2024年11月17日(日)新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 14章5~6節
“トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。”
ハレルヤ!まもなくクリスマスの時期になります。本当に一年は早いですね。
今年のクリスマスコンサートは「十二月十四日」に開催されます。チラシをご用意しておりますので、ぜひお持ち帰りください。今年も無料で行います。このような素晴らしい内容で無料とは、すごいことですので、ぜひご友人やご家族をお誘いいただければと思います。
すでに巷ではクリスマス・メロディーが流れ、クリスマスムードです。世界で一番有名人といえば、やはり、イエスさまです。
今日は有名な聖書の言葉からお話しさせていただきたいと思います。これはイエスさまが語られた言葉です。六節、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
さらにイエスさまは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
こんなことを言える人は、世界で最も狂った人か、あるいは本当に神かのどちらかです。
世界の歴史を見ると、イエスさまが生まれてからこのかた二千年以上にわたって、命がけで「イエスが道で、真理で、いのちだ!」と叫び続けている人たちがいます。
コロナ禍のただ中でよく使われた言葉があります。それは英語で「エッセンシャル(essential)」という言葉です。「エッセンシャル」とは「必要不可欠」という意味です。
では、皆さんにとってエッセンシャル、必要不可欠は何でしょうか。
「エッセンシャル」と聞くと、シャンプーを思い出すかもしれません。しかし、それは私にとってはあまり必要ないです。
実は、人類にとってのエッセンシャルは「宗教」だそうです。
『宗教は人類の誕生とともに生まれ、以後、どの時代、どの地域、どの民族、どの社会においても消滅したことがない。』
ということは、人類が地上に存続する以上、宗教も存在し続けるということになります。つまり、人類全体を見るとき、宗教こそがエッセンシャル、必要不可欠だということになります。
今日ここにおられるお一人お一人、何らかの形で宗教と関わりがあると思われます。ある方は、「私は日本人だから、日本の伝統的な宗教です」と答えられるかもしれません。関わりが濃いか薄いかの違いはあるかもしれませんが、何らかの形で宗教と関わりがあるのです。
それはなぜかというと、宗教が人類にとってのエッセンシャル、必要不可欠だからです。
宗教の定義について、『広辞苑』では、
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは神聖なものに関する信仰・行事」
一方、『ウィキペディア』では「一般に人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、または観念体系」と説明されています。
人間には限界があります。様々な壁を越えたいと願っても、越えることができないのです。今も、何かしらの限界を感じておられるかもしれません。
昨日もある中学生と話したら「明日からテストだ」と言って、彼の顔には、ありありと限界を感じさせる表情がありました。
人間にはやはり限界があるのです。しかしその限界を超えたいという欲望は、誰でも持っているのではないでしょうか。超えるためには、「超越的絶対者」が必要だということです。人間はそれを本能的に感じ取っているのだと思います。人の力や自然の力を超えた存在によって、限界を超えていこうとするのです。
これから大学入試も始まっていきますが、その前に多くの人が神社などに行き、神々に願うわけです。それも自分の限界を超えたいからに違いありません。
宗教の語源について以前もお話しましたが、英語では「Religion(レリジョン)」と言います。この言葉は、ラテン語に由来していて、「Religio(レリジオ)」と言います。宗教の語源、そのものの字義的な意味は「結び目」という意味だそうです。二本のロープを結ぶときの結び目、それが「レリジオ」、即ち、宗教の語源だというのです。
これはどういう意味でしょうか。
人間は、自分や自然を超えた存在、つまり霊的存在と結びつき、限界を超えたいと願います。そのためには、何らかの霊的力と手を結ぶ必要があるわけです。その結び目を「宗教」と呼ぶのです。
しかし結ぶ相手は多く存在し、選択肢も多くあります。世界にはさまざまな宗教が存在し、それぞれ人間の力や自然の力を超えた存在と称して、君臨しています。
宗教は人の限界を超えた霊的存在との結び目として、人類に手を伸べているわけです。同時に人類は一人残らず、限界を超えるために、それらに手を差し出しているのです。ある人は「私は手を差し出していません」と言うかもしれませんが、気がつかないだけです。霊的存在と「結び合う」行為は、人間の本能そのものだからです。
どんな人でも、どうしても超えることができない限界点があります。どれだけお金があっても、地位があっても、名誉があっても、健康があっても、最終的に超えることができない限界点とは何でしょうか。それは「死」です。死を超える人はいないです。
静岡県と山梨県にまたがる富士山は、もともと「不死山」と呼ばれていました。徳川家康は自分の遺体を一年間、久能山に埋葬し、そこから不死を超えて、日光の東照宮に埋葬し祀ってくれと願いました。しかし、そんな願いを込めても、彼の墓は今も東照宮にあります。誰も「死」を超えた人物はいないのです。
宗教とは、結局のところ、「死」を乗り越えるための霊的力との結び付きとなります。宗教の役割は究極的には死です。
「死」を目の前にして、それを超えるために、諸宗教が待っています。日本人なら仏教?キリスト教?神道かな・・?となり、いずれかを選択して手を結ふことになります。
ところであなたは、現在、どのような存在と手を結んでおられますか。
教会は「ゆりかごから墓場まで」、結婚式もあれば、葬式も行います。教会は便利な場所で、同じ会場で、葬式と結婚式が行われます。棺が置かれていた場所に、花婿さん・花嫁さんが立つのです。教会は「限界を超えた場所」とも言えます。
最近、葬式を簡単に考えがちですが、葬式とは「故人がどのような死後の世界を選択したのかを、参列者に宣言する、人生最後にして最大のイベント」です。仏教での葬式は、「私は仏教が教える死後の世界観に同意し、仏教の神々により頼み、死を越えます!」という宣言です。
一方、教会では、「私はイエスを道とし、いのちとして死後の世界に向かっていきます」という宣言がキリスト教の葬式です。やがて迎えなければならない厳粛な日のために、よく考えておいてください。日本人は葬式について、あまり深く考えない人が多いかもしれませんが、これは非常に大切です。どの存在と手を結び、どのように死を超えていくのかを決める、人生で最も大切な瞬間です。
百年後にこの場を訪れたら、私を含めて、誰一人いません。この教会の建物自体は残っているかもしれませんが、ここには誰もいないのです。百年もすれば、人類は総入れ替えです。本当に悲しいことですね。
ある方は「私は無神論者です」と言うかもしれません。「死によって意識を含めて、すべてが消滅する」と考えているのですが、無神論者は神もいないし宗教も必要ないと考えるかもしれませんが、「意識を含めて全てが消滅する」という、死後の世界観がありますから、それも一種の宗教です。「無宗教で葬式」というのは、「死後、何もかもが消えるという世界観を選びました」という宣言です。
仏教は、人間界を出たら、五界のいずれかに転生するという考えです。日本の仏教は、鎌倉時代に大きく変容しており、もともとの仏教から全く異質のものになっています。本来の仏教を知りたいなら、ネパールやインドに行くとよく分かります。
仏教の教えによれば、人間界を出ると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、天界の五つのいずれかに転生します。天界もありますが、ただし、天にも苦しみがあるとされています。この五つの世界をぐるぐると巡る「ロシアンルーレット」のようなものです。「仏教を信じています」という方は、この前提を受け入れていることになります。仏教式の葬式は「私は人間界から、他の五界のいずれかに旅立っていきます」ということになるわけです。日本のほとんどの人たちが、この選択をしていますが、本当に良いのか心配になります。
沖縄は仏教ではありません。沖縄は祖先崇拝です。「シーミー」という行事があり、ちょうど日本本土の盆みたいなもので、墓場の前で家族が食事をするのです。昔は墓から骨を取り出し、骨を洗って並べ、その前で食事会をしていました。現在ではそのようなことはしませんが、沖縄の宗教観と本土の宗教観は明らかに違います。
実は仏教と祖先崇拝は全く異質のものです。日本人はこの二つを同時に選択していますが、それは非常に矛盾しているのです。仏教は墓も必要ないし、先祖の霊もいないことになります。なぜなら仏教の教えでは、人はどこかの世界に生まれ変わっているとされているからです。つまり、霊が地上を漂っているということはないのです。どこかに生まれ変わって生きているわけですから。
インドやネパールでは、誰かが死んだら、火葬して粉にして川に流します。墓を作ることはありませんし、先祖の霊が存在するとは考えていません。別の五界世界で生きていると考えます。
一方、祖先崇拝の前提は、死者の霊が自分たちと同じ空間を憑依して、一緒に生活しているというのが前提です。ですから、日本の仏教が祖先崇拝も同時に行うのは、大きな矛盾です。
近所に僧侶の友人がいました。心を開いて話をしてくれました。「仏教と祖先崇拝は相いれないですよね?」と私が言うと、「それは分かっています。でも先祖供養をやらないと、私たちは食べていけません」と言っていました。
先祖の霊に加わり憑依するという考えは、一見すると良いようにも思えます。例えば、孫の成長を見守ることができるというようなイメージがあるからです。
しかし、良いことばかりではありません。沖縄では霊能者と呼ばれる人たちが非常に多いのです。沖縄は日本の中で唯一、霊的世界が一般社会や行政からも認知されている地域です。例えば、病気になった場合、本土の人々は病院に行き、それで終わりです。
しかし、沖縄には一つのことわざがあります。それは、「医者半分、ユタ半分」ということわざです。「ユタ」とは霊能者のことで、先祖の霊と称する存在を呼び出す役割を果たします。家で何か悪いことが起こると、まずは最新の科学、医学に頼るものの、もう一方では、ユタにも頼るのが沖縄の長い伝統的習慣です。このため、沖縄の行政もそれを無視することができないのです。
だから沖縄では、霊的な話をしても特に問題になりません。例えば、「死者の霊を見た」とか「幽霊を見た」といった話は、いくらでも聞くことができます。それは、人々が目に見えない世界を認知し、信じているからです。
ユタからは必ず、「先祖の怒りを鎮めなければ問題は解決しません!」と言われます。それで先祖の霊を鎮める行動を取るわけです。
考えてみてください。いくら家族だったとしても、最終的には家族の敵のような霊に変質する可能性があるわけです。それで良いのでしょうか?もし、あの世とこの世をつなぐチャンネルが残っていたら、私なら絶対に悪いことはしたくありません。むしろ、良いことだけをしたいです。
しかし、祖先崇拝の行き着く先は、先祖を一生懸命拝まなければ祟られるという考えです。かつての優しいおばあちゃんが鬼のように変わることを許容する考え方につながります。死ぬ時は一人で死にますから、どの道を選んだらいいのか、真剣に考えないといけないのです。