2024年5月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書11章25節
“イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”
皆さんおはようございます。
今日はGoToミッションで語らせていただいている、伝道メッセージを語らせていただきます。この教会ではよく話していることで、「またかぁ・・」と思われるかもしれませんが、韓国でもお話ししますし、私が奉仕に出て行ったら、この話を語っていると想定して、とりなしていただきたいと思います。
このメッセージ、家内が天国に行かなければ与えられなかったものです。神さまはこのメッセージを語らせるために、私に試練を与えられたのかなとも思います。
この数年は本当に大変でしたね。新型コロナで一日を生きるのが精一杯みたいな日々もありました。外に出たら感染してしまうのではないかという恐怖の日々もありました。
しかし私にとって、それと重なり、家内が病気になり、看病の日々が続きました。この三年半ぐらいは、私には大患難時代でした。しかしそんな中でも、大きな恵をいただくことができました。そんなお話をさせていただきます。
同時に、人生って何なのか?と深く考えさせられた期間でした。赤ちゃんが生まれても、人間って弱いですよね。親の世話にならなければ生きていくことはできません。四足歩行、二足歩行になり、やがて三足歩行になって倒れていく・・。要介護四から始まり、三・二・一と上がって、やがて一・二・三・四と下がり倒れます。本当に悲しい人生です。
以前、新城市のある食堂のテーブルの上に、こんなことが書かれた紙が置いてありました。
「恋に溺れるのが十八歳、風呂で溺れるのが八十一歳」。
「道路を爆走するのが十八歳、道路を逆走するのが八十一歳」。
「自分を探している十八歳、皆が自分を探している八十一歳」。
さて、二〇一九年の10月でした。家内の体調が少し悪くて、病院に行きました。検査が終わって、診察室に入ると、医者がのっけから、「あなたは膵臓がんです」と告げました。その瞬間、時間が凍りついたような感じがしました。テレビやドラマで見るような場面が自分に起こるなんて、思ってもみませんでした。家内は医者に尋ねました。「私はこれからのどのくらい生きることができるのですか?」
医者はCTの写真を見ながら、「そうですね。何も治療しなければ、後、三ヶ月から四ヶ月でしょうか・・」と答えました。絶望的な気持ちになりました。
しかし私は、その時、「クリスチャンでよかった」と思いました。四方八方塞がっていても、神への空は開いているからです。そこで、私は真剣に祈ってみよう!と決断しました。
また教会が総力を挙げて、家内のために祈ってくださいました。すると奇跡が起きました。
ヒゼキヤという王様が癌になって、真剣に祈ったとき、神は十五年、寿命を付け加えて下さいました。家内は、三年半、寿命を付け加えていただきました。あれは奇跡以外の、何物でもありません。
しかしやがて人は、死んでいきます。人生って何なのか?を考えざるを得ないです。
私も今までに、多くの葬儀を執り行いました。しかし家内が天に帰るまで、自分と死は、かけ離れた存在でした。けれども、家内が死ぬのを目の前で見たとき、人の死を、はっきりと認識させられました。
死の日に向けて歩むのが人生です。ということは、その日の為に準備が必要です。やがて迎える死の瞬間、どうのり越えるのか、考え、決断しなければならないのです。
葬式とは何か・・。
それは、「故人がどのような『死後の世界』を選択したのかを、参列者と、死後の世界に宣言する、人生最後にして、最大のイベント」だと思います。
今日はこの話を、「あの人の死後はどうなったの?」とか、「あの人はどうなるの?」ではなく、「自分自身の選択」として、聞いていただき、確認をしていただきたいと思います。
日本人の死後の世界観は、曖昧極まりないです。生きることに関してはすごくエネルギーを使うのですが、死後の世界となると、適当にしか考えないのです。
葬式には必ず、宗教が関わります。宗教には死後の世界観が含まれています。死後の世界観がない宗教は、ただの哲学です。キリスト教でも、仏教でも、他の宗教でも、全て死後の世界を含みます。
「私は無宗教、死んだら全てが消えて無くなる」と、唯物論の人たちは言います。死によって意識を含めて、全てが消滅するという考えです。ここにも、「死後消滅する」という、死後の世界観が含まれます。ということは、無宗教、唯物論・進化論も、宗教の一つと言えます。
死によって、全て消えてしまったら本当に寂しいです。
日本人は、結婚式はほとんどキリスト教式です。格好だけで選んでいるのではないかと思います。しかし葬式は仏教です。
仏教の死後の世界観は、「輪廻転生」です。日本の仏教は、鎌倉時代から、全く変質しています。仏教の原点から見たら日本仏教は異端です。ちょっと題目を唱えるだけで、極楽に行けるとされていますが、その教えは仏教ではありません。
仏教の根源は、輪廻転生であり、六つの世界をぐるぐる巡る、ある意味、「六道ロシアン・ルーレット」です。この地上から出て行ったら、「地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、天界」と、人間界以外の、五つのどこかに行くからです。ロシアン・ルーレットのようです。これが永遠に続くのです。もしも家内が死後、蚊に輪廻して、私の血を吸って、私が叩けば、他の界に行かなければならないわけです。
仏教徒の方々は、これを本気で信じておられるのでしょうか。この世界観を、本気で選んでおられるのか疑問です。しかし仏教徒ならば、輪廻転生の道を選んでいることになります。
私ならば、絶対に選びたくないです。
神道や儒教は、「先祖の霊に加わって憑依する」という考え方です。これは少し良いかもしれません。体から魂が抜けて、辺りをふわふわと漂い、時々、孫や子どもたちのところに訪れることができるからです。しかし、時間が経つと、先祖の霊は皆、親族の敵となります。鬼、悪霊となるのです。
今週、韓国でリバイバルミッションの、霊的戦い専門課程を行います。韓国は儒教の国です。日本は仏教の国と思われがちですが、もしも仏教ならば、墓も必要ないし、先祖の霊もいないはずです。なぜなら、魂は輪廻転生しているため、先祖の霊がウロウロしていることは決してありませんし、墓も作る必要はないわけです。他の界に行くわけですから。
しかし日本はどうでしょうか。墓を大切にし、先祖の霊が共にいると考えます。これは仏教ではなく、日本も韓国と同じ、儒教国であるということです。
儒教は、「考と恩」という二つの概念で構築されています。儒教とは、「恩返しが交換関係として、制度化されたシステム」です。
日本人って、恩返しの精神という、良い性格を持っていいます。「恩を忘れちゃいかん・・。」
しかし、その中に、儒教フレーバーが入っていることも忘れてはいけません。儒教では、親の恩は絶対です。それは生きている親だけでなく、死んだ先祖に対しても、同様に恩を報いなければならないと教えます。これは、先祖を拝まなければならないということです。それは「考と恩」の永遠のサイクルです。韓国の国旗を見ると、「考と恩」が一つになるシンボルマークです。これは「祖先崇拝」を表しています。
パウロはこう語っています。
“このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」”(使徒の働き 二十章三十五節)
パウロがどこで、イエスさまから聞いたのかは記録されていませんが、イエスさまが語った言葉として、紹介しています。
受けるよりも与えるほうが幸いだ」と。
日本や韓国では、「恩は絶対に返さなければならない」という考えが強いです。しかし、聖書は愛を忘れないことを語りつつ、同時に、「受けるよりも与えるほうが幸いだ」と教えています。ゆえに、与えるほうがずっと祝福されるのです。
時々「あの人は恩を返してくれない」とか、「恩を忘れた」と怒ることがありますが、自分を点検する必要があります。
私は死後、憑依するようにはなりたくないです。墓場の運動会に参加するような者には、なりたくないです。
キリスト教でも、カトリック教会は、死後、天国に行くとは教えていません。カトリックは、天国に行くために、まずは煉獄に入って、何万年も罪滅ぼしをして、苦しまなければならない、という教えです。これは聖書には全くない概念です。
カトリックの葬式では、天国に関する賛美歌が歌われることはありません。また、司祭から遺族への慰めの説教や、言葉もありません。なぜなら、葬儀全体の目的が、神をなだめるためだからです。
私たちプロテスタント教会はどうでしょうか。これは、聖書の真の教えですが、「死後、直接、神の国に入って、先に行った家族とともに、幸せに生きる」というものです。これは最高じゃないですか!
聖書はこう告げています。黙示録十四章十三節、
“また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」”
ここで述べられているのは、殉教した兄弟姉妹は、現在、どこに行ったのか?という問いに対する答えです。初代教会はローマ帝国から迫害され、たいへん苦しみました。
そんな人々に対して、主は、「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」と告げました。幸いとは、「マカリオス、最も祝福された至福の状態」にあるという意味です。「彼らはその労苦から解き放されて、休むことができる」というわけです。
また、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」と言われています。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」
死には利益があると言うのです。
煉獄に行って苦しむことに、何の利益がありますか。先祖の霊になって彷徨い、やがて家族や親族を苦しめる霊になることに何の益があるでしょうか。六界に輪廻するなんて、益どころか害以外の何ものでもありません。死後、すべてが消えるほど、むなしいことはありません。
ということはどうでしょうか。プロテスタント教会というか、聖書が教えている死後の世界観こそ、最高なのです。誰もが選択したい死後の世界のはずです。
自分の決断として、「私は死んだら、クリスチャンとして、教会で召天式をやるんだ!」と決めておいてください。私も決めています。私の召天式が、誰によって司式されるのかはわかりませんが、誰でもいいです。しかし私の召天式は、はっきりしています。神の国に直接入ったことを会衆に対して宣言するものであり、神の前に宣言する時になるのです。
私も家内が天に召されるまで、「死」とか「永遠の世界」に関しては、そんなに深く考えませんでした。しかし最近、深く考えるようになりました。
そして人生には、どんな人にも、試練があることも実感しています。私は牧師の息子に生まれて、一生涯、主に仕えてきたのに、なんてこった!という気分にもなりました。しかし、神さまはどんな状況でも、支えてくださるということも、家内の病を通し、死を通して実感、体験することができました。
二〇一九年の十月末、家内に癌が発見されました。膵臓癌でした。三ヶ月、四ヶ月の命という余命宣告を受けました。その時すでに、癌は五センチ近くになっており、胆管が押しつぶされていて、胆汁が流れない状態にありました。汚い話ですが、便の色は何色ですか?黄色ですか?一度見た方がいいと思います。
私の家内、胆汁が下りてなかったので、便の色が白でした。黄色とは、胆汁の色です。これを開通させない限り、癌以前に、死ぬ!と言われました。しかし胆管を開通させるための作業に、一ヶ月以上を費やしました。なぜなら、何度も失敗し、最後、無理やりステントを入れて隙間を作り、胆汁を流すことができました。胆汁が下に落ちるようになって、便の色も黄色に戻りました。便の色に感謝するなんてなかったですが、本当に家内の便の色が黄色くなって嬉しくて、写メして子どもたちに送ったほどです。
ちょうど正月もまたいだので、家内の命は、どんどん削られていきました。三ヶ月四ヶ月と言われたのが、あと二ヶ月くらいになってしまいました。
医者に、「滝元さんには現在、三つの危険が迫っています。それは今日起こっても、明日起こっても、何も言えません。覚悟しておいてください。」と言われました。「癌が動脈を圧迫していて、いつ破裂するかわからない。」と言うのです。また、ステントを苦労して入れたけれど、必ず詰まると言うのです。「三ヶ月に一度は詰まります。滝元さんの場合、取り替えることはできないです。どうしたらいいのかなぁ・・。」と話しました。
そしてもう一つ、十二指腸が癌で押しつぶされていて、食事が下に落ちにくくなっているため、まもなく、吐くようになると言われました。「それが今日起こっても、明日起こってもおかしくない。」と言うのです。絶体絶命でした。それは二〇二〇年一月のことでした。