2024年10月20日(日)新城教会主任牧師 滝元順
詩篇48篇12節〜14節
“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”ダニエル書3章18節
“しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」”
ハレルヤ!
今日は皆さんの前でお話ができますことを、心から感謝します。
現代社会は大きく変化しており、昔とは全く違った世界となってきています。これからの日本はどうなってしまうのか、誰もが不安になっています。
三十年前と現在を比較してみると、平均年収は四百七十万円から四百二十万円に減少しています。しかし、消費税は三%から十%に値上がりし、ディズニーランドのチケットも倍に値上がりしています。国民年金も上がっています。ビッグマックの値段は、各国の経済状態や国力を表わす指数だと言われます。その値段が安い国は貧しいことを意味するらしいです。日本ではビッグマックが二百十円から四百八十円に値上がりしたとはいえ、世界と比較すると安いらしいです。大学の授業料も上がり、ガソリンの価格も上がっています。
しかし不思議なことに、国会議員の報酬だけは、しっかりと上がっているのは、どういうこと?
衆議院議員選挙運動の只中ですが、日本人は選挙にあまり行きません。有権者の半数くらいしか投票しません。
国会議員とは立法府、つまり法律を作る人たちです。法律は、私たちの未来を大きく左右します。クリスチャンは祈って、議員を選ばなければいけません。また、立法府に本物のクリスチャンを送り込まないといけません。
今日読んでいただいた聖書の箇所は、一箇所目は私が最近掲げている詩篇四十八編です。エルサレムは要塞都市でした。何度も敵に攻められ、被害を受けました。しかし、そのたびに、神が守ってくださった街であることを忘れるな、それを後の時代に伝えなさいと命じられています。そうすれば神は世代を越えて、守り、導いてくださるという約束です。これはダビデの時代に書かれた詩です。その後、イスラエルは、北と南に分かれ、北はアッシリアに攻め込まれ、南はバビロンに捕囚されました。いずれも、偶像礼拝の罪が原因でした。
本日、もう一つ掲げさせていただいたみ言葉は、ダニエル書ですが、そこにはバビロニア帝国に捕囚された人々の物語が含まれています。三章はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴというユダから連れてこられた若者たちの物語です。若くして彼らは、バビロンの中枢に入り、行政にも関わっていました。
しかしある時、新しい法律ができました。当時の法律は、現代のように国会で審議されて作られるものではなく、王の心が法律となる絶対王政時代でした。
ネブカデネザル(ネブカドネツァル)という王が、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを呼び出して、こんなことを語っています。
“ネブカドネツァルは彼らに対して言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴよ。おまえたちは私の神々に仕えず、また私が建てた金の像を拝みもしないというが、本当か。今、もしおまえたちが、角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」”(ダニエル書 三章十四~十五節)
三人のユダから連れて来られた若者たちに向かって、王がこのような警告を発しているわけです。ネブカデネザル王が建てた金の像にひれ伏さなければ、火の炉に投げ込まれるというものでした。楽器が奏でられるときには、必ず、国民は像に伏さなければならなかったのです。
けれども三人の答えは、
“シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。”(ダニエル書 三章十六~十七節)
このように彼らは王に対して、はっきりと宣言しています。そして、次の言葉が本当にかっこいいです。
“しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」”
キリスト教信仰の基礎と中心軸は、ここにあります。
もしも将来、日本でも法律が変わり、偶像にひれ伏さなければ火の池に投げ込まれると決められたら、あなたならどうしますか?
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのような態度をとることができるでしょうか?彼らは王に対して、「私たちはお答えする必要はありません」と言い切っています。
これは何千年も前のことだから、現代とは関係ないよ、と言うかもしれません。しかし実際はそうでもありません。日本でも、近年において、こうしたことが実際に起こっているからです。
一九三九年(昭和十四年)四月に「宗教団体法」という法律が成立しました。これは日本の全宗教団体を統制する戦時統制法で、この法律で、すべての宗教団体は、天皇に膝をかがめなければならないと定められたのです。私は昭和二十六年生まれですから、私が生まれる十二年ほど前に成立した法律です。しかし戦後、宗教団体法は破棄されました。
どうしてこんな法律が成立したのか、それは当時の立法府である国会で審議されて成立したのです。
今、日本国の方向性が揺れ動いています。世界中が右傾化していると言われます。歴史を逆戻りする可能性は否定できません。私たちは歴史を学び、過去にこの国で何があったのかをしっかりと理解し、新しい世代に伝える義務があります。そうすれば、神は世代を越えて守ってくださると約束しているのです。
この国の未来の為に、是非、祈っていただきたいです。特に若い方々が真剣に未来について考え、神の前に出ることが大切です。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、この三人は若者でしたが、彼らは、しっかりとした信念を持っていました。王に対して「あなたに答える必要はない。なにがあっても、偶像には決して膝をかがめない。」と宣言しているからです。そして、「私たちの神は、どんな状況からでも助け出してくださる。」と言い切っています。さらには、「もしも助けてくださらなくても、それでもいい」とさえ言っています。私たちも、このような態度を持ちたいものです。
この態度こそが、教会の土台です。キリスト教は一神教であり、天地宇宙を造られた神だけを拝み、他の神々には決して膝をかがめる事はありません。どんな戦いがあっても、迫害があっても、妥協することなく生き抜くのがクリスチャンの姿です。ですから、クリスチャンには覚悟が必要です。
先週は十月十七日が含まれていました。十月十七日は日本のキリスト教史にとっては、大変忌まわしい記念日です。
宗教団体法下の当時の教会が、どのような態度を取ったのか・・。
一九四〇年(昭和十五年)十月十七日、青山学院において、「皇紀二六百年奉祝全国基督教信徒大会」が開催されました。全国から二万人ほどの教職者やクリスチャンが集まり、十月十七日の神嘗祭(伊勢神宮の神事)に合わせて、日本のキリスト教徒が、神武天皇の即位二六百年を記念する全国基督教信徒大会を開催したのです。その大会は宮城遥拝から始まり、天皇を賛美する歌が歌われ、大会後は揃って、明治神宮に参拝したのです。
どうしてこんなことが起こったのでしょうか。ちょうどシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが直面した場面と同じです。
「お前はどうするんだ、日本の神々に仕えるのか、それとも、天地宇宙を造ったという、お前たちの神に仕えるのか?どちらかを選べ」と迫られた結果でした。
残念なことに、日本のキリスト教会は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのような勇気ある態度を取ることが出来ませんでした。「殺されたって、偶像の神々には仕えない!」とは言えなかったのです。日本の教会は偶像の神々の前に膝をかがめてしまったのです。このような悲しい歴史があるのです。
日本は過去から続く全体主義的体制により、自分の意見を持つよりも、他の人たちがどのような行動を取るのかによって自分の態度を決める人が多いです。これは江戸時代から始まった国家による洗脳によるものです。もしも将来、同じような環境が訪れたら、同様に、根こそぎ持っていかれそうな気もします。
その日の集まりの中心は、イエス・キリストではなく、天皇を賛美する内容でした。司会者は富田満牧師、彼は愛知県出身だったようです。大会は宮城遥拝の国民儀礼で始まり、この日のために創作された天皇を賛美する「讃美歌」が、千五百人の聖歌隊によって高らかに歌われ、その後、集まった会衆は、こぞって明治神宮に参拝しました。
大会は「吾等は全基督教会の合同の完成を期す」と宣言し、この決議に基づいて「日本基督教団」が設立されました。
日本の神々はイエス・キリストよりも偉い、日本神話の神々が最高神だ!と、日本教会が一致して宣言したのです。こんな悲しい歴史があったことを、現代の日本教会はどのくらい意識しているでしょうか。日本教会は、このような過去を振り返り、悔い改める必要があります。
歴史を知らなければならないのは、偶像に従った国々は、最後には必ず滅びているということです。あの巨大なバビロニア帝国さえも滅びました。日本も同じように、一九四五年、戦争に敗北して滅び、新しい体制となりました。
戦後の日本のキリスト教会は、一九四五年以降、GHQによって保護されて、教会は悔い改めの機会を失ったと言われます。戦後、日本教会は勢いづき、過去の過ちの悔い改めを忘れ、現在に至っています。それゆえなのか、戦後はしばらく勢いのあった教会も、いつしか力を失い、現在は苦難の中にあります。その理由の一つに、日本教会の土台に残っている罪ではないでしょうか。
テモテへの手紙第一の三章十五節には、
“それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。”
と記されています。私は昔、建設業に携わっていました。土台と柱の重要性がよく分かります。一般の方々は「土台・柱・基礎」の分類がなされていないのかもしれません。パウロによると、教会は真理の柱であり、土台であると告げています。柱と土台は、基礎の上に乗っている構造です。
パウロはギリシャ建築を目の前にしながら、この手紙を書きました。ギリシャ建築も日本建築と同じように、基礎の上に土台があり、柱が立っていました。教会は土台と柱の部分です。しかし「基礎」は「イエス・キリスト」です。
いくら私たちが「基礎はイエス・キリストです!」と宣言してみても、教会そのものの構成要素は「土台と柱」なのです。それらにひびが入っていれば、神の家は倒れます。いくらイエスを救い主として宣言していても、過去の歴史を通して、土台と柱にひびが入っていたら、教会は立ちゆきません。
日本にも、戦争の足音が聞こえつつある今日この頃です。再び、国を統制する強力な法が必要になるかも知れません。再び宗教団体法のような法律が成立する可能性は十分あります。
過去の忌まわしい歴史をクリスチャンがしっかりと理解し、悔い改め、とりなして祈るならば、神は未来を守ってくださるでしょう。同時にクリスチャンは、世に立ち向かう存在であり、「この世の神々には決して、膝をかがめない!」という強い決意が必要です。
実は、宗教団体法ができる前から、日本ではすでに「大日本帝国憲法」の元、天皇を現人神とする国家神道のシステムが動いていました。それゆえ、クリスチャンたちは様々な迫害を受けていたのです。