2024年9月2日(日)新城教会主任牧師 滝元順
伝道者の書 11章1~4節
“あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。”詩篇 48篇12~14節
“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”
皆さんおはようございます。今日、皆さんと学びたい箇所は、伝道者の書十一章一節から四節です。去年の九月にもこの箇所から二回ほどメッセージを語らせていただきました。そちらも参考にしていただき、今日のメッセージを聞いていただきたいと思います。
そしてもう一箇所は、最近主題とさせていただいている詩篇四十八篇です。
過去を振り返るとき、主が行ってくださった様々なわざに気づかされます。それを思い返すとき、希望の未来を構築できると、前回もお話しさせていただきました。
第二コリント一章十節・十一節を見ると、パウロが将来と希望をどのように捉えていたのかがわかります。パウロほどの人物ですから、常に、神からの語りかけを受けて、「未来はこうなる」と教えられ、未来を先取りして歩んでいたのかというと、そうでもないのです。彼は過去を振り返って、「神はあれほど大きな死の危険から救い出してくれたのだから、これからも救い出してくれるはずだ。」いう信仰でした。そして、そのためには「祈りが必要」と、教会に祈りを要請しています。
神が将来のことを預言的に教えて下されば、どんなに心強いかと思います。しかし神は未来を隠しておられて、なかなか教えて下さいません。「私は預言をもらいました」と言われる方がおられます。それも恵みです。
しかし、最も着実な信仰生活は、過去に主が、何をしてくださったのかを忘れずに、未来に向かう姿勢です。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」というみ言葉と関連します。西洋では、このみ言葉はことわざにもなっています。それは「損得勘定ではなく、人々に善を行え」ということわざです。見返りを望むのではなく、機会を捉えて善を行いなさいという意味です。「そうすれば、後の日になってあなたはその結果を見出す」のです。
この一節から四節のみことばの解釈に関して、以前にもお話しさせていただいたので、覚えておられると思います。
第一に、「一見無駄と思える信仰の行為に思えても、必ず益となる」という解釈です。
もう一つ興味深い解釈が、「大胆な投資が成功をもたらす」というものです。最近、日本でも「貯蓄よりも投資」という考えが強調されるようになりました。「あなたの受ける部分を七、八人に分けておけ」とありますが、分散投資のようなものです。今の時代、数年前とは全く違った時代になりました。リスクがあるとしても、信仰を持って前進しろということです。
最近、日本に変化がありました。その一つが紙幣のデザインが変わったことです。孫たちが、新札を見て「これっていくら使えるの?」と言っていました。「千円もらったけど、いくら使える?」と言うのです。新札なら千円札でも、千二百円ぐらいの価値があると思ったようです。
聖書を見ますと、経済の世界は闇の世界だと告げています。イエスさまの時代、すでにそうでした。ルカの福音書十六章十三節と十四節では、
“どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなた方は神と富とに仕えることはできません。」金銭を好むパリサイ人たちは、これら全てを聞いて、イエスをあざ笑っていた。”
「二人の主人に同時に仕えることはできない。」二人の主人とは、一人は神さまで、もう一人は富だと言うのです。神さまは人格を持った存在です。しかし、富は無機質なものです。金は貯めておいても何もしてくれません。使って初めて効果が出ます。
この二つを比べるのは、そもそもおかしいと思います。しかし「富」という言葉を原語で見ると、ギリシャ語は「マモナス」、ヘブル語は「マモン」が使われています。
かの有名なジョン・ミルトンというイギリスの詩人は「失楽園」という叙事詩の中で、「マモンは堕天使のうち、これほど品性が下劣で、根性の悪い堕天使はいなかった」と記しています。
実は、「マモン」は、ただの富という無機質なものではなく、「経済神」、悪霊です。ならば話は分かります。ゆえに聖書は「神と富とに同時に仕えることはできない」と告げているのです。イエスさまは「神に仕えるのか、経済神に仕えるのか、どちらかにしろ!」と選択を迫っているのです。
世の中で最も下劣で品性の悪い悪霊、それは経済を支配している悪霊です。それを知らないと、人は巧妙に取り込まれていきます。
以前もお話ししましたが、
日本には紙幣と硬貨があります。五百円硬貨をよく見ると、日本国が発行しています。しかし紙幣は発行元が「日本銀行」です。
一万円札を印刷するコストは、一枚二十円くらいで刷れると聞いたことがあります。私は紙幣を印刷している工場を見学に行ったことがあります。係の人に「これ、一枚いくらで刷れるんですか?」と聞いたところ、「それは企業秘密です」と言って答えてくれませんでした。
どこが発行しているのかというと、残念ながら、プレイズ出版ではありません。日本銀行が発行しています。日本銀行の株は買えます。日本銀行の株価は変動しないのかと思ったら、結構変動しています。つまり、日本銀行は一般の会社という事になります。もちろん、特殊な会社ではありますが、一般の会社が一万円札を発行しているのと同じです。二十円で仕入れて、一万円で製品を国におろすわけです。また一万円を銀行から借りたら、利息を取られます。発行元の日本銀行はめちゃくちゃ得するはずです。ダブルで儲けますから。このようなシステムが存在しているとは、驚きです。誰が最初、こういうシステムを作ったのでしょうか。
一方、硬貨の発行には結構コストがかかるらしいです。一円玉を発行するのに二円以上かかると聞いたことがあります。作れば作るほど、損するわけです。こうしたコストの高いものは国が負担して、コストが低い紙幣は日銀です。あまり話題にはなりませんが、何か深い闇を感じます。
日本では戦後、貯蓄が推奨されました。日本とアメリカの金銭管理意識を調べると、日本では余った金の五十一%を現金や預金にして蓄えるそうです。一方、アメリカではその比率が全く違います。
最近では、政府もNISAなどを推進して、日本人の金銭感覚を変えようとしていますが、長年かけて心の中に根付いた金銭感覚はなかなか変わりません。人が金の奴隷になるのは、目的と手段が入れ替わるときだと言われます。
例えば、三百万円あったら、車を買うための手段として使います。しかし会社に働いていると、働くことが手段で、金を得ることが目的になります。私たちは労働のただ中で、知らないうちに金の奴隷になりやすいのです。金が自分を守ってくれるという、富が主人になるのです。知らないうちに、マモンの奴隷になってしまいます。
人は、なぜ金の奴隷になるのか、以前NHKで特集していました。「人は貯蓄によって金の奴隷となる」と結んでいました。
私たちは自動的に、マモンの奴隷となるシステムの中に生きています。十分に注意すると共に、最も手ごわい「マモン」という闇の力に立ち向かわなければならないのです。
そんな中、教会で献金があるのは非常に大切です。
イザヤ書六章八節、
“私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」”
年を取ると、どこかに行って伝道したり、自ら動くことはなかなか難しくなります。しかしイエスさまは不思議なことをおっしゃっています。ルカの福音書十六章九節で、
“そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。”
「不正の富」とは何か。イエスさまの時代、ラビたちは「金、マネー」のことを「不正の富」と呼んでいました。金を使って自分のために友を作れ、そうしたら金がなくなったときに、その友があなた方を永遠の住まいに迎えてくれると言うのです。はっきり言って訳がわかりません。
しかし詳しく読むと、この「友」とは、不正の富でできた友を指しています。ゆえに主体は「不正の富」です。金なのです。金を使って友を作っておくと、それがやがて永遠のいのちに繋がるというのです。
勝ち得た経済を神のために使うとき、それが多くの友を生み出し、それが永遠のいのちへと繋がるのです。
戦後、この地域ではスウェーデン宣教師たちが働いていました。彼らは多くの金を使って、本国からモンゴルや中国、そして日本に宣教に来ていたのです。もしも彼らに金がなかったら、いくら情熱があっても、日本に宣教できなかったでしょう。
不正の富によって友人が出来て、それによって父も伝道者になることができ、新城教会も支えられました。
献金は水の上にパンを投げるように感じますが、これこそ、神への投資です。神は後に、大きな計画をお持ちです。
最近、一九五〇年代に隣町、豊川市に来られたスウェーデン宣教師たちについて話しています。当時の働きは、まさしく水の上に投げられたパンのようであったかもしれません。しかしその投資は今になって大きな実となっています。
毎週のように新しい資料が出てきて感動するばかりです。
さて「水の上にパンを投げよ」というもう一つの解釈として、
「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令を「永遠の必要(糧、パン)」とし、それを「水の上に羽ばたいている神の霊に向かって投げよ」と解釈すれば、神の最善の時において、絶妙なタイミングで「神の国の希望」へとつながる。
というものがあります。私はこの解釈に同意します。
スウェーデン宣教師たちは、空襲で廃墟となった豊川市に入って、将来どうなるのかわからない中、水の上にパンを投げる働きをしました。その方々はモンゴルから日本に来たのですが、私の父が、宣教師たちに導かれた背景に、不思議な神の声のエピソードがありました。それについて毎回、お話ししています。
「スウェーデンの宣教師の所から、手伝いをしている三輪町子さんがあなたの家に来ます。そして宣教師はあなたに伝道に来てくれるように依頼するでしょう。」というみ声を聞き、その後、実現したのが天幕集会でした。当時は、広場に米軍払い下げのカーキ色の天幕を張って、伝道集会をよく行いました。
父は豊川市の広場で八日間にわたる天幕伝道集会を依頼されたのです。
どこにテントを張っていたのかも、先週、判明しました。今でも広場になっています。
前回、「数えてみよ主の恵み」という集会で、伊藤ひろ子姉妹が証しをしてくれました。彼女はその天幕集会に行ってクリスチャンになったのです。現在八十七歳です。彼女は広場の近くに住んでいて、騒がしいので行ってみると、天幕が張られてキリスト教の集会が開かれていたのです。
父は一九五四年ごろから天幕集会を始め、一九七〇年近くまで、毎年一回か二回、豊川市で天幕集会を行っていました。伊藤ひろ子さんは、一九五七年の天幕集会に来られ、イエスさまを信じるに至ったのです。
この間も証しの中で述べておられましたが、最初の日に「イエスさまを信じたい人は手を挙げてください」と言われたので、手を挙げたと言うのです。
二日目に行ったら、また同じ質問をされ、また手を挙げたと言います。毎回、「イエスさまを信じたい人は手を挙げてください。そして一緒に祈りましょう」という呼びかけに応答し、繰り返し告白していたわけです。「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とありますが、そのようにしてひろ子さんはクリスチャンになりました。