大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
後の日になって知る・・歴史と霊的戦い Part2

イエスさまの「来臨のとき」とありますから、イエスさまの再臨の為には、「霊、魂、肉体」の三つの領域に関心を持ち、神の前で表現することが大事だということです。

デイヴィッド・モーフィットという有名な神学者が『神の王国』という本で、人間の本来の召命は、「地を治める」という召命を果たすためであると語っています。

”人間の存在は、地を治める役割を果たすためであり、地を治めるためには、「からだ」が必要なのである。死んで霊だけの状態になってしまえば、その召命を果たすことはできない」”
私はこの意見に同意します。
人間は、死んだらおしまいです。天の教会の人口も増えていますが、その人たちはもはや人間としての機能はありません。肉体を持っていないからです。
今、この地上で肉体を持っているということは、自分で気づいていないとしても、大きな使命があるわけです。体があってなんぼの人生です。だからこそ霊、魂、肉体の健康が必要なわけです。

イエスさまが帰られると、聖徒たちの復活が起こります。私たちのゴールは、死んで天国に行くことではなく、地上に戻ってくるのがゴールです。
N.T.ライトは『驚くべき希望』の中で、
「初代教会の人々の将来の希望は、その中心に復活を確固として捉えたものだった。初期のキリスト者は単なる死後の命を信じていたのではない。彼らが単に死んだら天国に行くと語った事は、事実上全くない。そして彼らが天国を死後の目的として話すときは、天的な命を最終的な体の蘇りに至る途中段階の一時的なものとみなしていた。」

現代の教会と、初代教会の考え方はなんと違うことでしょうか。N.T.ライトは、初代の人々が何を考え、どう生きていたのかを明らかにしている学者です。
初代教会の人々にとって、将来と希望、それは「復活」でした。「永遠のいのち」とは、「死後の命のそのまた後の命」です。
体はやがて栄光の体になるのです。その途中段階においても、体はたいへん重要なものです。イエスさまが地上に来られたのは、体が健康になるためでした。

“イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。”(ルカの福音書九章一~二節)

イエスさまが来られた大きな目的の一つは、肉体を健康にするためでした。グノーシス主義が言うように、体が悪魔によって作られたなら、病気を治す必要はありません。 今でもイエスさまは、神の国の働きの中で病気を治し、悪霊どもを追い出してくださいます。

この教会の七十四年の歴史で、多くの兄弟姉妹がそれぞれの時代で祈り、戦ってきました。その結果として、私たちがいることを忘れてはならないのです。

先ほどもお話ししましたように、過去に神が何をしてくださったのかを確認する時、それを原材料として未来が開かれるのです。
今日は午後から「数えてみよ主の恵み」という集会がありますので、ぜひ出席していただきたいと思います。三名の証し者がおられます。そして、今日の集会のメッセンジャーは、「語り部」とありますが、岡本正広さんです。

 これは今から五十年ぐらい前の新城教会の写真で、ハレルヤ会の方々です。皆、江戸時代から抜け出てきたような服装をしています。本当に懐かしいです。

岡本政次さんは正広さんのお父さんです。この方がいなかったら新城教会は存在していない!とお話ししました。
 先週は終戦記念日でした。岡本政次さんは、戦争中、どこで戦っていたかというと、ニューギニアのラバウルでした。20万の日本軍将兵のうち、生還者はたった2万名でした。その生き残りの一人が岡本政次さんでした。
彼は独身で派兵され、帰国後、結婚して岡本家ができたわけです。もしも戦死していたら、岡本家はこの世に存在していません。

前回の礼拝のときにも話しましたが、ニューギニアのラバウルに、新城教会関係の人たちが三名いました。夏目義高さんと、岡本政次さん、そして今泉正一さんでした。今泉正一さんは、私の家内のおじいちゃんで、ラバウルで戦死しました。新城に「平和の礎」という場所があります。そこにはおじいちゃんの名前が刻まれています。

でも、正一さんは派兵以前に結婚していて家庭がありました。だから家内が生まれたのです。もしも正一さんが政次さんのように独身で出征していたら、家内はこの世に存在しなかったでしょう。人生は本当に不思議なものです。

政次さんは軍隊手帳に手記を残しています。「昭和十九年二月二日、午後八時頃、輸送船西愛丸(六千トン)にてラバウル港出港。」しかし西愛丸は出港後、爆撃を受けて沈没し、少人数しか助からなかったと思われますが、彼は助かったのです。

先日、モンゴルでモーゼス君と行動を共にしました。彼はパプア・ニューギニアの出身で、日本人女性と結婚して現在日本に住んでいます。彼は国会祈祷会にも来てくれました。
私の隣に座っていたので、色々と話をしました。それでこのことを話しました。「岡本政次さんの船がニューギニアで沈没したけれど助かった。それで岡本家ができた。新城教会の土地は、岡本政次さん関係の土地で、彼がいなかったら、今の教会はない。」と話したら、「えー!」と驚いていました。
なぜなら、彼は西愛丸が沈んだ近くの島で生まれたからでした。彼はおじいちゃんから、戦争中、島の浜に多くの日本兵の遺体が打ち上げられた話を聞いていたそうです。彼の島の沖合で沈没した船に乗っていたのが、岡本政次さんでした。

あの時は大きな霊的戦いだったと思います。悪魔も「この男を殺せば新城教会は発生しないし、霊的戦いも始まらない。政次を殺せ!」と全力で働いていたのでしょう。しかし主が彼を守り、助けてくださったおかげで、今の新城教会があるのです。これを忘れてはいけません。これを後の世代に語り続けなければなりません。

最近、こういったことを神さまから教えられ、関心を持ったら、主が新しい情報を加えて下さいました。関心を持たなければ情報があっても届かないのです。
関心を持てば情報は来ます。霊的領域に関心を持てば霊的情報が来ます。どのような領域に関心を持つかによって未来は変わるのです。

今日の午後の集会で、伊藤ひろ子姉妹が証しをしてくださいます。彼女は八十七歳です。伊藤ひろ子さんがクリスチャンになり、結婚したことによって、伊藤家が出来ました。「伊藤村」をご存知ですか? この教会の前にある、ちょっとした集落です。皆さんクリスチャンです。
伊藤ひろ子さんがクリスチャンになられたのは一九五七年のことでした。豊川での伝道集会でクリスチャンになりました。その時の講師は誰でしたか?という質問に、「滝元明先生でした。」と答えていました。
前回もお話ししましたが、豊川にはスウェーデンから宣教師たちが来ていて、天幕伝道会が頻繁に行われていたのです。その集会の講師として、父が選ばれたという話をしました。当時、私の父は新城に来たばかりで、新城中学校隣の長屋に住んでいました。彼が伝道したかったのは、津具村や田口でした。しかし彼は家を失い、住む所がなくて、岡本さんに紹介されて、新城にやってきたのです。生活もままならず、豊橋で働いていました。

そんなとき、不思議な声を聞いたという話を何度もしました。『我土方なれど』の一九七ページにありますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。そこで、「麻工場で機械を手にして働いているときに、実に不思議なみ声を耳にした」とあります。豊橋の鍛冶町でその声を聞きました。父の実家は鍛冶屋だったので、その関連があるかは知りませんが、そこの町工場で働いている時、神の不思議な声を聞いたのです。たいへん具体的な内容です。「スウェーデンの宣教師のところから、手伝いをしている三輪町子さんがあなたの家に来ます。」と語られたのです。「三輪町子さん」とは、誰なのかと思います。

今回、伊藤ひろ子さんの証しを収録するにあたり分かったのですが、ひろ子さんが多くの情報を持っていたのです。

「足跡」という豊川教会の記念誌を持っていて、スウェーデン宣教師たちがいつ、どのように活動したのかが刻銘に記録されていました。「第一回洗礼式」の中に「三輪町子」という名前がありました。

この方が父のもとに来て、「スウェーデン宣教師があなたを伝道会に招いています。来てください」と告げたのです。
伝道会がいつ行われたのかの記録もありました。「一九五四年十二月五日(日)から十二日(日)まで」八日間にわたって行われたようです。滝元明の初デビュー戦は、いきなり八日間連続の伝道集会でした。信じられますか? 人前でメッセージしたこともないような滝元明が、第一回デビュー戦で、なんと激しい爆撃を受けた豊川市で、八日間連続で福音を語ったのです。
この資料から、父が「不思議な声を聞いた」ことが事実であったことが裏付けされます。この記録も、関心を持ったときに出て来ました。すごいと思います。

それにしても、スウェーデン宣教師の方々は、本当に勇気がありました。一九四五年に豊川は大爆撃を受け、まるで地獄のようになりました。しかし一九五〇年に、シメオンソン宣教師とリンデン宣教師が羽田空港に来日しています。新城教会にもよく来られた先生方です。当時、羽田空港は米軍の管理下にありましたが、そこに到着しているわけです。
一九五一年、スウェンソンという女性の宣教師が豊川市諏訪町で家庭集会を始めたとあります。諏訪町をご存知ですか?諏訪という場所は、まさしく海軍工廠の目の前です。爆撃による廃墟の面前で集会を開く勇気、普通ではなかなか持てません。海軍工廠で亡くなった人たちが掘り起こされ、身元確認が始まったのが一九五一年です。豊川の人たちは地獄を体験したのです。この街の人たちには福音が必要だ!と、宣教師たちが伝道を始めたのです。
この地域は特別な場所だと思います。津具村では明治の初期にリバイバルが起こり、戦後は、東三河が集中的に宣教されました。父は一九五四年から一九七〇年近くまで、豊川市で毎年二回くらい天幕伝道を行っていました。私たちも豊川市に関心を持ち、祈り、宣教に取り組まなければならないと感じます。

レナンデル宣教師が住んでいた住所は今はありません。しかしひろ子さんが、その場所を知っていました。yokosaという場所は、今では「幸町」と変えられたと言われました。私は昔の記憶を頼りに、かつての宣教師館らしい家を見つけました。

私は昔、父に連れられて行ったことがあって、「屋根が青かった。宣教師の目も青かった・・。」と覚えているのですが、関心を持つと、いろいろな情報を引き出してくださいます。

新城教会の七十年ほどの歴史をふり返るだけでも、主がさまざまなことを行ってくださったことがわかります。もしも一つのボタンの掛け違いがあったら、今はないです。これらは主が、今でも生きて働いておられる証拠です。
過去に主が行ってくださった出来事は、一つの点として記憶されるのですが、その点を結びつけると、その線上に未来が見えてくるのです。そして、そのためには「祈りの協力が必要」です。

神さまは何のために、こんな奇跡をこの地域に散りばめておられるのでしょうか? それは、最終的な目標があるからです。その「みこころの奥義」とは、

“時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。”(エペソ人への手紙一章九~十節)

イエスさまの再臨は天と地の合一です。このすごい計画のために、一人ひとりを召してくださり、今があるのです。今日ここに集まっておられる一人ひとり、偶然はありません。「私は年を取ってしまいました」と感じている人がいても、生きている限り、肉体を持っている限り、神の目的から外れることは決してない!ということです。

本日は過去に主が行ってくださった数々の恵みについてお話しさせていただきました。直近の過去から、七十年以上前の出来事まで、幅広く振り返ってみましたが、まさにこの教会に主が働いてくださり、今もなお、働き続けておられることを感謝して、常に祈りを持って、主に仕えていきたいと心から願っています。