来るでしょう。でも、家内は、そういう危機からも救い、助けてあげますよ!という見本になりました。

しかし私の孫は、その夜、なんと二本立てで夢を見ていたのです。まず一つ目は、今話した、イエスさまが現れて、「ばあばは治るよ」と言って、薬を手渡す夢でした。

しかしもう一つの夢は、「ばあばは治るけど、しばらくすると死んでしまうよ」と言う夢であったそうです。
イエスさまは彼にこう言いました。「でも心配するな。ばあばは死んでしまうけれど、やがてわたし(イエスさま)と一緒に地上に戻ってくるから。その日が本当の癒しだよ」と言われたそうです。その日、「ばあばは完璧になって戻ってくる。」

そして、後半の夢に関して、「わたしが話してもいいよと言うまで、誰にも話してはいけないよ」と口止めされたと言うのです。
彼はその言葉を守り、三年間、誰にも話しませんでした。母親である私の娘にも、「僕にはどうしても話せない夢が一つある」と何度も話していたそうです。娘はきっと「怪獣の夢か何かだろう」と思い、それ以上聞こうとはしなかったそうです。
彼が隠していた夢は、「一回は治るけれど、やがて死んじゃうよ。だけど、この地上に帰ってくる。」とイエスさまが言われたそうです。

彼が第二の夢の内容を告白したのは、家内が亡くなって二ヶ月ほど経った頃でした。私のところに来て、「俺、あの夜、二つ夢を見たんだ」と話し始めました。それも、祈りの中で告白しました。「ばあばはやがて死んじゃうってイエスさまに言われたけど、僕は黙っていた。」と。

その告白を聞いたとき、思い出した出来事がありました。それは家内が回復した頃、病院で検査入院したときのことです。私は彼と娘と一緒に病院に届け物をしました。帰り道に刈谷サービスエリアで休憩したときのことでした。そのとき、彼が独り言を言っていたのです。
「ここは死んだばあばの思い出の場所だなぁ・・・」私は驚きました。空耳かなと疑って、娘に聞きました。すると、娘も同じことを聞いたと言うんです。彼に「お前、何を言ったんだ?」と尋ねたら、はぐらかしました。
そのとき神さまが少しだけ私たちに、情報を漏らしたのではないかと感じました。家内はやがて死ぬのかも・・という予感がよぎりました。そしてその通りになりました。

二番目に見せられた夢は、実は、聖書の結論なのです。

イエスさまが十字架にかかって死なれた時、何が起こったのか。聖書には次のように記録されています。

“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」”
(マタイの福音書二十七章五十~五十四節)

この記述が真実ならば、キリスト教は本当に大変な宗教です。歴史の中で、すごいことが起こったのです。ある人がその事に関して、

『最初に気づくのは、聖書のどのバージョンでも、五二節と五三節を削除すると、五一節で記録された地震が五四節で記録された地震を参照しているため、聖書のテキストがスムーズに流れることだ。』

復活の奇跡を省略すると、文章が綺麗に流れると言うのです。

“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、・・・百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」”

誰かが、こっそりと聖書に書き加えたんじゃないか?と疑われそうです。

『しかしこれらの節を省略したギリシャ語、ラテン語、アラム語の写本はない。それがオリジナルであるか、聖書のテキストに早期に追加されたことを示している。』

人類の歴史の中で、こう言うことが起きたのです。それは死者の復活です。
やがてイエスさまが帰られる時に何があるのか。

“天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる”(エペソ人への手紙一章十節)

と聖書は預言しています。この件に関しても科学的な見地から以前、お話しさせていただきました。

超弦理論によれば、天は九次元から十次元くらいあると言われます。その理論で計算すると、初めはすべての宇宙は一つだったそうです。しかし、ある時点で、三つの方向性を持つこの空間(三次元)だけが暴走したと言うのです。
神さまはこの暴走を放っておかないのです。初めに一つであったものを、再び戻す計画を持っておられるのです。これが「一切のものがキリストにあって一つに集められる」ということです。

イエスさまが「道であり、真理であり、いのちである」と語られた道の奥には、すごい世界が待っています。