大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
後の日になって知る・・・歴史と霊的戦い

2024年8月4日(日)新城教会主任牧師 滝元順

詩篇 48篇12~14節
“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”

 

ハレルヤ!
今日は八月四日ですが、今週は日本において、重たい週でもあります。なぜなら今から七十九年前、この国は大混乱の中にあったからです。一九四五年八月六日、広島に原爆が投下されました。その翌日、米軍は新城市の隣町、豊川市にあった海軍工廠に猛爆撃を加えました。その結果、若者たちを中心に三千人近く、三十分ぐらいの間に亡くなりました。また一万人以上が負傷しました。私たちの隣町で、そんな大惨事が起きたからです。続く、八月九日には長崎に原爆が投下され、終戦に向かいました。

それから七十九年、来年は戦後八十年という、節目の年を迎えます。今まで、日本に戦争がなかったのは奇跡であり、本当に感謝しなければいけません。
誰も時代を選んで生まれることはできません。気がついたら生まれていました。戦争の話って、おじいちゃん、おばあちゃんから聞く事が多いので、老人たちの戦いかと勘違いするのですが、彼らの青年期に起こった戦いでした。もう二度と戦争が起こることがないよう、教会は祈る使命があります。

先週、イスラエルが二人の重要な人物を暗殺しました。ハマスの中心的人物ハニヤと、ヒズボラの首領です。それで大きく戦火が中東に広がろうとしています。私たちにとっても、対岸の火事では済まされない出来事です。
今後の歴史がどうなるのか、それはクリスチャンの祈りにかかっていると言っても過言ではありません。なぜなら主を信じる者たちは、世界の管理人だからです。
今日読んでいただきました聖書のみことば、

“シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”

エルサレムに行くと、何千年も前の遺跡が残っています。
ダビデが作った「ダビデの塔」や城壁も見えます。詩篇の作者は、「塔の数を数えろ」と言いました。昔はもっと多くあったのです。そして「城壁に心を留めろ」「宮殿を巡り歩け」と言いました。これは何を意味するのでしょうか。塔も城壁も、王の宮殿も、全て過去に起こった戦いと関わりがあります。
「過去に、街に、どんな戦いがあったのか、忘れるな!」ということです。しかし、「神が街を守ってくれた。それを忘れないで、後の時代に語り告げろ!」と勧めています。そうしたら、「神は民を世代を越え、死を越えて導いてくださる。」という約束です。

人類は悲しいことに、有史以来、ずっと戦っています。人間同士が殺し合っているのです。どうしてでしょうか。理由は、民族が違うとか、習慣が違うとか、歴史が違うとか、利益が相反するとかで戦うわけです。
戦争には必ず、経済的理由があります。誰かが戦争で儲けるのです。最も儲けるのは武器商人たちです。新型コロナのせいで長く戦争がなく、武器商人達の倉庫には在庫が蓄積していました。しかし今回の戦争で兵器の棚卸ができ、新しい兵器が飛ぶように売れています。

けれども戦争は、根本的には「霊的問題」です。それは人間の本質との関わりがあります。
人間は、なぜ、創造されたのか。詩篇八篇でダビデが神から教えられて述べています。

詩編八篇
一 私たちの主、【主】よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
二 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
三 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
四 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
五 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
六 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
七 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
八 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
九 私たちの主、【主】よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

二節で、『敵と復讐する者とをしずめるため』と記されています。そして六節には、『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』とあります。聖書全体から言えることですが、「人とは何者?」 ・・・それは、「悪魔・悪霊どもと戦う戦士」です。霊的戦いのために人は創造されているのです。
同時に、人は神が造られた被造物を管理する「管理人」として造られました。人間は他の生物とは違って、生態系の中で、最も重要なポジションとして造られました。

そんな人類に与えられた機能を恐れ、嫌がっている存在がいます。それは神に敵対する勢力、「悪魔と悪霊ども」です。

現在、世界に起きている問題は一言で言えば、「霊的問題」です。最近、元FOXニュースのアンカーマンだった、タッカー・カールソンが、「今、世界に起こっていることは、政治的なことじゃない。霊的戦いだ。人類には共通の敵がいる!」と語り、話題となりました。彼は、世界情勢をいろいろ調べて、これは人事ではない、霊的問題だ!と気づいたのです。
戦争で誰が得するのでしょうか。太平洋戦争で日本人は三百三十万人が犠牲となりました。ほんの一握りの人たちの利益と決断が、多くの人たちの命を奪い、苦しめるのです。

戦争はなぜ悪なのか。特に、多くの若者たちの命が奪われることです。

神は人類を悪魔・悪霊どもと戦う戦士として、一人ひとりに計画を持って造られました。人は、人生のすべてをもって神の計画を実現させて行きます。しかし人生の初期で死ねば、神のみ心は中途で頓挫し、完全には実現しないのです。その結果、天のエルサレムは地上に、なかなか降りることはできません。
悪魔が世界を支配し続けるためには、戦争が必要です。人間同士が戦っていさえすれば、放っておいても、悪魔の王国は維持されるからです。
しかし、元々、人は戦いの戦士です。人類が真の敵に気づいて、見えない敵に立ち向かったら、彼らは一発でノックアウトされるはずです。被造物も生き生きと、主を賛美しながら存在するはずです。

私たちの戦いは、「血肉の戦いではない」のです。日々、歴史の只中で起こっている事柄は、霊的世界と繋がりがあります。人の歴史はそれをどのぐらい意識できるのかにかかっています。

私たちは「偶然」という言葉をよく使います。「いやぁ、偶然にこうなっちゃってね・・」と。しかし「偶然」ほど、背後に見えない世界の関わりが深い現実はないのかも知れません。そのことを聖書は告げています。

第二歴代誌十八章に、ヨシャパテというユダの王が出ています。この王は神に仕えた素晴らしい王でした。しかし、北イスラエルはアハブという、極悪王が支配していました。
ヨシャパテ王は、神から富と誉れが豊かに与えられていたのですが、ある時、北の王アハブと縁を結んだのです。これは、人間的な決断によると思われます。
しかし、そのとき見えない世界で変化が起こりました。十八節から見ると、

“すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、イスラエルの王アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、ある者は一つの案を述べ、他の者は別の案を述べました。”

ある者が一つの案を述べ、他の者は別の案を述べたとあります。しかしこれは地上の会議の様子ではないのです。見えない世界での会議風景です。

“それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」”

ミカヤという預言者が見えない世界で起こっている事柄を解説しました。しかし、アハブはその忠告を受け入れませんでした。
歴代誌 第二 十八章二十九~三十一節、

“そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、「あれはイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。”

アハブは、「アラムを攻めてはいけない!」とミカヤに忠告されたのですが、アハブはヨシャパテ王を巻き込んで、アラムの王と戦おうと出て行きました。
しかし、アハブはちょっと心配になったみたいです。当時の戦争は、王を倒せば勝敗が決まるというものでした。兵士たちより、標的は王でした。
そして、当時の戦争のルールとして、王たちは王服を着て戦場に出ました。設楽が原の戦いも同様でした。将軍たちは自らの地位を現す格好をしていました。敵から狙われるけれど、それは強さのシンボルでもありました。
アハブは、「私は変装して戦いに行こう。でもあなたは自分の王服を着てください」と言いました。汚いですね。アハブは狙われないように王服を着ないで戦場に出たのです。
案の定、戦車隊長たちはヨシャパテを見て、「あれはイスラエルの王に違いない」と接近しました。
しかし、ヨシャパテは敵に取り囲まれたとき、助けを叫び求めました。神に助けを求めたのです。そのときに主は彼を助けられました。「神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。」とあります。ここに神の助けがあります。ヨシャパテは神に従っていましたから、危機的なときにも守られたわけです。

しかし、その次です。歴代誌 第二 十八章三十二~三十四節、

“戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。”

イスラエルの王、アハブは、一人の兵士が何気なく放った弓によって倒されたのです。通常、敵に狙いを定めて矢を放つわけですが、兵士が「何気なく」放った矢が変装している王に命中したのです。それも、胸当てと草摺の間、ちょうど継ぎ目の弱点に命中したのです。その結果、王は倒れて、天での計画が、地に実現したのです。
これこそ、一般的に言ったら偶然の偶然です。しかしそれは偶然ではなかったのです。天の会議で神と天使、そして悪しき天使たちの会合によって決定づけられた結果でした。イスラエルの王・アハブを倒す、天での練密な計画が、地上に実現したのです。それも、偶然としか言いようもない方法で実現したのです。

人生の中でも偶然というようなことが多くあります。やがて神さまと出会って、「あれは偶然じゃなかったよ」と聞かされて驚くことでしょう。

先日、アメリカの大統領候補のトランプが狙撃されました。しかし、彼はギリギリで助かりました。
弾丸がわずか六ミリそれたことによって助かったのです。あと少し右にずれていたら、彼は頭を撃ち抜かれて即死だったと思われます。彼は「神に助けられた!」と話していましたが、本当にそうだと思います。偶然ではないわけです。